表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第三幕 最後の一行と鎮魂編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
47/51

第47話 霧の晴れ間

 逮捕劇が終わり、高級ラウンジの喧騒は一変して、重苦しくもどこか安堵の入り混じった奇妙な静寂へと塗り替えられていた。

 

 福島義男が冷たい金属の枷に繋がれて連行された後の現場には、ただ虚脱感と、山積した証拠資料の残骸が散らばっている。

 

 大理石の床に反射するシャンデリアの光が、私たちの顔を照らしていた。私は未だ現実味のない余韻の中で、佐伯の隣に立ち尽くしている。窓の外には、神戸の街を包み込む漆黒の夜空が広がり、遠くのネオンが雨上がりの路面のように鈍い光を放っていた。


 傍らでは、加納弁護士が安堵から深いため息を漏らし、額の汗をハンカチで拭っていた。彼の肩に載っていた重圧は、今ようやく取り払われたのだ。


 その時である。ラウンジの隅で陣頭指揮を執っていたあの警部が、先ほどまでの激しい取り締まりの表情を解き、佐伯の元へと歩み寄ってきた。彼は私服警官たちに細かな指示を終えると、佐伯に対しては直立不動の姿勢をとり、非常に丁寧な物腰で礼を尽くした。


 警部は周囲に聞こえぬよう声を控えめにし、佐伯の数歩手前で深く頭を下げた。


「佐伯さん。本日は、あなたの並外れた洞察と献身的なご協力により、長年この街を蝕んでいた癌を根絶することができました。心より敬意を表します」


 警部は一呼吸置くと、周囲に目を配りながら、恭しく言葉を継いだ。


「実は、法務当局の特捜検事より伝言を預かっております。四年前のあの迷宮入り事件の解決に際し、あなたが陰ながら尽力されたこと、検事は今も深く感謝しておられるようです」


 警部は少しだけ視線を上げ、佐伯の表情を窺うように続けた。


「当時の多大なる貢献を改めて称え、今回の件も含め、あなたの功績は決して忘れ去られることはないと仰せでした。検事は、あなたがまたいつか必要とされる時が来るだろうと、そう申しておりました。どうか、この神戸の街の守護者として、今後とも目を光らせていてほしいとのことです」


 私は驚いて佐伯を見上げた。彼がただの筆の使い手ではないことは重々承知していたつもりだった。しかし、司法の最深部を司る検事とこれほどまでに深く、そして秘匿された繋がりを持ち、さらには彼らが公にできない難事件を、四年前という節目に解決へと導くほどの重大な役割を担っていたとは。彼がこれまでの人生でどれほどの闇を筆一本で切り拓いてきたのかを想像し、私は目眩にも似た衝撃を受けた。


 佐伯はネクタイを緩めると、いつもの不遜な笑みを消し、少し恐縮した様子で警部に応じた。


「検事が、今も私のことを覚えていてくれたとは光栄ですね。あの時は私も若くて、なりふり構わず動いてしまい、検事には多大なご心配をおかけしたのではないかと案じていたんですよ」


 佐伯は一度言葉を切り、ラウンジの高い天井を見上げた。その瞳の奥には、四年前の神戸で彼が見たであろう、終わりのない闇の光景が浮かんでいるのかもしれない。窓外では、神戸港の灯りが遠くで揺らめき、あの頃の記憶を呼び起こすように瞬いている。


 彼は小さく溜息をつくと、視線を再び警部へと戻し、言葉を紡ぎ直した。


「四年前の件について、今更のように丁寧なお言葉を頂き、恐縮するばかりです。伝言はしかと受け取りました。また何か力になれる機会があれば、微力ながら面白い物語を献上する準備はあります、と検事にお伝えください。私はただ、この街の端っこで筆を走らせているだけの男ですから」


 佐伯の言葉は、単なる社交辞令を超えた暗闇を知る者同士の約束のようだった。その声音には、法という秩序の裏側に潜む深淵を、彼がどれだけ深く見つめてきたかが滲み出ている。


