第03話 少女漫画の罠
「具体的に、調査いうんは何をするんですか? ただ紙をじっと眺めるだけで、死んだ人間の本心がわかるなんて、とても信じられないんですけど……」
春奈の問いかけは、熱気に充満した室内で頼りなく霧散する。
あまりに浮世離れしたこの隠者の領域に対する、当然の疑念である。
佐伯は手元のルーペを置くことなく、指先だけで万年筆を弄び、その瞳は依然として紙の繊維に吸い込まれたままである。
「まずは道具の特定からやな。あんたのお父さんがその手紙を綴った瞬間に握っとったペン、選んだインクの色……。それと寸分違わぬ製造ロットの代物を、俺はこの世の果てまで探して見つけ出す。その上で、当時の神戸の気温、湿度はもちろん、大気の気圧まで精密に割り出し、あの日、あの場所の空気感をこの部屋に完全に再現するんや」
佐伯は一度言葉を切り、机の端に置かれた古い湿度計へ視線を走らせた。その動きは緩慢だが、獲物を狙う猛禽類のような、冷ややかな正確さを感じさせる。
「インクがどのように紙の筋に浸透し、どのように無残な掠れを生んだのか。その一滴の滲みに宿る物理的な必然性を、一つ一つ丁寧に解剖していくんや。顕微鏡の向こう側にある微細な世界こそが、嘘のつけへん真実の姿やからな」
佐伯はそこでようやく顔を上げ、執着の塊のような瞳で春奈を真っ向から射抜いてくる。その視線は、彼女の衣服を通り抜け、脊髄の奥に直接触れてくるような不気味なまでの熱を帯びている。
「もし、紙の上の証拠だけでは不十分やと俺の直感が告げたら、その時は現地へ飛ぶ。それがたとえ、神戸の入り組んだ路地裏であろうが、雪の降り積もる東北の山奥であろうが、俺には関係ない。その場所の空気の重さ、地面の傾斜、書き手の網膜に映ったであろう西日の角度。それらすべてを俺自身の肉体で追体験し、細胞レベルで刻み込まん限り、文字の向こう側に隠された真実は、永遠に姿を現さん」
春奈は思わず、一歩後ずさった。男の言葉に宿る狂気にも似た熱量が、部屋の温度をさらに数度押し上げたような錯覚に陥る。しかし、父の遺したあの掠れの正体を知りたいという望みが、彼女の足をその場に踏み止まらせる。
「それなら……なおさら、私もその調査に同行させてください! お父さんが最後に何を思って、どんな景色を眺めて歩いたのか。それをこの目で、私自身の足で確かめたいんです。それが娘としての義務やと思うから」
埃の舞う静寂を激しく揺らしたのは、春奈の喉の奥から絞り出された、剥き出しの悲鳴のような訴えであった。しかし、佐伯は再び手元のルーペに視線を戻すと、一切の妥協を排した、氷の刃のような拒絶を冷ややかに突きつけた。
「断る。素人が現場に立ち入れば、景色に刻まれた繊細な筆致を濁らせるだけや。あんたの身勝手な主観や、湿っぽい未練が、俺の研ぎ澄まされた視界を邪魔すんねん。そんな雑音を抱えたまま、真実の純度を保てるわけがないやろ」
佐伯は鼻を鳴らし、机の上に積み上げられた古い資料の束を無造作に整理し始めた。その指先は驚くほど細く、そして繊細に動き、まるで空気そのものを操っているかのような錯覚を抱かせる。
「俺の仕事は、感情のゴミを掃除することやないんや。真実をそのままの形で引きずり出すことだけが、俺の存在意義や。余計な感傷を持ち込む人間は、その過程で必ず壊れる。俺は壊れもんを抱えて仕事をする趣味はないからな」
その拒絶は、あまりに無機質で、血の通った人間の言葉とは思えないほどに硬く、重い響きを持っている。佐伯の脳裏には、過去に同行を許してしまった依頼人たちの、惨めな末路が古いスライドショーのように蘇ってくる。
「俺はな、『未完の連載』いうもんほど、胸糞が悪うて反吐が出るもんはないと思てるんや。あんたに、少女漫画の最終回を……物語の結末を、自らの手で無残に破り捨てるほどの覚悟があるいうんか?」
佐伯は立ち上がり、ゆっくりと春奈との距離を詰めてくる一歩ごとに、床板が悲鳴を上げ、古い家の空気そのものが彼を避けるように渦巻いた。
「真実いうんは、時にそれほどまでに、救いようのない絶望を突きつけてくるもんやぞ。あんたがこれまで大切に温めてきた、お父さんとの思い出いう名前の宝箱を、ハンマーで粉々に砕き割るような結末やとしても、それを受け止める覚悟があるんか?」
