亡霊の集積と、氷の微笑
湿った腐葉土の匂いが、肺の奥まで侵食してくる。森の木々は砲撃の余波で裂け、まるで戦死者の腕のように無残な姿で空を突き刺していた。
帝国軍第十三中隊――その残骸が、この鬱蒼とした森林地帯の奥、放棄された礼拝堂に澱のように溜まっていた。
集まった生存者は、総勢三十一名。
極限の飢えと疲労、そしていつ背後から敵の銃弾が飛んでくるかという恐怖が、彼らの精神を削り取っている。かつて精強を誇った中隊の影はどこにもなく、残されたのはただ泥にまみれ、虚ろな目をした兵士たちの集団だった。その中で、ただ一人、異質な空気を纏う少女がいた。
加瀬凪少尉。
黒檀のような黒髪を短く刈り上げ、端正な顔立ちを無機質な軍服に包んだ二十歳の将校。小柄で華奢な身体つきだが、その背筋は鋼のように伸びている。戦場に立つ彼女の姿には、慈悲を切り捨てたかのような冷徹さと、触れれば切れるような鋭い殺気が同居していた。特に、森の薄闇の中で昏く光る赤色の瞳は、死者を観測する死神のそれのように、見る者の心を射抜く。
彼女が礼拝堂の石段に登り、静かに視線を巡らせると、三十一名の兵士たちが作り出していた澱んだ空気が一瞬で凍りついた。
「――状況を報告します。第十三中隊長は、昨晩の夜襲にて戦死。中隊は壊滅しました」
凪の声には感情の起伏が一切ない。まるで事務的な報告書を読み上げるような抑揚だった。しかし、その言葉に含まれる事実は、生き残りの兵士たちにとって、自分たちがこの森で孤立無援となったという死刑宣告に等しい。
「中隊長戦死に伴い、序列第二位の私が指揮権を継承します」
凪は一呼吸置いた。彼女の足元には、霧を纏った巨大な影――『蛟龍』が、番犬のように大人しく伏せている。怪物の吐息一つで石造りの礼拝堂が震えるのを感じ、兵士たちは唾を飲み込んだ。
「皆さんの目的は一つ。この地獄からの生還です。帝国への忠誠心も、武勲への渇望も、ここでは無意味な贅沢品に過ぎません。求めるのは生存のみ。それ以上でも以下でもない」
凪は、三十一人の顔を一人ひとり、ゆっくりと舐めるように見た。
「私を信じてください。私の命令に従い、私の計算を疑わないでください。そうすれば、皆さんは必ず助かります。信じられない者は、この森で名誉と共に朽ち果てる自由も認めましょう。ですが、私と共に来る者は、地獄の底を歩く覚悟を持ってください」
その言葉は、命令というよりは呪詛に近い。しかし、その冷徹なまでの言い切りに、兵士たちは言葉を失う。彼らの中にあった「死にたくない」という本能が、彼女の冷たい理性にすがりつこうとしていた。
その光景を、礼拝堂の崩れかけた柱の陰からじっと見つめていた者がいた。
冴島加奈准尉。彼女もまた、この地獄を彷徨ってきた生き残りだ。
加奈は二十歳という若さで、小柄で愛らしい容姿をしていた。蜂蜜色の少し癖のある髪を少し長めに残し、大きな瞳は常に周囲を警戒して揺れている。その風体は、軍服という無骨な衣装を着ていなければ、どこにでもいる可憐な少女そのものだった。体に合わない大きめの軍服に身を包んだその姿は、この殺伐とした戦場ではあまりにも異彩を放っていた。
彼女が今、ここにいる理由は、三日前に起きた共和国軍との会戦にある。
圧倒的な火力を誇る共和国軍の榴弾砲が、帝国の陣地を焼き尽くした。組織的な防衛線は一瞬で瓦解し、加奈の属していた部隊も霧散した。その後は、ただひたすらに銃声と悲鳴の響く泥濘を逃げ惑う、地獄のような撤退戦の日々だった。
(この人が、噂の……)
加奈は小さく息を呑んだ。
加瀬凪。
帝国軍内で、密かに囁かれている名前だ。『冷血の蛟龍使い』。あるいは『味方を戦場に置き去りにする悪魔』。
