第05話 旧居留地にて
三宮の喧騒を背に、潮風が微かに混じる大通りを南へ下る。周囲の景色は、無機質な雑居ビルから、重い石積みの近代建築が立ち並ぶ旧居留地へとその相貌を変えた。昔の外国人居留地としての誇りを今なお留めるこの一画は、現代の神戸にあって、そこだけが時間の流れを拒絶しているかのような、浮世離れした重みに包まれている。
佐伯は、隙のない紳士の足取りで、蔦の絡まるレンガ造りの建物の前で足を止める。看板すら掲げられていない、重い真鍮のドアが、訪問者の身分を峻別するように固く閉ざされている。
「……佐伯さん、ここ、何なんですか? 看板もないし、まるでお城の入口みたいに圧迫感があって……。お父さんが、こんな場所に通ってたなんて、とても思えへんのですけど」
春奈が気後れして立ちすくむ中、佐伯は手袋をはめた指先で、真鍮のドアノブの彫刻を忌々しそうになぞった。その瞳には、懐かしさよりも、忌まわしい記憶を反芻するような苦い色が宿っている。
「……ここは、会員制サロン『エトワール』の跡地や。今は経営が変わっとるが、三十年ほど前は神戸の有力者たちが密談に使う、選ばれた人間だけの社交場やった。一般のサラリーマンが紛れ込める場所やない」
佐伯は一度言葉を切り、自身の過去を切り捨てるように短く息を吐いた。彼の言葉の端々に宿る、身内に対する突き放したような感情が、真夏の熱気さえも一瞬で凍らせる。
「……そもそも、なんでお父さんがここに来てたってわかったんですか?私、そんなこと一言も言うてへんのに」
春奈の当然の疑問に対し、佐伯は懐からあの一通の手紙を取り出した。春奈の父が遺した最後の一枚だ。彼はその余白を、まるで獲物の急所を示すように指し示した。
「あんたの持ってきたあの手紙の裏や。肉眼では見えんほどの細かな凹凸を特殊な光で解析したところ、このサロン固有のコースターの紋章が浮き出てきたんやな」
佐伯は手紙を光に透かし、春奈の目の前でその痕跡を証明してみせる。
「お父さんは、この場所で酒を飲みながら、コースターを裏返し、その上で例の手紙を綴ったんやろ。筆圧が強すぎて、インクのない紋章の形が紙の裏まで転写されとった。俺が調べ上げたデータの中に、この『エトワール』の古い備品の記録があったんや。執念いうんは、時に意図せん場所に証拠を残すもんやな」
佐伯の淡々とした説明は、論理的すぎてかえって空恐ろしい。彼は、春奈さえ気づかなかった父の微かな痕跡を、徹底した分析だけで特定してみせたのだ。
「それに、俺はこの場所を隅々まで知っとる。俺の親父がな、このサロンの専属鑑定士を任されとったんや」
佐伯はドアノブから手を離し、不快そうに自分の手のひらを見つめた。
「幼い頃、資料を届けに来るたびに、このドアの重みと中に充満しとる腐った金と権力の匂いに吐き気がしたもんや。親父は、ここで交わされる醜い契約書の筆跡を鑑定し、誰が誰を裏切ろうとしとるか、その『文字の震え』を権力者に報告して飯を食うとった。俺にとって、ここは鑑定という技術がどれほど残酷な武器になるかを教え込まれた、最低の教室やったってわけやな」
佐伯は迷うことなくドアを押し開く。
室内に広がっていたのは、磨き抜かれたマホガニーのカウンターと、琥珀色の光を湛えたクリスタルグラスが並ぶ、浮世離れした空間だった。支配人と思われる初老の男が、不審者を排除しようと鋭い視線を向けたが、佐伯がポケットから取り出した一枚の古い名刺を差し出した瞬間、男の顔から血の気が引いた。
「……佐伯先生のご子息ですか。まさか、またこの場所へ来られるとは」
「昔話をしに来たんやない。三十年前の特定の時期の芳名帳を出せ。断る権利があんたにないことは、この名刺を見ればわかるやろ」
