第10話 雨の日の追憶
空の底が唐突に抜けたような、あまりに劇的な変貌だった。
先ほどまで神戸の街を白く焼き尽くさんとばかりに猛威を振るっていた太陽は、瞬く間に湧き出した不吉な鉛色の雲に飲み込まれ、大気は予感に満ちた湿った土の匂いを含み始める。
次の瞬間、無数の銀の矢が天から一斉に降り注ぐようにして、激しい夕立が古い屋敷の重厚な瓦屋根を叩き、庭の木々を狂おしく揺らし始めた。
春奈と佐伯は、逃げ込むようにして屋敷の縁側へと腰を下ろした。
目の前では、暴力的なまでの雨粒が庭の飛び石に弾け、真っ白な飛沫となって視界を遮る壁を作り出している。
(……すごい雨。さっきまでの暑さが嘘みたいに、空気が一気に冷えていく。湊川神社の蝉の声も、元町高架下の暗い静けさも、全部この雨が洗い流してしまいそうや。でも、お父さんが愛用していたあの青い色だけは、脳裏にこびりついて離れへん)
春奈は、雨の飛沫を浴びてしっとりと濡れ始めた自分の爪先を、縋るようにじっと見つめた。
隣に座る男からは、湿った布地の匂いと、どこか浮世の理から外れたような独特の冷ややかな空気が漂ってきている。
佐伯は、自らの長い指で胸ポケットから細い煙草を一本取り出した。
銀色のライターがチッと小さな音を立て、小さな火花が湿った空気の中で一瞬だけ鮮やかに爆ぜる。
吸い口に灯った紅蓮の光が、彼の端正ながらもどこか深い影を宿した輪郭を、薄暗い縁側の中に不気味に浮かび上がらせた。
彼は深く紫煙を吸い込み、それを雨のカーテンの向こう側へと、絶望をなぞりながら吐き出すようにして放った。
ゆらゆらと揺れる白い煙は、雨の圧倒的な重圧に押し潰されるようにして、地面を這うように消えていく。
「……俺の両親もな、言葉を遺して逝ったんや」
雨音の凄まじい隙間を縫うようにして、佐伯がぽつりと呟いた。
その声は、春奈に向けられたものというよりは、降りしきる雨の向こう側にある、自分にしか見えない過去の景色に語りかけているかのようだった。
「『お前は、望まれて生まれてきた光だ』。……枕元で、最期にそう微笑んで逝った。美しくて、完璧な、疑いようのない愛の言葉や。俺は十八歳になるまで、その言葉を血肉にして、自分は世界に祝福されているのだと信じて生きてきた」
佐伯は、二度目の紫煙をゆっくりと肺の奥まで流し込んだ。
煙草の先端が赤く燃え上がり、彼の指先に微かな熱を分け与えている。
雨脚はさらに強まり、庭の緑は深い闇の中へと溶け込んでいった。
「そやけどな、後になって知ったんや。その言葉の裏側にあった、真っ黒な真実を。……俺の親父はな、俺にこの『終筆士』の技術を叩き込んだ師匠でもあったんやで」
佐伯は、煙草を指に挟んだまま、雨粒が作り出す激しい水溜まりを冷めた瞳で見つめ続けた。
「親父は、依頼人の人生を美しく締めくくるために、あらゆる筆跡を模倣し、優しい嘘を代筆するプロやった。そやけどある時、俺は気づいてもうたんや。親父が俺をある資産家の養子に出す計画を進めとったことに。俺の意思なんて関係ない。俺という存在を商品にして、巨額の資金を引き出すための道具にしようとしとったんや。俺は、愛される息子やなくて、親が生き延びるための『金』に過ぎんかった」
彼が吐き出す煙は、もはや白ではなく、雨の夕暮れの色に染まっていた。
その横顔には、怒りも、悲しみも、もはや使い果たしてしまった後のような、乾いた虚無が張り付いている。
「……嘘やったんですか。実の息子を、そんな風に……」
春奈の喉から、掠れた声が漏れた。
彼女の脳裏には、先ほど店主から聞かされた『サキコ』という名の未知の女性のことが、不気味な影を伴って蘇ってくる。
「……皮肉なもんや。その計画が完了する前に、両親は事故で死んだ。そんで枕元で遺されたんが、あの『光や』いう言葉や。終筆士としての技術を総動員して作り上げた、自分たちの罪を隠すための、ただの綺麗な嘘。俺は死ぬ直前まで、自分の息子にすら『代筆』を施した親父のことが、どうしても許せんのや」
