第01話 坂の上の隠者と紹介状
(……この坂道そのものが、現実を無慈悲に削り取る巨大な砥石みたいや。一歩、また一歩と足進めるたびに、足首が重苦しい過去の澱みに、底なしの沼に沈んでいくような気がする。肺を焼くこの空気、ほんまに現世のもんなんかな。それとも、私は知らん間に死者の領域へ足踏み入れてしもたんやろか)
連日の猛暑が、神戸・大倉山の入り組んだ坂道を白く焼き尽くしていた。網膜を直接灼くほどに無機質で、暴力的な白光が天から降り注ぎ、逃げ場のない熱波が街の輪郭を削り取っていく。
アスファルトの裂け目から立ち昇る陽炎は、まるですべての記憶と現実の境界をドロドロに歪ませようとする悪意そのもののように、視界の端々を無残に溶かし去っていた。
山城春奈は、ハンカチで幾度拭っても追いつかない汗を滲ませながら、掌の中に握りしめた一通の紹介状の感触を、強迫観念に駆られたように確かめていた。
それは、父の葬儀という名の、虚礼と形式に埋め尽くされた悲痛な喧騒の中で再会した、父の古い親友から託されたものだった。
あの悪夢のような日、父は裏六甲と呼ばれる深い山中で、変わり果てた姿となって発見された。遺書もなく、動機も不明なまま、警察によって不慮の原因不明の自殺として片付けられてしまった父の最期。
そのあまりにも突然で不可解な他界によって、寄る辺ない孤独に打ちひしがれる彼女の傍らに、その人は寄り添ってくれた。
彼は、春奈が幼い頃から実の娘のように慈しみ、折に触れては温かな手を差し伸べてくれた、父にとって唯一無二と呼べるほど厚い信頼を寄せた人物である。
父が遺したあまりにも不可解な遺品。誰に宛てたかも、何を伝えようとしたのかも判然としない、乱れた筆跡と断片的な感情が撒き散らされた支離滅裂な、書きかけの手紙。
それを読み、父という人間の内側に、自分が一度も触れたことのない深淵が口を開けていたことを知ったとき、春奈は身のすくむような恐怖を覚えた。裏六甲の深い山奥で父の身に一体何が起きたのか、どうして自ら命を絶たねばならなかったのか。その震える唇で、困惑と底知れぬ恐怖を必死におじ様に打ち明けた際、彼は深く、奈落の底を覗き込むような沈痛な面持ちでしばらく黙り込み、やがて儀式のように重々しく万年筆を取り出したのである。
「あいつが、人生の終幕で何を遺そうとしたのか、私には見当もつかない。裏六甲の山中で何があったのかもな。……だが春奈ちゃん、もしその手紙の先にある真実を、どれほど残酷であっても君が知らねばならないと思うのなら、大倉山へ行きなさい。そこに住まう隠者に、この紙を差し出すといい。それと、後で隠者への紹介状を書いてあげよう」
そう言って差し出された封筒は、永い歳月を経て毒々しいほど茶色く変色し、縁を蝕むようにして繊維が脆く崩れかかっていた。そこには、その友人が、いつか来るべき魂の審判のためにと、自身の書斎の奥底で大切に秘匿していたのであろう執念のような、どす黒い脂汗の跡が深く染みついている。今までの人間関係の重圧を今なお微かに、そして粘り強く宿しているかのようだった。その紙の感触が、指先を通じて春奈の心臓を不規則に、そして暴力的に叩き続けている。
文明の利器たる地図アプリからも、効率を至上命題とする現代社会の恩恵からも徹底して見放されたその場所は、市街の喧騒を嘲笑うかのように、鬱蒼たる木々に飲み込まれそうな古い平屋として、ひっそりと息を潜めていた。
錆びついた門扉は、触れるだけで指先に鉄錆の不快な臭いを移し、門を開ける際の軋みは、まるでこの家自体が、闖入者に対して上げる悲鳴のようにも聞こえる。
その敷地に一歩足を踏み入れた瞬間、頭上から降り注ぐ暴力的なまでの蝉時雨が、侵入者を拒絶する数万の呪詛の叫びとなって彼女の鼓膜を容赦なく突き刺してきた。大気は肺胞を直接焼くほどに濃密で、逃げ場のない熱波が、春奈の意識を混濁させようと執拗にまとわりついてくる。
「……ごめんください。……どなたかいらっしゃいませんか?」