佐伯は、長年このサロンの主であったかのような、流麗で有無を言わせぬ所作で支配人を手玉に取り、奥から一冊の分厚い帳面を引き出させた。それは、三十年前の空気を閉じ込めたままの、古い芳名帳であった。
「……見ろ。これが三十年前、あんたのお父さんが歩いた時間の断片や」
佐伯が革張りのテーブルの上で、音もなくその頁を開く。ページを捲るたびに、古い紙特有の、少し饐えたような甘い匂いが鼻腔を突いた。
「俺の親父が、見逃したはずのない記録やな」
佐伯の細く白い指先が、ある一箇所でピタリと止まる。そこには、春奈が幼い頃から見慣れていた、山城正蔵の几帳面で整った筆跡が確かに記されている。だが、そのすぐ隣、本来なら家族の名前が並ぶべき場所に、彼女の全く知らない文字が躍っていた。
流麗で、それでいて奔放。
母の控えめで慎ましい文字とは似ても似つかない、挑発的ですらある女性の筆跡。
(……これ、誰? お父さんの隣に、なんでこんな知らない女の人の名前があるん? 嫌や……、見たくない。こんなの、私の中にあるお父さんの記憶が、全部嘘やったみたいに思えてしまうわ!)
春奈の指先が、冷たい恐怖によってガタガタと震え始める。正蔵という男の、家族には決して見せなかった男の顔が、インクの染みとなって生々しく立ち現れてきたからだ。拒絶反応で眩暈を覚える彼女の横で、佐伯はその女性の文字を、まるで愛撫するように指先でなぞった。
「文字いうんは、どんなに取り繕っても嘘をつけん。特にな、この一画の終筆や。筆先を離すその刹那、意識の底にある相手への執着が……ドロリとした重い感情が、隠しきれずに漏れ出しとる」
佐伯はさらに顔を近づけ、文字の深淵を覗き込むように目を細めた。
「この女、あんたのお父さんのことを、狂おしいほど自分のものにしようとしてたんやな。あんたには見えるか? このインクの溜まりは、ただの汚れやない。誰にも知られたくない秘密を抱えた人間が、一瞬だけペン先を止めた……その躊躇いの証明や」
佐伯は、鋭い眼光を芳名帳から逸らすことなく、追い詰めるような言葉を重ねる。春奈は、父の領域が土足で踏み荒らされるような屈辱と、同時に沸き上がる抗いがたい好奇心の間で引き裂かれていた。
(嘘や……。お父さんは、そんな不潔なことする人やない。佐伯さんの言う通りなら、この文字の掠れは……、この執念みたいな線は、何なん? 私は、お父さんの何を信じて生きてきたんやろ……)
恐怖で喉が震え、涙が溢れそうになるのを必死でこらえる春奈だったが、不意に、佐伯の鋭い横顔から目が離せなくなっている自分に気づいた。三十年前の情念を、まるで今起きていることのように解読し、他人の人生を無慈悲に、それでいて完璧な論理で解剖していく男。
その横顔には、世俗の倫理を鼻で笑うような気高さと、真実のためなら誰の心をも踏みにじるという、純粋なまでの狂気が宿っていた。
冷たい汗が彼女の背中を伝う中、サロンの壁に掛けられた古い振り子時計が、重々しく刻を告げる。佐伯の指先が再び紙の上を滑り、彼女の知らない過去の扉が、音もなく、しかし決定的に開かれていく。
「……さあ、次のページを捲れ。ここから先は、あんたが描いてきた綺麗な家族物語の打ち切りやぞ。準備はええか?」
佐伯の薄い唇が、獲物を狙う蜘蛛のように、わずかに歪んだ。春奈は、逃げ出したいという本能を必死に押し殺し、その厳しい指先に導かれるまま、父という男の深淵へと、さらに深く引きずり込まれていった。
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