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<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第00話 第一幕 拒絶と契約の重み編

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第09話 高架下の青い影

 元町駅の西口から、まるで巨大な肉食獣の喉奥へと自ら滑り込んでいくようにして、その空間は不気味に口を開けている。

 JRの高架下、地元の人々が親しみと一抹の寂寥を込めて「モトコー」と呼ぶその場所は、陽光に焼かれた外界とは完全に断絶された異界である。

 頭上を走る線路からは、時折、鉄の塊が空を切り裂き、コンクリートを粉砕せんばかりの轟音が容赦ない振動とともに降り注いでくる。

 

 (……暗い。ここだけ空気が澱んで、何十年も前の時間がそのまま腐り落ちているみたい。さっきまでの湊川神社みたいな生命力に溢れた蝉の声が、まるで遠い異国の幻だったみたいに思えてくるわ)

 

 外界の灼熱を瞬時に忘れさせるほど、そこには湿り気を帯びた薄暗い冷気が滞留しており、春奈の肌に粟立つような寒気を呼び起こした。

 剥き出しの配管は赤錆に塗れ、天井から滴る正体不明の水滴が、不規則なリズムを刻みながら路面の油染みを叩いている。

 

 春奈は、自分の隣を歩く男の横顔を、盗み見るようにして伺った。

 数分前まで湊川神社の境内で、無気力にシャツの裾を翻し、面倒そうに砂利を蹴っていた佐伯の姿は、そこにはなかった。

 高架下へ足を踏み入れるその刹那、彼はまるで何かの儀式に臨むかのように背筋を伸ばし、自らの指先で乱れた襟元を厳格に正したのだ。

 その隙のない佇まいは、まるで舞台に上がる直前の役者か、あるいは獲物を追い詰める狩人のような、異質な鋭さを湛えている。


 辿り着いたのは、シャッターが降りかけた店舗が連なる隅に、ひっそりと暖簾を守り続けている古い文房具店だった。

 使い古されたガラスケースの中には、時間の経過とともにセピア色に変色した便箋や、インクの切れた古い万年筆が、忘れ去られた遺物のように並んでいる。

 

 「ごめんください。お忙しいところ恐縮ですが、少々お時間をよろしいでしょうか」

 

 店内に足を踏み入れた佐伯の発した第一声を聞き、春奈は自分の耳を疑った。

 自分に向けられるあの、人を小馬鹿にしたような突き放す態度は微塵も存在しない。

 それは驚くほど穏やかで、一文字一文字を噛みしめるように紡がれる、年長者への敬意に満ちた丁寧な響きだった。

 

 (……はぁ? なんなん、その急な様変わり。私には「へばっとる暇はない」とか冷たいこと言うてたくせに、他人にはそんな猫なで声で喋れるんや。性格ひん曲がってるにも程があるやろ。この、ええかっこしいの偽善者め。その丁寧な言葉の半分でも私に分けてくれたらええのに)

 

 春奈は心の中で猛烈な罵倒を浴びせながらも、その豹変ぶりに戸惑いを隠せず、佐伯の背後で小さく唇を噛む。


 奥の薄暗い居住スペースから、白髪の店主が腰を曲げ、這い出すようにして現れた。

 店主は老眼鏡を何度も指で押し上げながら、佐伯が恭しく、まるでお守りを扱うような手つきで差し出した一通の手紙を凝視した。

 店内に漂う古い紙の匂いと、僅かなカビの香りが、春奈の鼻腔をくすぐり、得体の知れない緊張感を高めていく。

 

 「……このインクについて、お伺いしたいことがございまして。非常に珍しい色調ですが、もしやこちらで扱われていたものではございませんか?」

 

 佐伯はカウンターに身を乗り出すこともなく、適切な距離を保ったまま、穏やかな笑みすら浮かべて店主に語りかける。

 店主はその手紙を手に取り、頼りない光を放つカウンターの裸電球にかざした。

 沈黙が流れる。

 線路を通過する快速電車の激しい地響きが、店内の古い棚をガタガタと震わせ、春奈の心臓を不規則に叩く。

 電車の音が遠ざかり、再び澱んだ静寂が戻ってきたとき、店主の唇がゆっくりと震え始めた。


 「……ああ、この色は。間違いないねぇ。私がこの店を継いで間もない頃、初めて自分の手で、ある方の注文に合わせて調合した品物に間違いないわ」

 

 店主の声は、乾いた枯れ葉が風に吹かれて擦れるような響きを伴っていた。

 

 「当時はまだ若くってなぁ、これほど値の張る特注を受けるのは初めての経験やったんで、この色の配合は脳裏に焼き付いとるよ。市販のブルーブラックとは違う底無しの夜の海のような、深い青。材料を揃えるだけでも、それはもう一苦労したわ」

