序章 霧の彼方
夜も随分と更けていた。
時折、篝火の薪が爆ぜる音が響き、夜番の兵が低い声で言葉を交わしている。それ以外は、明日この地で大戦が始まるとは思えないほど静かだった。
俺、清重大和は、卓上に広げられた地図へ目を落とす。
妻女山。八幡原。千曲川。犀川。
もう何度見たか分からない。敵がどこから来るか。こちらがどう動くか。兵をどこへ置き、いつ動かすか。頭の中には、この土地の形も軍勢の配置もすっかり染みついている。
それでも地図から目を離せなかった。
指先で妻女山をなぞり、次に八幡原を見る。もう一度戻り、また同じ場所を辿る。何度見ても、何度考えても、最後に辿り着く答えは一つだった。
この戦で、山本勘助は死ぬ。
第四次川中島合戦。
上杉政虎との決戦。啄木鳥戦法。そして、山本勘助晴幸の最期。
俺がまだ高校生だった頃から知っていた歴史だった。
戦国の世へ迷い込み、本人と出会い、師と仰ぎ、幾つもの戦場を共に駆けても、その結末だけは変わらない。
俺は地図を畳んだ。
息苦しかった。
陣幕を出ると、冷たい空気が一気に肺へ入り込む。俺はそのまま人の少ない方へ歩いた。眠るつもりなどなかった。ただ、あの地図を見続けていることに耐えられなかった。
陣から僅かに離れたところに、小さな土手があった。眼下には霧に覆われた川が流れている。俺はそこへ腰を下ろし、膝を立てた。
白い霧の向こうで水音だけが聞こえる。
「そこにおったか」
聞き慣れた声が背後からした。
俺は振り返った。
片眼。不自由な脚。何度見ても、お世辞にも武者らしい美丈夫とは言えぬ風貌。
けれど俺は知っている。
この男ほど、戦場で恐ろしい人間はいない。
山本勘助。俺の師。
そして、この日の終わりに命を落とす男。
「勘助殿」
「陣幕におらぬと思えば、このような所で何をしておる」
「少し、風に当たりたくなりまして」
「嘘を申せ」
「何故そう思われるのです」
「お主があの地図を何度も睨みつけておったからじゃ」
「見ておられたのですか」
「穴でも開けるつもりかと思うたわ」
「開きませぬよ」
「ならば、睨んだところで敵の配置が変わるか?」
「変わってくれれば楽なのですがな」
「はは。違いない」
勘助は笑い、俺の隣へ腰を下ろした。
「……何じゃ、その面は。死人でも見るような顔をしおって」
「戦の前に、そのような戯れ言を申されるものではありませぬ故」
俺は努めて平静に返す。
勘助は俺の顔をしばらく眺めた後、鼻で笑った。
「何を今更。戦場に立っておる以上、死人になる覚悟くらいとうに出来ておろう」
「勘助殿の場合、戯言には聞こえませぬ故」
「ほう。昔はわしが刀を抜いただけで、今にも泣きそうな顔をしておった小僧が言うようになったものじゃ」
「いつの話をなさっておられるのです」
「昨日のことのように覚えておるぞ」
「それは勘助殿が執念深いだけにございましょうな」
「誰が執念深いと?」
勘助が目を細める。俺はわざと視線を逸らす。
勘助は一瞬呆れたような顔をして、それから声を上げて笑うのだった。
「ははは! 随分と口も達者になったものよ」
「師が良かったのでしょう」
「軍略はともかく、減らず口まで教えた覚えはないぞ」
「ならば、儂の天賦の才ということで」
「それだけは認めたくないの」
俺も小さく笑った。
何度交わしたか分からないやり取りだった。
戦の前も。戦の後も。勝った日も。敗れた日も。俺たちは、こうしてくだらない言葉を交わしてきた。
だからこそ、この瞬間だけは、この先に待つ未来を忘れてしまいたかった。
それから暫く、二人とも何も言わなかった。
霧の中を流れる川を眺める。
こうして勘助と二人きりでいる時ですら、大抵は戦の話になった。地形。兵糧。敵の心理。どの武将がどの程度の兵を動かせるか。
だから、次に勘助の口から出た言葉は意外なものだった。
「大和。お主のいた世は、どのような所であった」
「……また随分と唐突ですな」
「前から何度も聞いておるが、どうにも分からぬことばかりでな」
「何を今更」
「今宵は暇じゃ。明日の話ばかりしていても仕方あるまい」
明日の話。
その言葉が僅かに胸へ引っ掛かった。
だが、俺は気づかないふりをした。