加奈は、かつて上官たちから「女が戦場に出るなら、最後はせめて華々しく散れ」と教え込まれてきた。死ぬことこそが軍人の誉れであり、生き残ることを考えるのは卑怯であると。しかし、目の前の凪は、その常識を冷酷なまでに否定した。
加奈は、自身の震える手を見つめた。これまで見てきた上官たちは、皆、自分たちの保身のために兵士を使い潰す無能な者ばかりだった。しかし、凪の瞳には、一切の迷いがない。あそこに宿る赤色は、狂気に染まったものではなく、冷徹に「勝つこと」を計算し尽くした者の色だった。
その時、凪がふっと視線をこちらに向けた。
まるで最初からそこにいることを知っていたかのような、獲物を捕捉するような鋭い視線。加奈は息を止め、柱の裏で身を硬くした。
逃げなければならない、と思った。しかし、その瞳に見つめられた瞬間、不思議と恐怖よりも先に、救いを求める心が勝ってしまった。
「冴島准尉。そこにいるのなら出てきなさい」
凪の声が響く。加奈は足を引きずるようにして、柱の裏から姿を現した。兵士たちの視線が一斉に突き刺さる。
「……は、はい」
返事の声は蚊の鳴くようだった。凪は石段を降り、加奈の目の前まで歩み寄る。間近で見ると、凪の華奢な体躯からは想像もつかないほどの重圧を感じた。それは、生物としての格の違いのようなものだった。
凪は無表情のまま、加奈の肩からぶら下がっている小銃に目を落とした。
「あなたの銃の整備、三日ほど放置されているようです。泥が詰まり、撃鉄も錆びかけている。これでは肝心な時に、あなたは自分を撃つことすらできない」
凪は一瞬だけ、表情を緩めた。
それは、戦場の緊張を解くような、しかしどこか人間離れした、氷のように清廉で薄い微笑だった。冷徹な悪魔の顔に浮かんだその一瞬の微笑みに、加奈は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「……生き延びるためにも、まずは道具の手入れから始めましょう。准尉」
加奈は呆然と凪を見上げた。
凪の背後では、巨大な蛟龍が、主人に従うかのように静かに呼吸をしている。この少尉ならば、狂った帝国の論理とは別の場所で、この地獄を歩いていけるかもしれない。彼女を信じることが、自分が生き残るための唯一の「最適解」であると、加奈の直感が告げていた。
「……了解しました、少尉殿!」
加奈は、これまでで一番力強い敬礼を返した。
それは、崩壊しゆく帝国への忠誠ではない。目の前の冷血なる少尉、加瀬凪という一個の人間への、最初の帰依だった。
凪は満足げに頷くと、再び振り返り、冷たい赤眼を戦場の闇に向けた。
礼拝堂の外では、共和国軍の斥候たちが、獲物を探して森を徘徊し始めている。三十一人の生と死をかけた、加瀬凪の指揮する撤退戦が、ここから始まる。
「皆、聴きなさい」
凪の声が、森の静寂を切り裂く。
「食糧の配分を計算し直します。これより、我々は共和国軍の追撃を逆利用し、彼らの背後へ食い込む。……死にたくない者は、私に続け」
三十一人の兵士たちが一人、また一人と立ち上がる。
冷たい風が、森の霧を揺らした。その中を、漆黒の龍と冷徹な少尉が歩き出す。
帝国という名の巨大な墓標の隙間を縫うように、彼らは地獄の底へと足を踏み入れた。加奈はその後ろ姿を追いかけながら、自分の軍服の襟を正した。この戦場に、まだ「生きるための希望」があると信じて。
霧の彼方から、共和国軍の重戦車のエンジン音が聞こえてきた。
加瀬凪は、その音を聞きながら、静かに、まるで数式を組み立てるかのように微笑んだ。
「……いい響きだ。この距離なら、蛟龍で十分遊べる」
それが、彼女なりの宣戦布告だった。




