第02話 二割の対価
山城春奈は、玄関先の薄暗がりに立ち尽くしたまま、出口のない沈黙に身を委ねていた。目の前では、伸び放題の髪を無造作に結んだ男、佐伯卓也が、床一面を埋め尽くす少女漫画の山に埋もれ、喉を震わせて大粒の涙を零し続けている。あまりの暑さと、視界に入る光景の異常さに耐えかね、春奈が痺れた足の位置を僅かに変えようと、靴底を微かに鳴らした、その瞬間であった。
「……じっとしとけ」
低く、地を這うような拒絶の響きを含んだ声が、静寂を切り裂く。佐伯は紙面から目を逸らすことなく、しかし獲物の動きを察知した獣のような鋭さで、凍てつく言葉を叩きつける。
「動けば空気が揺れる。その微かな振動が、俺とこの物語を邪魔すんねん。感情の糸が千切れるやろ。呼吸以外の無駄な動きは一切すんな。石像にでもなったつもりで、そこに固まっとけ」
逆らうことすら許されない圧倒的な威圧感を前に、春奈は喉を鳴らして息を詰め、彫像のように硬直した。
それから、どれほどの時間が経過しただろうか。開け放たれた縁側から入り込む熱波が、じわじわと体力を削り取り、首筋を伝う汗が背中を不快に濡らしていく。遠くで鳴り響く蝉時雨さえ、この部屋の重圧に押し潰されて、異界の騒音のように遠のいていく。
三十分。ただ立ち尽くし、男が虚構の海で溺れ、その感情を消費し尽くすのを待つだけの、拷問にも似た停滞が延々と続いた。
ようやく、佐伯が最後の一ページを、名残惜しそうに、ゆっくりと閉じた。その瞬間、物語に涙していた読者としての貌は霧のように消え去り、そこには一切の私情を削ぎ落とした、剥き出しの専門家の顔が立ち上がる。
(……逃げたい。この人の瞳の奥に広がる、底の見えへん虚無の深淵。そこに引きずり込まれたら、二度と元の自分には戻られへん気がする)
春奈は痺れた脚に力を込め、震える指先で一通の便箋を差し出した。父、山城正蔵が遺した、最後の言葉。生前の父の潔癖な性格を象徴するかのように、丹念に、几帳面な筆致で積み重ねられた文字の羅列。
しかし、その最後、最も重要であるはずの結びの一行だけが、まるで激しい雨に打たれたか、あるいは書き手の剥き出しの慟哭が滴り落ちたかのように無残に掠れ、判読不能な黒い染みと化している。
「紹介状は?」
「あっ、ごめんなさい。これです。どうぞ」
佐伯は、紹介状を受け取り中を改め、一度頷く。
「お父さんの最後の一行を……解読してほしいんです。お願いします」
絞り出すような彼女の訴えを、佐伯は温度を一切感じさせない指先で、受け取った。彼がゆっくりと腰を浮かせ、畳の上に立ち上がると、古い木造の床が悲鳴のような軋みを上げ、邸宅全体の空気が一瞬で氷点下まで凍りついたかのような錯覚を覚えた。
「筆跡解析いうんは、魔法やない。紙の上に遺された、指の震えや筆圧の偏り……。そういう微かな痕跡から、文字の裏側に潜む『人間の本性』を、無理やり引きずり出す作業や。そこには取り繕った善意も、磨き上げられた道徳も通用せえへん」
佐伯は便箋を電球の光に透かし、紙の繊維の僅かな乱れまでも見透かすような、鋭利な眼差しを向ける。その横顔には、他者の感情に寄り添うような甘さや慈悲は、微塵も存在しない。
「ええか。依頼料は、俺がすべての真実を暴き出し、あんたの目の前に報告書を叩きつけた瞬間に支払ってもらう。完全な後払いや。逃げ隠れはさせへんぞ。俺が費やす時間は、あんたの人生の一部を買い取るのと同義やからな。その対価は重いぞ」
彼は春奈の眼鏡の奥にある瞳を、射抜くような鋭い眼光で見つめた。その瞳に宿るのは、好奇心などという生温かい情念ではなく、対象を微塵に解体し尽くそうとする厳しい光。まるで、顕微鏡で生きたままの細胞を観察し、その苦悶さえもデータとして処理する科学者のような、冷ややかな残酷さが感じられた。
(でも、このままお父さんのことを何も知らんまま、嘘の記憶を抱えて生きていくのは、もっと耐えられへん。たとえそれが、取り返しのつかない地獄への入り口やったとしても)
春奈の脳裏に、どす黒い不安が去来する。佐伯は彼女の動揺を見透かしたように、さらに冷酷な、救いのない条件を重ねた。
「ただし、一つだけ厳格な条件がある。調査の過程で、あんたがこれまで信じきっとった父親の清廉な虚像が粉々に壊れてしもて、真実から目を逸らしたくなったなら……その瞬間に、あんたには、知らなくていい権利を売ってやる。無知という名の幸福や」
佐伯は春奈の僅かな呼吸の乱れ、そして握りしめた拳の震えを逃さず、言葉の刃を深く突き立てる。
「それまでの調査にかかった実費に加えて報酬の二割、それを『キャンセル料』として支払って、この屋敷から今すぐ立ち去れ。契約解除や。その場合、俺は二度と、この一行の裏にある真実を口にはせん。墓場まで持っていってやる。死ぬまでな」
彼はこれまで、文字の深淵を幾度となく渉猟し、理想の夫が隠し持っていた悍ましい裏切りや、慈愛に満ちた親の心根に潜む、救いようのない本性を暴き出してきた。
そして、あまりに重すぎる真実の重みに耐えきれず、自ら耳を塞ぎ、震える手で二割の代価を支払い、逃げ出していく依頼人の背中を、幾度となく見送ってきたのだ。
彼の瞳の奥に宿る孤独な光。それは、真実という名の劇薬だけを見つめ続け、その毒に全身を侵された者だけが背負う、呪いのような輝きであった。
「……完遂か、それとも二割を払って逃げるか。それが、あんたが知るはずのなかった絶望の値段や。選ぶんやな。このまま光の中で安っぽい嘘をつき続けるか、泥の中に沈んだ真実を掴み取るか。あんたにその覚悟があるんか、試させてもらうわ」
(お父さんの嘘。お父さんの隠し事。もし、それが私の知らない、恐ろしいもんやったら。私はその時、二割の金を払って、背中を向けて逃げるんやろか。……嫌や。そんなん、一生自分を許されへんようになる)
突き放すような彼の宣告に、春奈は思わず息を呑んだ。肺の奥まで乾いた冷気が入り込み、思考が白く染まっていく。握りしめた拳は、本能的な恐怖からか、あるいはそれ以上の、己を律する覚悟からか、微かに、しかし激しく震えていた。
(……でも、もう後戻りはできへん。この男に会うてしもた時から、私はもう、今まで通りの安らかな場所には帰られへんのやわ。針は、もう動いてしもたんや)
屋敷の隅で、永い沈黙を守っていた古い振り子時計が、まるで処刑の合図を告げるかのように、運命の秒針を重く、残酷に刻み始める音が部屋中に響き渡る。
春奈は、白く曇りかけた眼鏡を指先で震えながらも押し上げ、佐伯の眼差しを逃げることなく、真っ向から見据えた。
大倉山の重苦しい沈黙が、二人の間に、切り崩しようのない壁のように立ち塞がっていた。
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