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帝国軍の冷徹な少尉は、泥と死地を計算で乗り越える ~蛟龍を使役し、無能な上官を捨てて生き残る~  作者: ルツ


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泥濘(でいねい)の死地

霧が峠を支配していた。視界は十間先も覚束ない。

 漂うのは、濡れた土の匂いと、腐乱した肉の悪臭だ。

 帝国軍、第十三遊撃小隊。現在の残存兵力は二十四名。対する敵軍は三個大隊規模。

 算術を弄ぶまでもなく、生存の理は零に等しい。

「少尉、死ぬ覚悟はできているか」

 宇佐美中尉の声には、一種の陶酔が混じっていた。帝国古来の武勲を夢想する、無惨な美学。

 加瀬凪は、手元の帳面を閉じた。弾薬の残数は、もはや数えるまでもない。

「中尉、覚悟とは、生還率を向上させるために割くべき資源です。いたずらに死へ投じる余裕など、我々にはありません」

 凪の返答に、宇佐美の眉が激しく跳ねた。

「この期に及んで、貴様は未だ合理を説くか。帝国の将たる者が、死を恐れて何とする!」

 凪は答えず、背後に立つ影へと意識を向けた。

 その影は、霧よりも深く、夜よりも暗い鱗に覆われていた。帝国の秘獣を生体兵器として訓練した『蛟龍こうりゅう』。

 凪の胸の内で、熱い鼓動が重なる。それは獣のそれでありながら、凪自身の鼓動と完全に同調していた。

 ……行こう。飢えた獲物が、すぐそこまで来ている。

「加瀬少尉、貴様の独断専行は、軍法会議にかけねばならん。その蛟龍も、我々の名誉のために戦わせるのだ」

 宇佐美が怒号を飛ばしたその時、凪の背後から重厚な靴音が響いた。

 稲生軍曹だった。かつて鬼と恐れられた古参兵は、無造作に懐から干し肉を取り出し、口に放り込む。

「中尉殿」

 稲生は宇佐美の顔を真っ直ぐに見据えた。

「中尉殿が名誉を論じている間に、敵は我らの首を刈り取りに来ます。私はこの少尉の教官であり、彼女が下す判断の裏にある『生きるための執念』を知っている。命令を待つ必要はない。撤退を」

宇佐美が腰の軍刀に手をかけた。

 その刹那。

 凪の傍らに立つ蛟龍が、音もなくくびを伸ばした。鎌首を上げ、黄金の瞳で宇佐美を射抜く。ただそれだけで、中尉の動きが凍りついた。

宇佐美はわなわなと震える唇で凪を睨みつけた。蛟龍が放つ殺気に圧され、軍刀を抜く気力すら奪われたのだ。

「……抗命であるぞ、加瀬少尉。軍法会議で首が飛ぶぞ」

「生存の後に法はあります。中尉、今の状況で首を繋ぐ唯一の道は、私の提案に全てを委ねることです」

 凪は地図を広げ、指先で峠の隘路をなぞった。

「敵の主力は正面から侵攻しています。別働隊である中尉の小隊をここへ配置し、囮として敵の注意を惹いてください。敵が密集した瞬間、私が蛟龍を率いて側面から強襲します。殲滅後、即座に離脱する。これが唯一の生還ルートです」

 宇佐美は憎々しげに凪を睨み返したが、背後から迫る敵軍の足音――地響きに近い行軍の音が、彼を現実へと引き戻した。

「……良かろう。だが、戦果を挙げれば貴様の独断は黙認してやる」

 宇佐美が兵を引き、配置へ着くのを見届けると、凪は稲生に短く指示を出した。

「軍曹、中尉が壊滅するまで手出しは無用。蛟龍は霧の底で温存します」

「承知。非情なものだ、少尉。だが、それが今の帝国で生き残るための正解だ」

 稲生が深く頷く。二人の間には、教官と教え子という垣根を超えた、冷酷なまでの信頼があった。

 戦闘は、予見通りに始まった。

 宇佐美の別働隊が姿を現すと、敵軍は喜々として包囲網を狭めた。霧の中で交差する銃声と悲鳴。宇佐美は「一歩も引くな!」と叫び、目の前の敵に執着してその場に留まり続けた。敵軍がさらに深追いするよう、精巧な罠を演じていたのだ。

「……今です」

 凪が微かに呟くと、足元の闇が脈動した。

 霧の底から黒光りする巨体が躍り出る。悲鳴を上げる間もなく、敵の精鋭部隊が肉塊へと変えられていく。蛟龍の牙が敵指揮官の首を刎ね、軍旗を泥に叩き伏せる。

 阿鼻叫喚の地獄。しかし、凪の心は凪のように静まり返っていた。

「殲滅完了。――撤退します」

 凪は一切の躊躇なく踵を返した。

「少尉、中尉は?」

 稲生が背後を振り返る。そこでは宇佐美がなおも「敵の残党を追え!」と狂ったように叫び、退却の合図すら出せずにいた。撤退という概念が、彼らの頭から消し飛んでいる。

「放置します。撤退の好機を逸した指揮官に、割くべき資源はありません」

 凪は冷徹に言い放った。

 彼女にとって、宇佐美は救うべき帝国軍人ではなく、ただの計算外の障害物に過ぎない。凪と稲生、そして蛟龍は、霧の向こう側へと吸い込まれるように姿を消した。

 彼らの背後で、宇佐美たちの怒号と、それに重なる敵軍の咆哮が霧の彼方へとかき消されていった。


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