もし、自分の父が綴ったあの丁寧な文字も、お母さんへ向けていた穏やかな眼差しも、全てが何かの裏返しだったとしたら。
そう考えると、自分の立っている床が底なしの沼に変わってしまったかのような恐怖に襲われ、身体が激しく震えた。
「……俺はな、結末を知らずに生きるんが一番の地獄やと思っとる」
佐伯は、短くなった煙草を携帯灰皿に押し付け、その火を無造作に消す。
「信じていたもんが偽物やと知る痛みは、想像を絶するやろう。そやけど、何も知らんまま、誰かが描いた絵空事の中で踊らされ続けるんは、それ以上の冒涜や。だから君には、この依頼をキャンセルさせたくないねん。真実がどれほど醜悪であっても、それを知る権利が君にはある。それを知らんと君自身の人生は始まらへんからな」
彼は、初めて春奈の方を向いた。
その瞳には、かつての突き放すような輝きではなく、どこか自分と同じ傷を持つ者への、不器用な共鳴が宿っているように見えた。
「……たとえ、お父さんのことが大嫌いになってしまうような結果やったとしても……ですか?」
「そうや。憎めるようになることも、一つの救いや。一番恐ろしいんは、正体のわからん幽霊に、一生自分の心を支配されることなんやからな」
佐伯は、雨に濡れた縁側の板を指先でなぞる。
その指は、終筆士としての誇りというよりは、一人の傷ついた人間としての震えを、懸命に隠しているようにも見える。
雨は一向に止む気配を見せず、むしろ勢いを増して、世界を飲み込もうとしている。
激しい雨音に包まれた密室のような空間で、佐伯の孤独が、剥き出しのままそこに転がっていた。
(……あかん、胸が痛い。こんなに締め付けられるみたいに痛いの、なんでなん。佐伯さんの言葉が、自分のことみたいに突き刺さって……。この人、ずっと一人で、その地獄の中にいたんやな。誰も信じられんようになって、他人の嘘を暴く終筆士っていう仕事でしか、自分を保てんかったんやろか?)
春奈の胸に、今まで経験したことのない、激しい熱を帯びた感情が込み上げてくる。
それは、父の不貞への疑念を忘れてしまうほどの強烈な心の震えであろう。
同情という言葉では、あまりに軽すぎて、今のこの心の軋みを説明することはできない。
自分もまた、真実を求めて崖っぷちに立っている。
同じ嵐の中に放り出された、運命共同体のような、切実な感覚。
佐伯の少しだけ丸まった背中が、薄暗い夕闇の中に溶けかかっている。
いつもはあんなに憎たらしく、自分を突き放す高い壁のように感じられたその背中が、今は今にも崩れてしまいそうな、あまりに脆いものに見えた。
春奈の手が、無意識のうちに、膝の上からゆっくりと持ち上がった。
自分でも驚くほどの衝動が、彼女の指先を、彼の背後へと動かしていく。
(……この背中に、触れたい。大丈夫ですよって、一人やないですよって、言葉にならへん声を届けたい。この人の背中にそっと手を添えて、その凍りついた心を、ほんの少しでも温めてあげたいんや……)
春奈の指先が、佐伯の白いシャツの背中に届きそうになる。
雨の飛沫が風に舞い、二人の頬を冷たく濡らした。
あと、数センチ。
その距離を縮めようとした瞬間、空を真っ二つに割るような巨大な雷鳴が轟いた。
春奈は肩を激しくびくつかせ、伸ばしかけた手を慌てて引っ込めた。
佐伯は何事もなかったかのように、再び雨の向こうを見据え、新しい煙草を指に挟んでいた。
「……雨、止みそうにないなぁ」
佐伯の呟きは、再び元の無機質な響きに戻っていた。
春奈は、赤くなった自分の掌を強く握り締め、激しく脈打つ鼓動を鎮めようと必死になった。
初めて感じた、彼への名前のない想い。
それは、降りしきる雨の重みとともに、彼女の心に深い傷跡を刻み込んでいった。
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