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<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第三幕 最後の一行と鎮魂編

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第48話 墓穴の淵で

 神戸地方検察庁、特別捜査部。

 その奥深くに設えられた、窓一つない無機質な取調室は、外界の喧騒を完全に拒絶し、永遠に続く沈黙と、息が詰まるほどの重圧で容疑者の精神を圧殺する場所である。

 

 白く塗り潰された壁は、そこに持ち込まれた罪の重さだけを静かに反射し、安っぽいパイプ椅子の冷たさが、男の剥き出しになった絶望を容赦なく引き立てている。

 

 照明の蛍光灯は、微かな低周波音を立てて不規則に明滅し、そこに座る男の隠しようもない焦燥と、崩壊しかけた理性を照らし出している。部屋の空気は淀みきり、そこに充満する酸素さえもが、男の罪を告発する証拠として重くのしかかっている。


 机の向こう側に座る福島義男は、神戸の政財界を支配し、華やかな社交界の頂点に君臨していた、不動産デベロッパーの社長という華々しい肩書きを持つ男とは思えぬほどに、見る影もなく憔悴しきっている。

 

 繰り返される勾留延長の果てに、高級なテーラーメイドのスーツは見るも無残に型崩れし、脂ぎっていたはずの肌には不健康な青白い皺が刻まれ、威厳を失って肩を落としている。

 襟元から覗く首筋には、死そのものを凝縮したかのような土気色の陰影が漂い、整えられていたはずの髪は無造作に乱れきっている。その瞳に宿っていた威光も、取り巻きを従えていた頃の傲慢な余裕も、今や一片の灰となって消え去っていた。


 

 机の上には、特捜検事が差し押さえた一冊のファイルが、異様な存在感を放って置かれている。そこに記されていたのは、山城正蔵氏が最期の執念を極限まで筆に込め、紙面の凹凸に深々と刻み込んだ、あの数字の羅列。旧内務省の息がかかった秘密口座の識別番号であり、敗戦後の混乱期から続く、不正な裏取引を網羅する署名データである。

 

 傍らに置かれたカフスボタンもまた、科捜研の精緻な鑑定によって、内部の極小の電子記録媒体がその機能を露わにされ、福島が正蔵を追い詰め、咲子を人質として筆跡偽造を強要した際のおぞましいやり取りを、余すことなく記録していた。それは、男の喉元に静かに刃を突き立てる、逃れようのない『自白の箱』として存在していた。


 福島は、手首に嵌められた金属の手錠を、カチャリ、と無意識に机へ打ち付けた。その単調で冷たい響きが、取調室の静寂を切り裂く。焦燥と、自らの破滅を予感する恐怖が、男の理性を内側から根こそぎ蝕んでいた。


「……何が、何が『地域開発』だ。……俺は、ただの使いっ走りのゴミだったというのか」


 福島は唐突にそう吐き捨てると、虚ろな眼差しで、何も映さない虚空の一点を見つめている。

 

 彼が口にした「地域開発」とは、福島がこれまで政財界の重鎮たちを説得し、公的な顔として掲げてきた輝かしい大義名分である。

 

 だが、その実態は、古き時代の利権を合法的に吸い上げるための仮面であり、彼は単に組織という亡霊が遺した、使い捨ての代行者に過ぎなかった。

 

 成功のすべてが、自らの能力ではなく、組織から与えられた”利権の鍵”という名の操り人形に過ぎなかったという真実に直面し、男のプライドは完全に瓦解していた。

 

 自分こそが操縦者であると信じていた男が、実は操られる側であったという事実に気づいた時、その狂気と自己嫌悪が混ざり合い、異様な言葉となって溢れ出したのである。


 取調室の中で、担当の特捜検事が対峙している。検事は、まるで獲物を追い詰める捕食者のような静けさで、男の自滅を観察していた。手元には、山城正蔵という男が命を賭して遺した証拠の数々が並べられている。それは法的な逃げ道を一寸の隙もなく封殺する、鉄壁の包囲網であった。


「福島、観念しろ。お前が正蔵氏を六甲の闇に沈めた経緯も、全てはこの証拠群と、お前自身の口から語られる事実で完璧に補完されているんだ」


 検事の静かな宣告に、福島は喉の奥を鳴らし、ひきつった笑みを漏らした。それは、もはや人間としての尊厳を失った者の、哀れな残響に過ぎない。


「……あの男は、頑固すぎた。筆一つで世界を操れる力を持っていながら、あいつは最期まで、自分の芸術と家族という名の枷に縛られていた……まったく、理解不能な奴だよ」


 男は天井を見上げ、焦点の定まらない瞳で追憶を紡ぎ始める。福島は山城正蔵という卓越した筆の使い手を組織の駒にしようと、幾度となく接触を繰り返していた。

 