 

 店主は懐かしむように目を細め、細く節くれ立った指先で、手紙を愛おしそうになぞった。

 その視線は、目の前の手紙を通り越して、数十年前の遠い記憶の景色を見つめているようだ。

 

 「その方はねぇ、このインクを生涯で二人にしか贈らなかったんや。一人は、彼が心から愛したという奥さんや。その結婚記念日に合わせて、私はこの瓶を特別に仕立てた覚えがあるよ」


 春奈の胸の奥で、誇らしさと、それに相反する冷たい予感が同時に渦巻く。

 

 (お母さん……。そうや、お母さんの書斎にも、これと同じ青色のインクがあったわ。お父さん、そんなに強い想いを込めて、自分だけのインクを贈ってたんやな。そんな素敵な話、私、今の今まで知らんかった)

 

 しかし、喜びは一瞬で霧散し、代わりにどろりとした不安が胃の底に溜まっていく。

 

 (でも、店主さんははっきりと『二人』って言った。もう一人は誰なんや? お父さんが、お母さんと同じくらい大切に想って、この貴重なインクを贈った相手……。お母さんの知らないお父さんの顔が、そこにあるっていうの?)


 「……左様でございますか。ご店主の思い入れの深さが、その言葉から痛いほどに伝わってまいります。これほど美しい色を最初に生み出されたのが、あなたで本当に良かった」

 

 佐伯はさらに一段と声を低く、それでいて温かみのあるトーンに調整し、店主の記憶の糸を優しく、慎重に解きほぐしていく。

 

 「では、もう一方の贈り先についても、何か覚えていらっしゃいますでしょうか。その方もまた、この青色に相応しい方だったのでしょうか」

 

 佐伯の誠実な態度に、店主は警戒心を完全に解いたようだった。

 彼は深く吐息をつくと、何かを覚悟したように再び口を開いた。

 

 「……その方が奥さんに贈った数年後、もう一度だけ、全く同じものをと注文をしに来たんですわ。今度は贈り物としてではなく、自分の代わりに、ある場所へ届けてほしいと私に託してね。相手の名前は伏せられてたから知らんけど、ただ添えられたメッセージカードの宛名を、私は鮮明に覚えてるわ。……サキコ。それが、彼がこの特別な青を共有した、二人目の名前だった筈や」


 春奈の呼吸が、物理的な衝撃を受けたかのように、一瞬で止まった。

 

 ――サキコ――

 

 その、見知らぬ女性の名前が、高架下の湿った冷気の中に、重く冷たく響き渡る。

 

 (サキコ……? 誰、それ? お母さんの名前は美智子や。親戚にも、近所の人にも、そんな名前の人は一人も心当たりがない。お父さんが、お母さんに贈ったのと同じ、世界に一つだけのインクを贈った女性……。嘘やん。お父さん、家族にはあんなに誠実な顔をして、私らの知らんところで別の誰かと……繋がってたっていうん?)

 

 春奈の頭の中で、これまで信じてきた家族という建物の土台が、音を立てて崩れ去っていく。

 お父さんの書斎、日曜日の朝食、穏やかな笑顔。それら全ての記憶が、この『サキコ』なる名前に汚されていくような、耐え難い嫌悪感に襲われてしまう。


 店を出ると、佐伯は再び無言のまま、先ほどまでの丁寧な物腰を脱ぎ捨て、無愛想な男へと戻っていた。

 ポケットに手を突っ込んで歩くその姿は、先ほど店主と語らっていた人物とはとても思えない。

 

 「……サキコという女。その輪郭を掴まんことには、この調査は終わらんぞ。あんたの知らないお父さんの、もう一つの真実が、その名前に隠されとるはずや」

 

 佐伯の声は、高架下のコンクリート壁に反響し、重苦しい予感を孕んで湿った静寂に溶けていった。

 

 (……ほんま、なんなんよ。あんなに愛想良くしてたのに、店を出た瞬間にこれ? 私にだけ冷たいの、もう確信犯やわ。わざとやってるんやわ、この人。でも……今は、この人の言う通りにするしかない。癪やけど、この男の目には私が見えてないものが見えてるんやから)

 

 春奈は、今すぐにでもこの暗がりから逃げ出したくなるような衝動を、奥歯を噛み締めることで必死に抑え込んだ。

 青白い水銀灯の下、無情に歩を進める佐伯の背中を、彼女は迷子の子供のように必死で追いかける。

 父の記憶の断片は、高架下の闇に滲む青いインクのように、より深く、より不吉な模様を描きながら、春奈の心に消えないシミを作ろうとしていた。

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