第08話 湊川神社の蝉時雨
『楠公さん』という神戸市民の愛着が染み付いた呼び名で知られる湊川神社の巨大な鳥居をくぐり抜けた瞬間、世界はその色彩を灼熱の白へと変えた。
アスファルトの裂目から立ち上る猛烈な陽炎が、歴史ある社殿の輪郭を飴細工のようにぐにゃりと歪ませ、肌を焼く強烈な地面からの照り返しが、容赦なく全身の水分を根こそぎ奪い去っていく。
境内に一歩足を踏み入れれば、そこは四方八方の古木から降り注ぐ蝉時雨の濁流に完全に支配されており、鼓膜が直接暴力的な振動で揺さぶられるような錯覚に陥る。
(……あかん、暑すぎるわ。でも、鳥居を抜けて楠の巨木が作る濃い影に入ると、ほんの少しだけ空気が変わる気がする。アスファルトの熱気が、古い木の香りが混じった湿った風に押し流されていくみたいや。なんで佐伯さんは、あの手紙を読んだだけで、迷いもせんとここに来たんよ。あんなに短い文章の中に、神社の名前なんて一言も書いてへんかったのに)
数歩先を行く佐伯は、先日同様の紳士然とした服装で悠々と進んでいく。
春奈は額から絶え間なく噴き出す汗をハンカチで拭いながら、逃げ水のように遠のくその背中を必死に追いかけた。
巨木の枝葉が重なり合い、陽光を複雑な網目状に切り裂く木漏れ日の下では、直射日光の暴力的な熱こそ和らぐものの、代わりに地面の湿り気が蒸せ返り、肌にまとわりつくような重い静寂を醸し出している。
一歩、また一歩と砂利を踏みしめるたびに、意識が遠のきそうになるのを、彼女は父への疑問という一点の熱量だけで繋ぎ止めていた。
「佐伯さん! ちょっと待って。説明してよ。お父さんの手紙には『湊の風が吹く場所』としか書いてなかったやんか。なんでそれが、この湊川神社やってわかったんよ?」
春奈の声は、頭上から降り注ぐ凄まじい蝉の声に一瞬で飲み込まれ、掠れた響きを伴って境内の奥へと消えていく。
佐伯は振り返ることもなく、焼けた砂利を踏みしめる乾いた音を一定のリズムで響かせながら、本殿へと続く石段を避けるようにして、西門へと続く古い石垣の陰で足を止めた。
彼は懐から、サロンで春奈が提示した父の手紙を複写したメモを取り出し、それを眩しそうに細めた瞳で見つめる。
その横顔には、世俗の喧騒を厭うような、それでいて何かに取り憑かれたような異質な集中力が宿っていた。
「『湊の風』……。そんな詩的な表現、あのお仕着せの生真面目な父親がわざわざ使うには、あまりに具体的すぎる。神戸で『湊』を冠し、かつて湊川の堤防が築かれ、その名残で今も独特の風が抜ける構造を持つ場所を考えれば、ここ以外に候補はないわ。……それに、あの手紙の端にあった、筆跡の乱れや。サロンの安楽椅子に座って、あんなに上質な紙に万年筆を走らせていたお父さんの筆先が、この一文の時だけ異常なほど震えとった」
佐伯は手紙の余白にある、微かなインクの滲みを指先でなぞった。
その指の動きは、まるで存在しない弦を弾くかのように繊細で、どこかよそよそしい。
「あんたのお父さんは、この場所を思い出すだけで、身体に刻まれた古い痛みが呼び起こされたんやろな。脳が記憶を再生するより先に、肉体が当時の感覚に反応した証拠や。……見てみ、この西門が見える位置や。お父さんはここに立ち、右足の痛みを杖で逃がしながら、何時間も、何年も、誰かを待ち続けとった」
佐伯は、石垣の角にわざと自分の身体を預け、父がかつて立っていたであろう不自然な角度を再現してみせた。
肩の傾き、腰の据え方。それは、健康な人間が休息のために取る姿勢とは明らかに異なっている。
「手紙の三行目、文字の重心が右側にだけ流れておる。これは座り方の問題やない。身体のバランスが、長年の習慣で右側に偏りきっとる証拠や。……杖やな。それも、この境内の凹凸の激しい砂利道を歩くために、全体重を預け続けた強固な杖や。お父さんは、サロンで穏やかにペンを握りながらも、肉体の記憶だけは、この湊川の砂利を噛む感触を忘れられんかったんや。……あんた、家族として、お父さんの靴底の減り方が左右で極端に違ってたことに、一度でも疑問を持ったことはあるか?」
佐伯の指摘は、手紙に刻まれた無意識の痕跡から、父の肉体が抱えていた真実を鮮烈に引きずり出す。
春奈はその場に立ち尽くし、父の歩く後ろ姿を必死に思い出そうとした。
幼い頃、繋いでいた手の温もり。仕事に向かう、折り目の正しいスーツの背中。
(……ほんまや。お父さんの靴、いつも右側のかかとだけが、不自然なほど斜めに削れてた。あれ、ただの歩き方の癖やと思ってたけど。でも、杖なんて。私の知ってるお父さんは、いつだって背筋を伸ばして、私の前を歩いてた。家の中では一回も、脚を痛がる素振りなんて見せんかったのに。なんでこんな、家族の目も届かへん場所で、一人で痛みに耐えてたん……?)