 当初、正蔵は福島の誘いを頑なに拒絶し続けていた。道端の塵を払うかのように、福島の提示する甘い蜜や権威を無視し、己の道を歩み続けていたのである。


 薄暗い取調室の照明が、福島の痩せこけた頬に深い影を落とす。彼は机の端を爪先でなぞりながら、当時の正蔵が放っていた冷ややかな眼差しを追体験するように、表情を歪ませた。


「最初はのらりくらりとかわされた。金も名誉も、あいつの前では無価値な紙屑同然だったんだ。だがな、俺が春奈という名前を口にした瞬間、あいつの表情が凍りついた。俺は、愛娘を人質にするというカードを切った。あいつの温厚な仮面が剥がれ落ち、激昂する姿を見たのはその時が初めてだ」


 福島は震える声で語り継ぐ。記憶の断片は、今や彼を縛り付ける呪縛となって語り手の精神を浸食し、蝕んでいた。


「あいつは声を荒らげ、震える拳で俺を突き飛ばさんばかりの勢いで詰め寄り、俺の顔に唾を吐くように叫んだんだよ。『娘に指一本でも触れてみろ、その時は俺の命も筆も投げ打って、貴様が隠してきた咲子の件から全てを警察にぶちまけてやる』とな。俺はあの時、確信したんだ。この男は、もう駒にはならない。俺たちの組織の屋台骨を根底から腐らせる、排除すべき劇薬だと……あいつは危険すぎたんだ」


 男の語りが続くと、取調室に重い沈黙が流れた。窓のない密室に、福島の荒い息遣いだけが響き渡る。組織の亡霊として影に潜んでいた男は、今や光の下で自らの犯した罪の凄惨さを、まるで他人事のように語るという矛盾に支配されていた。


「だから、俺は動いた。部下を使い、奴が出かけた際に拉致した。睡眠薬を力づくで流し込み、あいつが最後に握りしめていた紙ごと、六甲の山中へ捨てた。自殺に見せかけたシナリオは完璧だったはずだった……。あいつが最期の瞬間まで、俺を睨みつけていたあの忌々しい眼差しを除いてはな。あれは、俺の墓穴を掘っているのは自分自身だと確信しているような、死してなお、俺を呪い殺そうとする眼差しだった」


 福島が語り終えると、検事は手にした資料を机に静かに置き、男を見つめた。取り調べの過程で福島が吐き出した名だたる要人たちの名は、すでに特捜部の捜査網のただ中に捕らえられている。


「福島。君が関与を口にした途端、それまで君に追従していた政財界の重鎮たちは、自身の関与を隠蔽するために互いの不正を暴露し始めた。金と利権で固く結ばれていたはずの絆は、君が滑らせた舌の一言で不信の連鎖へと変貌した。今や彼らは共倒れの恐怖に駆られ、自ら泥沼の底へと引きずり合っている」


 検事の言葉は、厳格な審判のように響く。


「君が守りたかった『組織』とは、一体何だったのか。戦後の混乱期、GHQの監視をかいくぐり、旧内務省の役人たちが秘密裏に結成した、国家の利権を私物化するためのアンダーグラウンド・シンジケートだろう。それは、敗戦後の混乱で宙に浮いた国有資産や、強制買収された土地の再開発利権を、法的な裏口から永遠に吸い上げ続けるための、亡霊のようなネットワークだ。民の血を吸い、法的論理という仮面を被るだけの空虚な利権構造。それが、今や完全に解体されたんだ」


 検事は資料を閉じ、冷めた目で取調室の容疑者を振り返る。


「君の語る『組織』は、もうどこにも存在しない。あの日、君が守りたかった亡霊は、君自身の手によって葬り去られた。君は最後の一柱を崩し、その残骸に飲み込まれたに過ぎない」


 すべては、山城正蔵が命と引き換えに刻み込んだ数字が、この男を逃げ場のない破滅へと引きずり込んだ結果である。

 福島という男が掘り続けた墓穴の深さを確認するように、検事は深く息を吐き出す。福島の饒舌な恐怖は、彼を裁くための最後の一撃として、取調室の重苦しい空気に深く刻み込まれていった。

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