「では、何をお聞きになりたいので?」
「そうじゃな……お主の世では、夜でも町が明るいのであったな」
「ええ。大きな町ならば、夜であろうと随分明るうございます」
「火を焚いておるのか」
「電気というものを使います」
「でんき」
勘助はその言葉を、妙に楽しそうに繰り返した。
「でんき、とは一体何じゃ」
「……それを一から説明せよと言われると、儂にも分かりませぬ」
「先の世から来たくせにか?」
「先の世の者が、皆すべての道具を作れるわけではありませぬよ」
「なんじゃ。先の世の者も存外大したことがないの」
「勘助殿にだけは言われたくありませぬな」
その言葉に、勘助が声を上げて笑う。
「馬より速い乗り物もあるのだろう」
「車にございます」
「鉄の塊が鳥の如く空を飛ぶ、船より速う海を渡る」
「飛行機ならば」
「それはどういう仕組みじゃ」
「ですから、それを儂に説明させないでくだされ」
「知らぬことばかりではないか」
「勘助殿だって、この刀を一から鍛えろと言われても無理でしょう」
「刀鍛冶を呼べばよい」
「そういう話ではございませぬ」
勘助がまた笑った。
この人は未来の道具の話を好んだ。
もっとも、何を話しても最後には戦へと結びつける。
「遠く離れた者とも話せるのであったな」
「電話ですな」
「甲斐から越後にいる者とも?」
「相手も持っていれば」
「ならば、戦場から御屋形様へ一瞬で戦況を伝えられる」
「また戦に使おうとしている」
「使えるものを戦に使わぬ軍師がおるか」
「未来へ行ってまで軍師をなさるつもりですか」
「他に出来ることもないからの」
「捕まりますよ」
「何故じゃ」
「刀を腰に差して歩いております故」
勘助は不満そうに口を曲げた。
「随分と窮屈な世じゃな」
「刀を持ち歩く必要がない世なのです」
「……そうであったな」
声色が少し変わった。勘助は川へ目を向ける。
「お主の国には、戦がない」
「少なくとも、儂の暮らしていた頃の日本では」
「百姓が兵に取られることもない」
「ございませぬ」
「領主同士が土地を奪い合うことも」
「ございません」
「子が、明日の飯のために人を殺すことも?」
俺は少しだけ考えた。
「……この時代ほどには」
完全に争いのない世界ではない。犯罪だってあった。父さんも警察官だったから、そういう世界と無縁だったわけではない。
それでも。少なくとも俺は、朝起きた時に今日殺されるかもしれないなどと考えたことはなかった。
「そうか、それは良き世じゃな」
その一言が、妙に胸へ刺さった。
「……そうかもしれませぬ」
「何じゃ。その世で生まれた者が随分と他人事ではないか」
「住んでいた頃は、そんなこと考えたこともありませんでしたから」
俺は苦笑した。
朝起きる。学校へ行く。授業を受ける。
昼になればクラスメイトとくだらない話をする。
放課後には剣道場で竹刀を振る。
家へ帰る。眠る。
翌朝になれば、また同じ一日が始まる。
あの頃の俺にとって、それは当たり前だった。
「お主は、先の世では何をしておった」
「普通の高校生です」
「こうこうせい」
「学問をしておりました」
「寺子屋のようなものか?」
「似てはおりますが……もっと多くの者が通います。儂の組だけでも三十人ほど」
「三十?」
「皆、同じくらいの歳です」
「皆が学問をするのか」
「ええ」
「侍の子だけではなく?」
「皆です。男も女も。家が何をしていようと、子供は学校へ通うのが普通でした」
勘助が僅かに目を見開いた。
「皆が文字を読めるのか」
「ほとんどは」
「百姓の子も」
「ええ」
勘助は少し黙った。
「……やはり、良き世じゃ」
今度は先ほどより静かな声だった。
俺も霧の向こうを見つめた。
「儂は、嫌いではありませんでした」
「では、好きだったか?」
「どうでしょうな」
「何じゃそれは」
「当たり前すぎたのでしょう。学校へ行くのも、飯があるのも、明日が来るのも。なくして分かったことばかりです」
俺がそう言うと、勘助は何も返さなかった。
暫く、水の流れる音だけが続いた。
「戻りたいか」
不意に訊かれた。
俺はすぐには答えられなかった。
昔ならば、迷わなかった。
帰りたい。帰りたい。
一日でも早く。何を犠牲にしてでも。
