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<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第00話 第一幕 拒絶と契約の重み編

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第04話 脱皮する隠者

 三宮、生田新道。

 頭上を走る高架から降り注ぐ阪急電車の轟音が、真夏の分厚く湿った空気を絶え間なく震わせている。アスファルトが放つ暴力的なまでの照り返しは、行き交う人々が吐き出す粘り気のある熱気と混じり合い、視界の端を陽炎のようにぐにゃりと歪ませていた。逃げ場のない酷暑の中、コンクリートの隙間から這い上がる熱波が、通行人の足元を容赦なく焼き焦がしていく。


 山城春奈は、駅前の待ち合わせ場所で、何度も手元の時計の針を盗み見ながら所在なく立ち尽くしていた。大倉山の、あの時代に取り残されたような陰鬱な邸宅から解放されたものの、約束の時間は既に十分を超えて過ぎ去っている。首筋を伝い、背中の中心へと流れ落ちる汗がブラウスを不快に張り付かせ、じわじわと彼女の忍耐の限界を削り取っていった。


(……ほんまに来てくれるんやろか。あんなむちゃくちゃな試練出しといて、自分は知らんぷりとか。印刷された線の掠れから作者の心理を読み解けなんて、今思い出しても正気とは思えへんわ。必死で食らいついて、震える指でページめくって……。なんとか合格はもらったけど、あの人の合格基準、一生理解できへん気がする。もしこれで来んかったら、あの漫画の続き、無理やり全巻読み聞かせに乗り込んでやるんやから……!)


 

 数日前、彼女は佐伯から放り投げられた少女漫画という名の戦場で、文字通り穴が開くほど紙面を見つめ抜いた。

 印刷された無機質な線の集合体。そこに宿る、描き手の微かな迷いや、ペンの速度が一段速まった瞬間の決意。それらを春奈が指摘したとき、佐伯は初めてその口角を僅かに吊り上げたのだ。その表情は、獲物を仕留めた獣のような、どこか満足げで恐ろしい色を帯びていた。


「……合格や。あんた、意外とええ眼を持っとる。他人の嘘を暴くための残酷な眼やな」


 その言葉が、賞賛なのか、あるいは拭い去れない呪いなのかも判然としない。春奈は、指先でバッグのストラップを千切れんばかりに強く握りしめる。

 脳裏にこびりついて離れないのは、不条理なテストを突きつけてきたあの凍てつくような眼差しだ。周囲を歩く華やかな通行人たちの、幸せそうな笑い声が、今の自分の不安をさらにどす黒く助長させていく。


 

 その時だった。

 背後から、一切の迷いを感じさせない、硬く乾いた革靴の音が近づいてくる。一歩一歩が地面の石目を正確に捉え、雑踏の耳障りな騒音を鋭く切り裂くような、凛とした響き。それは、無秩序な街の喧騒の中に突如として現れた、一点の法秩序のような足音だった。


「……背筋を伸ばせ。景色に呑まれるような人間に、文字の裏側を歩く資格はないんやぞ」


 耳元で響いたのは、聞き覚えのある、低く地を這うような重低音。しかし、そこに含まれる響きには、あのカビ臭い薄暗い部屋で漂わせていた倦怠感の欠片もなかった。言葉の端々に、研ぎ澄まされた刃物のような緊張感が宿っている。


 春奈が驚いて振り返った瞬間、視界に飛び込んできた光景に、彼女は思わず息をすることさえ忘れた。あまりの衝撃に、心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がり、肺の空気がすべて外へ押し出されたような空白感に陥る。眼前にある存在が、自分の記憶にあるあの男と同一人物であることを、脳が必死に拒絶していた。


 

 そこに立っていたのは、前回会った小汚い隠者ではない。

 長年、埃と虚無にまみれていたはずの猫背は、天を衝くような傲慢な直線へと修正され、仕立ての良い漆黒のスリーピースが、その細身な体躯を完璧なまでに包み込んでいる。


 何より彼女を圧倒したのは、その非現実的なまでの”高さ”である。

 あの薄暗い部屋で丸まっていた背が、嘘のように真っ直ぐに伸びきったことで、彼の頭頂は春奈の視界の遥か上方へと押し上げられている。平均的な女性の身長である春奈が、首を大きく後ろに反らせ、痛みに似た緊張を覚えながら見上げなければ、その表情を捉えることすら叶わない。その威圧的な高身長は、まるで彼がこの街を見下ろす支配者であるかのような錯覚を抱かせる。


