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帝国軍の冷徹な少尉は、泥と死地を計算で乗り越える ~蛟龍を使役し、無能な上官を捨てて生き残る~  作者: ルツ


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5/10

砂上の数式と、狂気の夜襲

遺棄された公民館の空気は、鉛のように重く淀んでいた。午前二時、帝国軍の最後の防衛線は、崩壊の瀬戸際にあった。

 斥候が運んできた情報は、まさに死刑宣告そのものだった。敵主力、師団規模。重砲兵大隊を随伴し、あと二時間でこの拠点を焦土と化す――。小前田大尉が血を吐く思いで組んだ防衛計画は、その一言ですべて灰燼に帰した。

「師団相手に、この公民館で足止めだと? 笑わせるな。……これは撤退支援じゃねえ。ただの集団自殺だ」

 小前田は、灰皿から溢れ落ちた吸い殻の山を睨みつけ、苛立ちをぶつけるように最後の一本を揉み消した。天幕の外では、死を覚悟した兵たちが、各々の方法で最期の準備を進めている。彼らは帝国のために戦っているのではない。ただ、この地獄から生還するという意地のためだけに、震える手で銃を整備していた。

 その沈黙を破ったのは、凪の冷徹な声だった。彼女は土の上に刻んだ幾何学的な図形を、小枝でなぞりながら語りかける。

「大尉、師団規模の進軍は、皮肉にも彼ら自身を縛り付ける鎖になります。補給線は過密化し、野営地では警備が手薄になる。ここで大隊全兵力を持って夜襲をかける。混乱に乗じて敵の中枢を突き、後方の予備隊の陣形を崩す。……これが私たちの勝ち筋です」

 凪の提案は狂気じみていた。しかし、小前田はその狂気の中に、冷徹なまでの生存の論理を見た。

 作戦は決定した。凪は臨時第三小隊長として夜襲の先頭を走り、その後、師団を引きつける囮となる。副官には冴島加奈准尉。そして、大隊の兵たちから絶大な信頼を寄せられ、叩き上げの精神を体現する稲生軍曹が、凪の補佐としてこの決死の行軍に加わった。

 出発直前の慌ただしい準備の中、天幕の影で稲生軍曹が凪に歩み寄った。彼は泥のついた軍服を払い、不器用な笑顔を浮かべて、持っていた乾パンを差し出した。

「少尉、あんたの計算はいつも正しい。……だがな、たまには理屈抜きで、生き延びることだけを考えてくれ」

 稲生は少し照れくさそうに頭をかいた。

「この作戦、間違いなく地獄だ。だが、お前ら生き残れよ。……生き残ったら、俺が自腹で最高級の酒を奢ってやる。たらふく飲んで、戦場のことは忘れようぜ」

 凪は一瞬目を丸くし、それから微かな困惑を浮かべた。彼女にとって、酒という未知の飲み物は、理性という防壁を崩す非合理的な毒物に近いものだった。

「稲生軍曹。……私は、酒は飲みません」

 凪は淡々と言ったが、すぐに少しだけ目線を外し、白夜の冷たい鱗へと手を伸ばした。彼女なりの、精一杯の不器用な返答だった。

「私は酒の代わりに、美味しいコーヒーを頂きます。……ですから、生き残ったら、その時はコーヒーを。それから、稲生軍曹の部下たち全員分もご馳走してください。それが生き残ったことへの対価です」

 周囲でそれを聞いていた兵たちが、吹き出したように笑い声を上げた。張り詰めていた空気が、わずかに緩む。ただの酒盛りの約束ではなく、「全員で生きて帰る」という共有の目標が、兵士たちの心に灯をともしたのだ。

「へっ、コーヒーか。洒落たもんだ。わかった、全員分、死ぬほど淹れてやるよ!」

 稲生が力強く胸を叩くと、兵たちの目から死の影が消え、戦うための狂気が宿った。凪は、自分の言葉がこれほどまでに兵の士気を昂らせることを初めて知った。計算ではじき出した生存確率よりも、今のこの言葉の方が、彼らを明日へ導く鍵になるのかもしれない。

 午前三時。夜闇の中、白夜の銀色の鱗が鈍く光を反射する。

 第三小隊は、敵師団の野営地へと音もなく潜入した。凪は脳内で敵の配置と白夜の軌道を重ね合わせる。

「これより、共和国軍補給路を逆走する。師団の目を引きつけ、彼らを沼地へ誘い込む。……準備はいいですね」

 凪の一言に、全員が力強い敬礼で応えた。

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