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帝国軍の冷徹な少尉は、泥と死地を計算で乗り越える ~蛟龍を使役し、無能な上官を捨てて生き残る~  作者: ルツ


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公民館の残骸と、不自由な軍令

深い霧が森を支配し、帝国軍の命運を覆い隠していた。その霧を縫い、加瀬凪と三十一名の生存者たちは、ようやく防衛線付近の拠点へとたどり着いた。

 彼らが身を寄せたのは、かつてこの地を統治していた帝国の遺産、放棄された公民館である。壁は砲撃で無残に穿たれ、天井からは鉄骨とコンクリートの残骸が死刑執行人の首縄のように垂れ下がっている。そこには、別働隊として生き残った兵たちを辛うじて糾合していた、一個大隊の残党が澱のように溜まっていた。

 大隊長の名は小前田大尉。

 叩き上げでその地位まで上り詰めた彼は、戦場を知り尽くした荒くれ者だ。口は悪いが、無能な上層部の無茶ぶりに抗いながらも、最後には兵を死なせないための苦渋の選択を下す、凪にとっては数少ない「話の通じる」理解者でもあった。

 小前田は、泥にまみれ、影のように静かに現れた凪の姿を認めると、苦虫を百匹も噛み潰したような顔で、自身の天幕へと彼女を招き入れた。

「……死んだと思っていたぞ、加瀬少尉。おまけに、その厄介な獣まで連れてな」

 天幕の奥で、小前田は山積みの戦況地図を無造作に蹴飛ばした。彼の指揮下にあるこの大隊は、もはや正規の組織としての機能を半ば失っている。

 ちなみに、凪が従える白夜びゃくやは、帝国北方の峻険な山脈に生息する伝説の獣である。かつて凪を救い、育てたこの獣は、鋼のような硬度を誇る白銀の鱗を持つが、決して人間を襲うことはない。ただ、その圧倒的な威圧感と、瞬きもせずに敵の喉元を切り裂く獰猛さから、真実を知らない兵士たちは彼女を「人食い龍」ではないかと密かに恐れ、近づこうとしなかった。

「加瀬隊は、我が大隊の遊撃小隊として再編する。お前の部下たちも、明日から死ぬまで俺の駒だ。文句はあるか?」

「ありません。生存率が担保されるのであれば」

 凪の冷徹で淡々とした返答に、小前田はふっと鼻で笑った。彼は懐から安物のタバコを取り出し、火をつける。狭い天幕の中に、刺すような煙が充満した。

 凪は眉をひそめ、あからさまに不快な表情を見せた。幼い頃から白夜と共に大自然の中で生きてきた凪にとって、この化学物質が焦げる悪臭は、吐き気を催すほどの嫌悪の対象だった。

「その煙、なんとかなりませんか。肺の細胞を損傷する行為は、合理的な生存戦略とは到底思えません」

「うるせえ。死地に立たされるたびに、俺の脳ミソは麻痺しちまうんだよ。これでも吸ってなきゃ、部下たちの名前を思い出すたびに頭が狂っちまう」

 小前田は悪びれる様子もなく、紫煙を凪の顔とは逆の方向へ吹き出した。彼は叩き上げの兵士だ。軍学校で育ったエリート将校とは違い、数々の敗走、数々の死体の上を越えてきて今がある。その溜息混じりの言葉には、隠しきれない疲労と、どうしようもない苛立ちが深く刻まれていた。

 彼は地図の上に、帝国軍司令部が発したばかりの直筆の軍令書を投げ捨てた。

「……貧乏くじだ。俺たちはここで、地獄の門番をさせられることになった」

 軍令の内容は明快かつ絶望的だった。

 現在、この戦線の殿しんがりを務めているのは、皇帝の血筋を護る「皇族近衛部隊」だ。彼らが安全に撤退を完了するまで、この公民館を拠点とし、押し寄せる共和国軍の大軍を足止めせよ――。つまり、彼らは文字通りの捨て石として選ばれたのだ。

 天幕の中、冷えたランタンの明かりが揺れる。煙の粒子が光の中に漂い、二人の間に壁を作っているようだった。

「全く……軍人というのは、軍令という名の鎖に繋がれた哀れな存在だな。死ぬために戦うよう命じられ、それに従うのが名誉だと言い聞かされる」

「……本当に、何とも不自由な状況ですね。私は自分の白夜と、己の生存のために動きたいだけなのに」

 凪の毒づくような言葉に、小前田は大きく頷いた。

 叩き上げの彼らにとって、上層部が描く「名誉ある戦死」などというものは、生き延びるための計算式を狂わせるゴミ屑に過ぎない。しかし、その不自由な鎖を断ち切ることは、今の帝国軍という巨大な組織の中では「反逆」に等しかった。

「やるしかないな。俺たちは、死ぬためにここにいるわけじゃない」

 凪が赤眼を細め、静かに、しかし冷酷なまでの意志を込めて言い放った。

「小前田大尉、やるのであれば……ただ足止めをするだけでは不十分です。敵を壊滅させ、彼らが我々に触れることすら不可能だと理解させる。そうでなければ、こちらの損失が大きすぎる。勝たなければ、生き残れない」

 小前田は、その言葉を聞いて不敵に笑った。

 目の前の少女が纏う、加瀬家の令嬢という殻を突き破った冷徹な獣のような輝き。彼は確信した。この少尉は、ただの道具ではない。いずれ帝国という、己を縛り付ける巨大な組織そのものを、その爪と牙で食い破るのではないか、と。

「ああ、そうだな。やってやるさ。……おい、白夜! 腹を空かせてろよ。明日は、敵をなぎ倒して思いっきり暴れてくれ」

 外では、共和国軍の重戦車のエンジン音が、大地の震動となって公民館を包囲しつつあった。

 凪は天幕を出ると、夜闇に溶け込む白夜の背を撫でた。小前田大尉という理解者を得た今、彼女の合理主義は、もはや個人的な生存戦略から、一個大隊を率いる「戦場の最適解」へと進化しようとしていた。

 それは、名門・加瀬家の御曹司が待つ安寧を拒絶し、白夜と共に選び取った、血にまみれた茨の道である。凪の計算が、戦場の均衡を崩し、帝国の運命を狂わせ始める。

 小前田は天幕の中で、最後の一本となったタバコを指先で揉み消した。

 明日には、地獄が来る。それでも、彼らは笑う。生き延びるために。自分たちの手で明日を掴み取るために。

「加瀬少尉、お前のやりたいようにやれ。俺は、その結果だけを信じる」

 凪は振り返らず、白夜の隣で静かに目を閉じた。霧の向こうから迫り来る敵の影を、彼女の脳内にある数式が、一つ一つ消去していく。この公民館は、間もなく戦場という名の、死と再生のゆりかごへと姿を変えることになるだろう。

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