喉の奥で震える声を、ようやくの思いで絞り出す。しかし、期待していた人間らしい、温かみのある応答は返ってこない。ただ、大きく開け放たれた縁側の暗がりから、古い紙が放つ特有の饐えたような匂いと、煙草から立ち昇る紫煙の香りが、重苦しい湿気とともにじわりと漂い出てくるだけだった。
そこには、単に時が止まったというより、時の流れそのものが淀み、腐敗し、しかし奇跡的に熟成されているかのような独特の重圧が横たわっている。
死の気配すら漂うその静寂を侵し、意を決して踏み込んだその場所で、彼女は人生で最も異様な、そして理解を絶する光景を目の当たりにすることとなる。
そこは、感情の残骸が集積された、いわば『文字の墓場』のようだった。
床一面を埋め尽くし、天井の梁に届かんばかりに不安定に積み上げられているのは、およそこの邸宅の古びた佇まいや、外界を拒む厳格な沈黙には不釣り合いな、何百冊、何千冊という膨大な数の少女漫画の山である。
色鮮やかな表紙たちは、どれも幾度となく、執拗なまでにめくられたせいで手垢に黒ずみ、ページが季節の湿気を吸って波打つほどに読み込まれている。その一冊一冊が、かつて誰かが抱いた切実な恋心や絶望を封じ込めているかのように、異様な熱を帯びて部屋の酸素を奪っている。
その情報の氾濫、色彩の洪水の中央で、伸び放題の髪を無造作に投げやりに結び、骨ばった猫背を限界まで丸めて、大粒の涙で頬を濡らしながら一冊の文庫版『きらめき☆放課後デイズ』を凝視している男がいた。
世に知られぬ職能、終筆士・佐伯卓也。
彼は、ようやく春奈の存在に気づくと、充血した赤黒い瞳をゆっくりと彼女の方へと向けた。その眼差しは、慈悲など微塵も持ち合わせない、不審者を徹底的に排除しようとする鋭利な刃の如き一瞥。それは、他者の立ち入りを断じて許さぬ、剥き出しの孤独と傲慢に満ちた、凍てつくような拒絶の光だった。
「今はヒロインの翠が、一番残酷な失恋を噛み締めとう場面や。……俺の神経逆撫でするな。邪魔せんといて」
その声は低く、そしてひどく掠れていた。まるで何十年も湿った地下室に放置され、ひび割れたチェロの弦を、錆びた弓で無理やり弾いたかのような、不快な振動を伴って室内に響き渡る。
「俺の内側で、ようやく繋がり始めた感情の連続性が、あんたの無粋な気配のせいで無残に途切れてまうやろ。……ええか、他人の人生に土足で踏み込むつもりやったら、せめて物語の幕が下りて、それなりの救いがもたらされるまで待っとき。俺の思考いう、壊れやすくて繊細な回路から、彼女らが流した尊い涙を、一滴たりとも床に零さんといて」
浮世離れした理屈を、吐き捨てるように突き放し、彼は再び、自分の魂そのものを薄く削り出すようにして紙の中の虚構へと、深く深く没入していく。
玄関先で立ち尽くす春奈の眼鏡は、室内外のあまりの温度差と、目の前の男が放つ圧倒的な狂気、あるいはその異質さに対する底知れぬ困惑によって、真っ白に曇り果てていた。
視界が遮られることで、逆に男の啜り泣く喉の震えと、暴力的な蝉時雨の轟音だけが脳内に直接響き、足元の感覚すら奪い去っていく。
(この人が? この、正気を疑うような男が、あの優しいおじ様が『針を動かしてくれる』て信じて、藁にも縋る思いで託した相手なん? 嘘やろ? お父さんが裏六甲で亡くなった真実や、あの支離滅裂な書きかけの続きを、死者の真実を綴るいうん? 少女漫画の一コマに心切り刻まれて、他人の虚構の恋に自分を見失っとう、こんな世捨て人みたいな隠者が)
春奈は曇りきった視界の奥で、ただ呆然と、男の震える肩を見つめるしかなかった。その背中は、背負いきれないほどの他人の未練を引き受けてきたせいか、実際よりもずっと小さく、今にも壊れてしまいそうなほど脆く見える。
大倉山の濃密で、底知れぬ深淵のような緑が、外界の光を完全に遮断するように、逃れられない宿命の闇へと永遠に閉じ込めていくようだった。
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