問いかける彼の声は、酷暑の室内において、そこだけが真空の暗闇であるかのように冷え切っていた。
なおも諦めきれずに食い下がる春奈に対し、佐伯は先ほどまで慈しむように読み耽っていた文庫版の少女漫画を、まるで道端に転がっている石ころでも扱うかのように、無造作に彼女のつま先へと放り投げた。乾いた、紙束特有の鈍い衝撃音が、古い畳を虚しく震わせる。
「ええやろ。そこまで言うんなら試練や。その巻のクライマックス、ヒロインが心にもない嘘の笑顔を浮かべる名場面がある。そこを、あんたのその節穴の眼で読み解いてみろや」
春奈が戸惑い、汗ばんだ指でページを捲ると、佐伯は皮肉げに唇の端を吊り上げ、歪な形に歪めた。
「……一応言うとくけどな、大量印刷されたコミックに筆圧なんて物理的なもんは存在せえへん。そんなもんは工場の機械で均一化されただけの、無機質な記号に過ぎんのや」
佐伯は窓際まで歩み寄り、鬱蒼とした緑の奥に視線を投げた。蝉の声がさらに激しさを増し、耳鳴りのように頭蓋の中に響き渡る。
「そやけどな、作者いう一人の書き手が、その一線を引いた時、どれほどの速度で、どれほどの迷いと葛藤を持ってペン先を走らせたか。それは行間の余白の取り方、スクリーントーンの密度、そしてキャラクターの視線の先にわざと残された『描かれなかった空白』に必ず滲み出るもんや」
彼は音もなくスッと振り返り、背後から伸びる巨大な怪物の影のように春奈を威圧する。古い木造家屋が、彼の不吉な重みを受けて、ぎりりと苦しげに軋む。
「このヒロインの裏側に隠された心理を三行以内で説明してみろ。印刷された線の向こう側にある作者の運筆の乱れを……、引いてはキャラクターの魂の震えを正しく読み取ってみろ」
佐伯の眼光は、もはや彼女の存在を一個の人間として認めてはいない。ただ、彼女が真実の深淵に耐えうる”適格者”か、あるいは無知なまま引き返すべき”不適格者”かを選別するための冷ややかな計測器と化していた。
「それができん半端者に、生身の人間が死に際に遺した、あのドロドロと腐った執念の筆跡を追う資格はない。あんたに、真実と向き合うための眼があるか、今ここで証明してみせろ」
(……印刷された線に、作者の運筆を読み取れですって? この男、本気で言っているの。量産されたインクの染みに、生身の筆圧が宿るはずなんてない。そんなことは、私にだってわかってる。でも……)
春奈は心の中で激しく毒づきながらも、その視線は足元のページに縫い付けられていた。佐伯の言葉は、単なる支離滅裂な放言ではない。彼には見えていて、自分には見えない『何か』が、この白黒の抽象的な線の集合体の向こう側に確実に存在している筈だ。その圧倒的な事実が、彼女のプライドを容赦なくゴリゴリと削り取っていく。
(この男には見えてるんや。この線の掠れが、作者がペンを握りしめた指の震えそのものに見えてる。虚構の物語を、単なる絵空事としてではなく、生きた人間の絶叫として解読しているんだわ。……なんて恐ろしい感性。でも、なんて身勝手で、研ぎ澄まされた狂気なの)
春奈の指先が、内側から沸き立つ激しい怒りと、己の無力さに対する底知れない困惑によって、不気味なほど白く染まっていく。
大倉山の濃密で深い緑が、部屋の温度をさらに奪い去るかのように重苦しい影を落とし、彼女の決意を試すかのような沈黙が、さらなる鉛のような重圧となってその肩にのしかかってきた。
(そやけど、ここで「そんなの無理」と笑って引き下がってしまったら、お父さんのことが一生わからないまま、暗い闇の中に取り残されてしまう。そんなの、絶対に嫌。たとえこの男のやり方がどれほど正気を疑うものであっても、私には、この不確かな細い糸を辿るしか、真実へ至る道はないんだから……!)
眼鏡の奥の瞳は、激しい感情の濁流に激しく揺れながらも、決して目の前の紙面から、運命の糸口から目を逸らそうとはしなかった。
無機質なインクの縁に、物語という仮面の下に隠された『誰かの本音』を必死に探り当てようと、彼女は全神経を網膜に集中させた。
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