だが今は、その言葉が喉の奥で止まる。
「……分かりませぬ」
「分からぬか」
「帰りたいとは思います。倉田も、先生も、皆を帰したい。父も……元いた時へ戻さねばなりませぬ」
「ならば、お主も戻ればよい」
「……」
答えられなかった。
勘助は横目で俺を見て、微笑む。
「此方にも、捨て難きものが出来たということか」
「……勝手に人の腹を読まないでくだされ」
「わしを誰だと思うておる」
「意地の悪い老人」
「誰が老人じゃ」
「儂よりは十分に」
「お主とて随分老けたぞ。山で拾うた頃は髭などなかったではないか」
「十余年も経てば生えますよ」
そう答えてから、ふと黙った。
十余年。口にすれば、それだけの時間が過ぎたのだと改めて思い知らされる。
高校生だった俺を拾った男が、今も隣にいる。
これほど長く一緒にいた。なのに。
明日にはいなくなる。
「大和」
「……はい」
「お主は、先の世を守ろうとしておるのだな」
俺は顔を上げた。
勘助は川を見ている。
「板垣殿の時も。甘利殿の時も」
「勘助殿」
「お主は助けられなかったのではない。助けてはならぬと思うた」
俺は俯いた。
地面に落ちた霧の雫が、僅かな月明かりを反射している。
「......今更掘り返すなど、性が悪いですな」
「今更故に、だ」
勘助は笑ったが、俺には笑えなかった。
板垣信方。甘利虎泰。
今でも顔を覚えている。
声も。笑い方も。
俺たちを受け入れてくれたことも。
そして、俺が助けなかったことも。
「何故そこまでして、歴史とやらを守ろうとする」
「……」
「わしには、未だ分からぬ」
俺は長いこと黙った。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「怖いのです」
「怖い?」
「歴史を変えることが」
俺は両手を組んだ。
「儂等は、この時代に本来いなかった者です。何か一つ変えるだけで、その先がどうなるか分からない。生まれるはずだった者が生まれなくなるかもしれない。倉田も。先生も。儂自身も」
勘助は黙って聞いていた。
「儂がいた時代は、無数の出来事が積み重なった先にあります。故に……変えてはならないと思っています」
「思っておる?」
俺は言葉を詰まらせる。
勘助の片眼がこちらを見ていた。
誤魔化せないと、俺は苦笑する。
「……違いますな。変えない方が正しかったかなど分からない。ただ、変えてしまった末に、どうなるかが怖い。それだけなのかもしれませぬ」
「なるほどの」
「笑いますか」
「何故笑うことがある」
「先を知っておきながら、何も出来ぬ臆病者に見えませぬか」
「ならば、お主があの者らを死なせたことも、臆病故か?」
返事が出来ない。
勘助はそれ以上追及しなかった。
「大和。お主は己が何も変えておらぬと思うておるのか」
「……え?」
「わしは、お主と出会った。御屋形様も、板垣殿も、甘利殿も、お主と出会った。お主がこの世へ来た時点で、既に何かは変わっておる」
「ですが」
「されど、お主は守ろうとする。それもまた、お主が選んだことじゃ。ならば背負え。守った歴史も。変えてしまった歴史も。救った命も。見捨てた命も。己が選んだのならば、最後まで背負えばよい」
その時の俺には、何も返せなかった。
ただ、その言葉だけが胸の奥に残った。
それから俺たちは、また未来の話をした。
重い話は、それきりだった。
電車という長い鉄の箱が何百人もの人間を乗せて走ること。海の向こうの国まで半日もかからず行けること。小さな板一枚で遠くの人間と話し、文字を送り、絵まで見ることが出来ること。
テレビの話をすると、勘助は「箱の中に人がおるのか」と真顔で訊いた。
「おりませぬ」
「では何故、人が見える」
「映像です」
「えいぞう」
「……これも説明すると長くなります」
「お主、何一つ説明出来ぬではないか」
「使い方なら分かりますよ」
「それを知っておるとは言わぬ」
「未来人への期待が大きすぎるのです」
学校の話もした。
授業のこと。体育祭。文化祭。修学旅行。
昼休みに倉田と最後の焼きそばパンを取り合ったことまで話した。
「それで、お主は食えたのか」
「横から取られました」
「間抜けじゃな」
