背水の川、鉄の葬列
小前田大尉の死を乗り越え、凪が再編した大隊の兵力は、霧の中から集結した生存者を含めてわずか三百五十名。かつての大隊の面影は薄く、生き残った者たちは皆、極限の疲労と戦い続けてきた獣のような眼光を宿していた。
彼らが選んだ最後の戦地は、濁流が渦巻く巨大な河川のほとりだった。敵軍の師団は、この川を渡らなければ本隊を追撃できない。凪は地図を広げ、震える手で川にかかる唯一の橋を指差した。
「橋は爆破しない。敵が渡橋を開始し、最大限に密度が高まった瞬間まで、この鉄の架け橋を無傷で残す」
凪の指揮は、極めて非情で、そして論理的だった。敵を正面の一点に集中させ、そこに全火力を叩き込む。それが師団という怪物を前にした、唯一の勝機だった。
午前八時、霧の向こうから共和国軍の戦車師団がその姿を現した。
彼らは橋を渡るために隊列を組む。その瞬間、凪の合図とともに、皇族から賜った重砲が一斉に火を噴いた。
川の中央に位置した橋の上は、瞬く間に地獄と化した。砲弾が直撃するたびに、敵の戦車は鉄屑となり、兵士は肉塊となって川へ散る。まさに「ミンチ」と呼ぶに相応しい光景だった。
しかし、砲弾の供給には限りがある。重砲が沈黙し、敵の歩兵が橋の中腹まで肉薄したとき、凪は無表情のまま起爆スイッチを押した。
轟音とともに橋が分断され、多くの敵兵が濁流に呑み込まれる。だが、敵は止まらない。無理やり渡河を強行する敵兵に対し、凪たちは川沿いに構築した塹壕から、冷徹に鉛の弾丸を撃ち込み続けた。
冴島加奈准尉は、銃剣を手に塹壕の縁で戦っていた。
届いたばかりの潤沢な弾薬と食料。それが彼女を、かろうじて戦場に繋ぎ止めていた。
「少尉、敵の数が減りません! このままでは……!」
「耐えてください、加奈。私たちの目的は撃退ではなく、味方本隊の防衛陣形が完成するまでの時間稼ぎです」
だが、多勢に無勢。三百五十名という兵力は、師団規模の波状攻撃の前ではあまりに小さすぎた。味方の塹壕は一つ、また一つと奪われ、戦線は次第に縮小していく。絶望的な消耗戦。弾薬が尽きれば、彼らに残されているのはナイフと銃剣、そして死のみ。
正午過ぎ、さらなる凶報が届いた。
血を流しながら駆け込んできた斥候が、地面に突っ伏して叫ぶ。
「少尉!……後方から、敵の別働隊が迫っています! このままでは挟み撃ちです!」
包囲網が完成しようとしていた。川岸という閉ざされた場所で、前後から師団に挟まれれば、全滅は避けられない。
凪は、遠くで響く敵の戦車音を聞きながら、静かに銃剣を磨いた。稲生軍曹が傍らで、泥だらけの顔を歪めて笑う。
「コーヒー、まだ飲んでませんからね、少尉」
「ええ。だからこそ、ここで彼らの足を止めます。……別働隊は、私が食い止める」
凪は、残存兵力の一部を稲生軍曹に預け、自身は別働隊を迎え撃つための「死の部隊」を率いることを決意した。
それは、合理的な計算を捨て去った、純然たる狂気の一撃だった。
凪は白夜の隣に立ち、敵の別働隊が展開する丘を見つめる。
白夜は低く唸り、闇を纏ったように静かに佇んでいる。凪は最後に一度だけ、故郷の温室の穏やかな光を思い出した。しかし、今はその代わりに、泥と血、そして勝利の予感に満ちたこの冷たい戦場の空気があった。
「別働隊を壊滅させれば、師団全体の足並みが乱れる。そうなれば……本隊の生存率は飛躍的に向上する」
凪の指揮下にある者たちは、もう死を恐れてはいなかった。
彼らは加瀬凪という「生存の最適解」を信じ、地獄のど真ん中へ突撃を開始する。
銃剣が閃き、血が舞う。川沿いの塹壕から聞こえる稲生軍曹の怒号が、凪の背中を押した。
絶望的な戦場。しかし、凪の瞳には、まだ誰も見ていない勝利の青写真があった。コーヒーの苦い香りと、温かな休息の記憶。それを現実のものにするために、凪は再び戦場という名の地獄へ、その身を投じていった。
背後で橋が焼け落ちる音が聞こえた。退路はない。




