第06話 少女漫画の鉄則
三宮の眩いばかりの陽光と、旧居留地の重苦しい過去の気配を強引に振り払い、二人は再び大倉山の高台へと戻ってきた。
坂道を登り詰め、時代から切り離されたような古びた門を潜ると、そこには外界の喧騒を一切拒絶するような深い緑の溜まり場が広がっている。
周囲の木々が吐き出す湿った空気は、下界の熱気とは明らかに一線を画しており、肌を撫でる風にはどこか墓所の土を思わせる冷ややかさが混じっていた。
屋敷の重厚な玄関を跨いだ瞬間、空気の質が劇的に変わった。ひんやりとした湿り気を含んだ土の匂いと、長い年月をかけて木材の奥深くにまで染み込んだ古いインクの香りが、春奈の鼻腔を優しく支配していく。それは、外の世界で味わった精神的な消耗を、ゆっくりと麻痺させていくような不思議な感覚を伴っている。
つい先ほどまで、漆黒のスリーピースに身を包み、周囲を圧倒する威圧感を放っていた紳士は、リビングに入るなり、その姿を霧のように霧散させた。
佐伯は、乱雑に脱ぎ捨てられたように置かれていた、首元の伸びきった小汚い綿シャツに迷うことなく袖を通す。それと同時に、天を衝くほど真っ直ぐに伸びきっていた背筋が、まるで重力に屈したかのようにぐにゃりと折れ曲がった。たった一秒前までの洗練された風格はどこへやら、彼は瞬時にして、世捨て人のような倦怠感の塊へと変貌を遂げた。
「……はぁ、疲れたわ。あんな窮屈な格好、二度としたないな。肺が縮んで死ぬかと思ったわ」
佐伯はそう毒づきながら、床に積み上げられた本の山を器用に避け、定位置である使い古されたソファへと倒れ込む。そこには、三一歳の成熟した男性の面影など微塵もなかった。ただ、使い古された家具の一部と化したような、猫背の影がそこにあるだけだった。
(……ほんまに、何なんこの人。さっきまでの、あの息が止まるくらい綺麗やった姿は幻やったん? 今はただの、休日の昼間から動くのを放棄した脱け殻やん。変わり身が早すぎて、私の情緒が追いつかへんわ)
春奈は、戸惑いと、どこか拍子抜けしたような感覚を抱えながら、その様子を呆然と眺めていた。
その佐伯の指先には、既に一冊の少女漫画が握られている。表紙には、瞳の中に星を湛えた美形キャラクターたちが描かれ、過剰なまでの装飾が施されている。その可憐な本と、彼の不機嫌そうな顔との対比が、あまりに不釣り合いで、春奈は思わず噴き出しそうになった。
「……何がおかしいんや。笑うとる暇があるなら、あっちの棚の整理でもしとけ。俺の視界を遮るな、邪魔や」
佐伯はページを乱暴に捲り、物語の世界へと瞬時に没頭し始める。しかし、その眼光は決して娯楽を楽しんでいる者のそれではない。何かの真実を、紙の裏側から力ずくで引きずり出そうとするかのような、鋭く、そしてどこか悲痛なまでの真剣さが宿っていた。
「知っとるか? 少女漫画の鉄則いうんはな、ヒーローが抱える秘密は、常にヒロインを守るための優しさで構成されとるんや」
彼は一度言葉を切り、手に持った漫画のページを睨みつけるように見つめた。
「どんなに不器用な振る舞いであっても、その根底には愛がある。そこには純粋な自己犠牲が介在しとるんや。そやけど、現実はそうはいかんわ。漫画のように、綺麗な結末ばかりが待っとるわけやない」
佐伯は再び漫画を閉じ、表紙のヒーローの顔を親指で乱暴に擦る。その動作には、創作物への嫉妬とも、あるいは理想への諦めともつかない、形容し難い複雑な感情が滲んでいるようだ。
「現実はただの保身や。知られたくない醜態、守りたいだけのちっぽけなプライド。あんたのお父さんが隠し通そうとしたあの文字の主も果たして愛やったんか、それともただの逃げやったんか。どっちやろうな」