「じゃんけんを提案した倉田が悪いのです」
「戦場であれば食い物を失った時点で敗北じゃ」
「焼きそばパンを戦に例えないでくだされ」
勘助は随分楽しそうに笑った。
俺も笑った。気づけば、長い夜が少しずつ終わろうとしていた。
東の空が白み始める。
暗闇の中では灰色だった霧が、徐々に白へ変わっていく。
遠くの陣からも物音が聞こえ始めた。馬の嘶き。武具の触れ合う音。起き出した兵たちの声。
武田の陣が目を覚まし始めている。
「朝ですな」
「ああ、随分と話したものよ」
「殆ど勘助殿が質問しておられたのでしょう」
「お主も楽しそうであったぞ」
「そうでしたか」
「そうじゃ」
勘助が立ち上がる。俺も続いた。
「戻るぞ」
「はい」
二人で並んで陣へ歩き始めた。
霧は朝になっても深い。
暫く歩いたところで、勘助が不意に口を開いた。
「一度、見てみたかったの」
俺は勘助を見る。
「何をです?」
「お主の世をじゃ」
勘助は前を向いたまま歩いている。
「鉄の箱が走り、夜でも昼のように明るく、男も女も皆が学問をする世。人が刀を持たずとも生きてゆける世。お主が育った、その世を」
俺は何も言えなかった。
喉の奥が詰まる。
奥底にある感情を、勘助は訊かなかった。
「……勘助殿なら、馴染めませぬよ」
「何故じゃ」
「刀を差して歩けば捕まります」
「先ほども聞いたわ」
「それに戦もありませぬ」
「つまらぬ」
「良き世だと仰ったではありませんか」
「良き世と面白き世は別じゃ」
「我儘ですな」
「老人故にな」
「自分で認めるのですか」
そして数歩。
勘助が突然、足を止めた。
「大和」
今までとは違う声だった。
「……何にございましょう」
勘助は懐へ手を入れた。
取り出したのは、一本の采配。
それは、彼の手に馴染むほど見慣れたものだった。
勘助の声色が変わったことを察し、俺も表情を戻す。
どこへ兵を動かすか。どこで退くか。
誰を生かし、誰を切り捨てるか。
戦場において、勘助の意志そのものともいえる物。それを、彼は俺へ差し出した。
「持て」
「……何故」
「分からぬか」
「分かりませぬ」
「嘘を申せ」
「……」
穏やかな声だった。怒気もない。けれど、その声を聞いた瞬間、俺は全てを悟ってしまった。
今日が何の日なのか。此処がどこなのか。この後、何が起こるのか。俺は知っている。
第四次川中島合戦。
何年も前から知っていた。
それでも今日まで、見ないふりをしてきた。
「……お受けできませぬ」
「大和」
「その采配は、勘助殿がお持ちになるべき物にございます」
「ならぬ」
「何故に」
「これより先、それを持つべきはお主じゃ」
「儂にはまだ――」
「早くはない」
言葉を遮られ、俺は息を詰まらせた。
「お主はもう、一人で戦場を見られる。兵の動きを読み、敵の腹を読み、人の心を読むことができる」
そう述べ、勘助は一歩近づく。
「軍師とは、勝つ者のことではない。己が策によって生きた者。己が命によって死んだ者。味方も、敵も、その全てを背負う者じゃ」
胸の奥が痛む。
板垣信方。甘利虎泰。
幾つもの顔が浮かんでは消えた。
歴史を守るために。
未来を守るために。
俺自身が、助けられる命を見捨てた。死へ向かわせた。その記憶だけは、何年経っても薄れなかった。
「お主はもう知っておる。その重さを」
「……」
「だからこそ、任せられる」
差し出された采配を見る。
あと少し手を伸ばせば届く。
なのに、どうしても手を伸ばせなかった。
「嫌だ」
自分の声に、自分自身が驚いた。
勘助の目が僅かに見開かれる。
戦国の世へ来てから、いつの間にか使わなくなっていた。高校生だった頃の、昔の俺の喋り方。
「……そんなの、いらないです」
「大和」
「自分で持っててくださいよ!!」
声が震える。
止められなかった。
「......おれ、まだ教わってないこと、いっぱいあるんですけど」
勘助は黙っている。
「勝手に、全部教え終わったみたいな顔しないでください......!囲碁だって、まだ一回もちゃんと勝ててないし」
「それはお主が弱いからじゃ」
「そういうことを言ってるんじゃない!!!」
声が荒くなる。
もう駄目だった。
何年もかけて身につけた言葉遣いも。