 横で成り行きを見守っていた加納弁護士が、一歩前に出て小さく咳払いをした。彼は眼鏡の位置を直すと、法律の専門家らしい硬質な響きを持つ声で、警部に向かって言葉を投げた。


「警部殿、今回の福島に関する訴訟資料ですが、山城様から託された分も含め、すべて整っております」


 加納弁護士は手元の革鞄をポンと叩き、その表情に強い意志を浮かべた。


「佐伯さんが文字から暴き出した真実が法廷という場で一点の曇りもなく輝くよう、私も弁護士として全力を尽くす所存です。法の正義が揺らぐことなど、断じてあってはなりませんからな」


 加納はそう言い切ると、警部を見つめ、司法の連携を確認するように深く頷いた。


「この事件は、単なる詐欺や殺人教唆の類ではありません。街そのものを蝕む悪意の根幹を断つものです。検事殿には、今回の証拠が法廷でいかなる防壁にも破壊されぬよう、万全の法廷戦術を期待しております。我々の積み上げた証拠は、まさにこの街の歴史の証言そのものなのですから」


 加納の言葉には、長い間福島によって歪められてきたこの街の法秩序に対することよりも、親友の正蔵が亡き者にされたことに対する怒りの炎が感じられた。



 (佐伯さんは、一体どこまでを知っているんやろ。正蔵という男を追う以上に、この街の深淵を歩いてきたんかな)


 私は、佐伯の背中に宿る、私が決して触れることのできなかった孤独と重みを感じ取った。加納弁護士もそのやり取りを黙って聞いていたが、何一つ疑問を口にしない。彼もまた、佐伯が背負っているものの正体を、どこかで理解しているのだろう。


 佐伯は改めて警部に向き直り、静かな口調で続けた。


「福島が犯した罪は、紙の上の改ざんだけではないですよ。この街が積み上げてきた歴史そのものを権力で歪めようとした罪です」


 佐伯は警部の目を見つめ、静かに力強く告げた。


「検事にもお伝え願いたいのですが、今回の証拠資料が法廷という場において揺るぎない城壁となるよう、万全の采配をお願いしたい。これが、筆を操る者として私から、この街への最後の手向けです」


 警部は佐伯の言葉を聞くと、一切の乱れがない綺麗な敬礼を佐伯に捧げた。

 ラウンジを吹き抜ける風が、少しだけ冷たくなったように感じる。それは長い冬が終わり、春へと繋がる冷気のように、私たちの心を清々しく切り裂いていった。


 警部たちが去り、静けさが戻ったラウンジで、佐伯はふっと長い息を吐き出した。戦いが終わったあとの空気が、ようやく私たちの周囲に満ちていく。事件の終わりは、同時に私という一人の娘が、父の犯した罪から卒業するための始まりの鐘でもあった。


 私は涙が滲む視界の中で、誇り高く立つ佐伯の横顔を、しっかりと目に焼き付けた。彼は何かをやり遂げた男特有の、憑き物が落ちたような柔らかい表情を見せていた。


 佐伯は、私の視線に気づいたように少しだけ困ったように笑い、それから私の肩に軽く触れた。その温もりが、私を現実の場所へと引き戻してくれる。


「もう、何も怖がることはない。すべて終わったんや。帰ろか」


 ふと、佐伯の優しい言葉が耳に届く。その響きに、私は少しだけ悪戯心を出し、冗談っぽく尋ねてみた。


「どこに? 大倉山のあなたの屋敷に? それとも兵庫駅にある私の家?」


 私の問いかけに、佐伯は一瞬だけ驚いた表情を見せ、やがて楽しそうにウインクをした。


「うーん、どっちがええ?」


 彼はそう言って、子供のような笑みを浮かべた。その笑顔は、これまで彼が隠してきたどの表情よりも人間らしく、そして暖かかった。

 私はもう、彼が書く物語の結末を恐れる必要はないのだと確信し、その背中を追うように歩き出した。

ブックマーク、評価をお願い致します。

レビュー、感想等もお待ちしております。

誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