彼の意地悪な問いかけが、屋敷の重い空気の中にゆっくりと溶け込んでいく。春奈は、先ほど旧居留地のサロンで見た、あの流麗で執念に満ちた文字を思い出し、胸の奥がキリキリと締め付けられるような痛みを思い出す。父の優しい笑顔の裏に隠されていたかもしれないドロドロとした情念の影に、彼女は震えが止まらなくなる。
(……お父さんを信じたい。でも、あの文字の力強さを否定することもできへん。佐伯さんは、私を傷つけようとして言うてるん? それとも、現実の残酷さを教えることで、私の目を無理やり開かせようとしてるんやろか)
春奈は、反論する言葉を喉の奥で見つけられず、ただ黙って彼の横顔を見つめた。
ふと、部屋に漂う匂いが、先ほどよりも不思議と身近に感じられることに気づく。古い紙の匂い、微かなタバコの残り香、そして、この屋敷が吸い込んできた膨大な時間の蓄積。あんなに不気味で陰鬱だと思っていたこの空間に、抗いがたい安らぎを覚え始めている自分に、春奈は深い驚きを隠せない。
「……あんた、また呆けとるな。俺の顔に何かついとるか。それとも、この漫画の続きが気になるんか?」
佐伯は再びページを開き、今度は主人公のライバルが現れる緊迫した山場に差し掛かったのか、僅かに眉間に皺を寄せた。
「この作者、心の機微を描くのが異様に上手いな。……人間いうんは、言葉では好きと言いながら、文字の払い一本で相手を拒絶しとる。これや、この線の震え。これが『心』いうもんの正体やな」
彼は誰に聞かせるでもなく独り言を呟きながら、漫画のコマを食い入るように見つめている。その剥き出しの瞳を見て、春奈はふと直感した。この男は、きっと誰よりも人の心という正体不明の化け物に怯え、そして誰よりもそれを理解したいと切望しているのだ。
『終筆士』という、文字の裏側にある嘘を暴き続ける過酷な仕事。その過程で、彼はどれほど多くの底知れない人間の本性に触れてきたのだろう。汚れた真実に晒され続けた結果、彼の魂は、もう物語の中にしか救いを見出せなくなっているのではないか。
(……この人は、こうやって漫画の中に答えを探してるんやわ。現実では決して手に入らへん、綺麗な『心』の形を。嘘ばっかりの世界で生きてきたから、せめて物語の中だけでも、本物を信じたい……。この頑固な猫背も、分厚い壁を幾重にも作って、自分を守るための鎧みたいなもんやんね)
そう思うと、彼の口の悪さも、無愛想な態度も、すべてが寂しがり屋の子供が精一杯背伸びをしているように見えてきた。春奈は、知らず知らずのうちに、佐伯の座るソファの近くへと、吸い寄せられるように歩み寄っていた。
「……何や。用がないなら、帰れや。それか茶でも淹れてこい。喉が渇いて死にそうやわ」
佐伯は視線を漫画の紙面から一切外さないまま、顎でキッチンを無造作に指し示した。そのあまりに自然な隠し立てのない振る舞いに、春奈は思わず小さく笑みをこぼす。
「はいはい、わかりましたよ。最高の猫背『終筆士』さんに、とびきりのお茶を淹れてきますわ」
春奈の軽やかな足音が、屋敷の廊下に微かな余韻を残して響く。
大倉山の屋敷を包む静寂は、もはや彼女を怯えさせる冷たい重圧ではなくなっていた。古いインクの匂いと、タバコの香りが複雑に混ざり合うこの場所で、二人の歪な探索は、さらに深い闇の底へと潜り込んでいく。
キッチンへ向かう背後で、再びページを捲る乾いた音が聞こえた。
それは、真実を求める孤独な男の、あまりに不器用だが、どこか温かい努力の音のように、春奈の耳には優しく届いていた。
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