「生真面目な人間ほど、自分の弱みを見せることを極端に忌み嫌うもんや。他人に心配をかける自分、ましてや庇護を必要とする自分を、断固として受け入れられんかったんやろ。家では完璧な父親を演じ切り、ここに来てようやく、杖を相棒にして、待つべき相手を待つ自分に戻れたんやろな。……あんたのお父さんは、この門から誰かが現れるのを、自分の衰えを必死に隠しながら、祈るような心地で待ち続けていたんや」
佐伯の分析が、木々のざわめきと蝉時雨の降り注ぐ境内に、重苦しい説得力を持って響く。
その言葉の一つひとつが、春奈が信じてきた優しい父の偶像を侵食し、別の孤独な一人の男の姿を形作っていく。
春奈は足元の砂利を乱暴に蹴るようにして、逃げるように前を行く彼の背中を懸命に追いかけた。
「待って! それやったら、お父さんは何のために杖をついてまで……。誰に会おうとしてたんよ! 私らに内緒で何を一人で抱え込んでたん! その誰かって、私の知ってる人なん?」
叫ぶように声を張り上げたものの、湿気を含んだ熱に浮かされた体は思うように前に進まない。
足元がふわふわと浮き上がるような感覚に囚われ、視界の端が白く弾ける。
木陰の涼しさすら追いつかないほどの、突きつけられた情報の重みに、心身の限界がすぐそこまで迫っていた。
彼女の視界は、陽炎の向こうで揺れる佐伯の背中を捉えるのが精一杯だった。
そのとき、急ぎ足だった佐伯の足取りが、ふっと吸い込まれるように緩やかになった。
彼は一度もこちらを振り返ることなく、ただ彼女が無理なく追いつける程度の、ゆったりとした歩幅に速度を合わせたのだ。
それは言葉による慰めよりも、今の春奈にとってはるかに重みのある意思表示だった。
(……あ、いま。この人、私の歩調に合わせてくれたん? さっきまであんなにサクサク歩いてたくせに。偶然なわけないわ、このタイミングで。なんでこんな、気づくか気づかへんかくらいの絶妙なことするんやろ。文句のひとつでも言えばええのに、黙ったまま……)
佐伯は相変わらず、無愛想に前方を見据えたままだ。
優しい言葉を投げかけてくれるわけでも、倒れそうな肩を支えてくれるわけでもない。
ただ、彼女を置き去りにしないための、名前を付けることすら躊躇われるような、静かな配慮。
彼自身の内側にある、説明を拒むような孤独な哲学が、その歩みに現れているようだった。
(なんなん、もう。ほんまに嫌な性格やと思ってたのに、たまにこういうことするから調子狂うやんかぁ。お父さんの秘密を淡々と暴こうとする残酷な人なのか、それとも、私に寄り添おうとしてる優しい人なのか。どっちが本当の佐伯さんなんか、私にはさっぱりわからへん……)
春奈の胸の奥で、今まで経験したことのないような小さな波紋が、熱を帯びて広がっていく。
それは決して不快なものではなく、どこか切なさを伴った疼くような感情である。
木陰のわずかな涼風が彼女の頬を撫でるが、内側の熱までは冷ましてくれない。
それでも、彼女はその痛みから目を逸らさなかった。
「……あんまり遅れるな。ここでの調査は、まだ入り口に立ったばかりや。あんたのお父さんの足跡は、もっと深いところまで続いてるぞ。この暑さでへばっとる暇はないわ」
佐伯の声には、以前のような突き放す響きはなく、どこか独り言のような熱が混じっていた。
彼もまた、この過酷な情景の中で、何かを探し求めているのかもしれない。
春奈は、不器用な彼の背中を視線で追いながら、大きく深呼吸をして肺の中に熱い空気を溜めた。
全身を包む空気は依然として重く、蝉の声は耳が痛くなるほどに鳴り渡っている。
(いう通りやな。お父さんが命懸けで隠してた本当の姿……。それを見届けるまでは、ここでへこたれてる場合やない。この風変わりな鑑定士さんの背中にしがみついてでも、私は真実をこの目で見極めなあかんのや。たとえ、それが私の知ってる幸せな記憶を全部塗り替えてしまうもんやったとしても)
彼女は再び、確かな足取りで一歩を踏み出す。
木陰の微かな恩恵に支えられながらも、脳を揺らす騒音は依然として物語の背景に流れる雑音のようにしか感じられなかった。
二人の影は、強い日差しに焼かれた境内の地面に、寄り添うことも離れることもなく、濃く鮮明に伸びていく。
父の記憶という名の欠片を拾い集める旅は、この湊川神社の猛暑の中で、より一層深い闇の核心へと足を踏み入れようとしていた。
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