 仕立ての良さが一目でわかる上質な生地は、真夏の太陽を冷ややかに跳ね返し、まるで彼自身の周囲にだけ、別の物理法則が働いているかのような錯覚を抱かせる。影のように深い黒は、乱雑な街の色彩を一切寄せ付けない、拒絶の輝きを放っているかのようだった。


 無精髭が綺麗に剃り落とされたその顔立ちは、彫刻家が心血を注いで削り出したかのような、非の打ち所がない美しさを放っている。眼光は、触れたものすべてを瞬時に凍らせるような、恐ろしいまでの厳格さを帯びている。三一歳という若さと、その年齢にそぐわない、数多の修羅場を越えてきたかのような老練な風格が、奇妙な調和を保って同居していたのだ。


(……誰? この人が、あの佐伯さん……? 嘘、変わりすぎやって。まるで、古い皮を脱ぎ捨てて、中から本物の貴族が出てきたみたいやん。あんなヨレヨレのTシャツ着て漫画読んで泣いてた人と、同一人物やなんて誰が信じるんよ。……それに、こんなに背、高かったん? 見上げすぎて首痛いわ。今の姿、本気で怖いんやけど……!)


 春奈の心臓が、耳の奥まで届きそうなほど不規則で激しい音を立て始める。目の前の男から放たれる圧倒的な存在感に、周囲の通行人さえもが、無意識に道を開けていくのが分かった。あまりの豹変ぶりに、彼女は言葉を失い、ただ呆然と唇を震わせるしかなかった。


「……何か、文句でもあるんか。俺の顔に何かついとるか?」


 佐伯は困惑する春奈を無機質な瞳で見下ろし、整えられた袖口を微かに直した。白く細い手首に巻かれた時計の金属が、太陽光を乱反射させ、彼女の網膜を灼く。その一挙手一投足には、無駄を削ぎ落とした、隙のない洗練された動作が宿っていた。


「場所には場所の礼儀いうもんがある。筆跡いうんは、単なる紙の上の染みやない。その時、その場所の景色に溶け込み、空気と同化しとるもんや」


 彼は一度言葉を切り、高い位置から周囲の喧騒を疎ましそうに一瞥した。その仕草一つ取っても、まるで古の舞台を演じる名優のように洗練されている。


「礼を失した格好で立ち入れば、真実はその姿を隠してまう。俺は俺の美学に則って仕事をするんや。文句があるなら、今ここで二割払って帰れ。引き止めるつもりは毛頭ないぞ」


 その言葉は、相変わらず極端で、聞く者を選別するような不条理さに満ちている。しかし、目の前の完璧な紳士が口にすると、それがこの世の唯一の心理であり、抗うことのできない絶対的なルールであるかのような錯覚さえ覚えてしまう。


「いつまでも呆けてる暇はないぞ。時間は刻一刻と過ぎとる。あの日のお父さんと同じ太陽の角度、同じ風の流れを捕まえにいくんや。それが、死者の足跡を辿る唯一の作法やからな。遅れるな」


 佐伯はそう言い捨てると、一切の迷いがない力強い足取りで雑踏の中へと踏み出す。彼の周囲だけが、まるで映画のワンシーンのように静止して見える。春奈は、その速すぎる背中を追うために、慌てて一歩を踏み出した。


(あの少女漫画を読んでボロボロ泣いてた小汚い男の人と、目の前の完璧すぎる姿。どっちが本当の彼なん? それとも、どっちも偽物で、中身は空っぽの怪物なんやろか……? でも、このままついていかな、お父さんの影まで消えてしまいそうやわ。怖いけど、行くしかないんや)


 答えの出ない問いが頭の中を激しく駆け巡るが、春奈は抗うことができなかった。佐伯がふと立ち止まり、細く長い指先で彼女の進行方向、三宮の奥深くを指し示したその瞬間、彼女はまるで深い底なしの霧の中に引きずり込まれるような、抗い難い感覚に囚われる。


 神戸の街並みが、佐伯という男の変貌によって、昨日までとは全く別の、不気味で重厚な色彩を帯びていくかのようだ。

 春奈は、自身の運命が、あの手紙の掠れと同様に決定的に変質したことを悟りながら、その背中を追いかけ、三宮へと足を踏み入れた。頭上の蝉時雨が、まるで彼女の覚悟を嘲笑うかのように、さらに激しく鳴り響いている。

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