武田家臣としての振る舞いも。
軍師としての顔も。
全部、崩れていく。
「まだ……まだ、死なないでくださいよ」
勘助は何も言わなかった。
霧の中で、ただ俺を見ていた。
やがて、ほんの僅かに、口元が緩む。
「……久しいの」
「......何がですか」
「その喋り方じゃ。山中で拾うた頃と、何も変わっておらぬ」
「……変わりましたよ」
「そうか?」
「変わりました」
「ならば、何故そのような顔をしておる」
「……霧が目に入ったんです」
「随分と便利な霧じゃな」
「うるさい」
勘助が笑った。俺も笑おうとした。
けれど、上手く笑えなかった。
「大和」
「……はい」
「わしは、お主を拾うて良かったと思うておる」
その言葉に、俺は何も返せなかった。
「最初は何とも面倒な小僧を拾ったものだと思ったがの」
「それ、今言います?」
「今故に申す。されど、お主は、わしの知らぬものを幾つも見せてくれた。未来とやらも、戦の先にあるものも。そして」
そう言い、勘助は再び采配を差し出す。
「お主が辿り着く、その先の世も」
俺は、今度こそ手を伸ばした。
震える指が、采配に触れる。
「これより、その名はお主のものじゃ」
「……え?」
「山本勘助、その名を、お主にくれてやる」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「何じゃ」
「俺は清重大和です」
「それは知っておる。清重大和のまま、山本勘助になればよい」
「意味分かんないですよ」
「名など、人が人を呼ぶためのものに過ぎぬ。大事なのは、その名で何を成すかじゃ」
霧が、少しずつ薄れていく。
その先に、幾つもの旗が見えた。
上杉家の旗印。
戦が始まる。それを察し、勘助は背を向けた。
「待ってください」
返事はない。
「勘助殿」
一歩。また一歩。遠ざかっていく。
「……待ってよ」
俺は追えなかった。
知っているからではない。
歴史を守らなければならないからでもない。
分かってしまったのだ。
これは、この人が俺へ与えた、最後の命なのだと。
「勘助っっ!!」
俺は叫ぶ。
それは、昔の俺のままの声だった。
勘助が足を止める。振り返らない。
「俺は……俺は、あんたみたいになれますか」
握った采配が震える。
暫しの沈黙。やがて、霧の向こうから声がした。
「馬鹿者、わしになる必要などない。お主は、お主の思う軍師になればよい。ただそれだけじゃ」
いつもの声。胸が締めつけられる。
その言葉を最後に、山本勘助の姿は、白濁の彼方へ消えた。
俺は、ただ一人そこに立ち尽くした。
手の中には、師より受け継いだ采配。
――思えば、全ては、あの日から始まっていた。
まだ俺が、清重大和という名の高校生でしかなかった頃。
倉田と馬鹿な話をして。
田辺先生に稽古をつけてもらい。
父さんの背中を追いかけて。
明日も今日と同じ日が来るのだと、
何の疑いもなく信じていた頃。
二〇二六年九月十七日。木曜日。
午後二時十八分
俺たちの日常が、黒い霧の彼方へ消えた日のこと。
*
二〇二六年九月十七日
午後〇時三十一分
「大和、焼きそばパン最後の一個だぞ」
二年B組、クラスメイトであり友人である、倉田陽介が言った。
俺は購買の棚を見る。
確かに一つだけ残っている。
「じゃんけんで決めようぜ」
「望むところだ」
俺たちは右手を構えた。
「最初は――」
その瞬間。横から伸びた手が、焼きそばパンをさらっていった。
「いただき」
女子生徒が去っていく。
俺と倉田は、黙ってその背中を見送った。
「……お前がじゃんけんとか言うから」
「......すまん」
俺たちは笑った。
何処にでもある、ただの木曜日だった。
授業があって。友達がいて。先生がいて。放課後には部活がある。
明日もまた、学校へ来る。
俺たちは、それを疑ったことすらなかった。
午後の地域学習で訪れる資料館から、帰れなくなることも。
死んだはずの父と、まだ俺の生まれていない時代で再会することも。
山本勘助という男に拾われ、軍師として戦場に立つことも。
歴史を守るために、大切な人を死へ向かわせることも。
そして、俺自身が、山本勘助という名を継ぐことも。
この時の俺は、何一つ知らなかった。




