第46話 因縁の対峙、カフスボタンの男
大倉山の屋敷、その書斎の奥底で復元された「春奈、私の娘」という五文字。紙面の余白、肉眼では到底判別不可能な微細な凹凸の中に、父である山城正蔵が筆圧を極限まで込めて刻み込んだ、謎の数字の羅列が浮かび上がっていた。
佐伯は精密な顕微鏡と、光の透過角を調整する特殊な光学解析を駆使し、その羅列が旧内務省の息がかかった秘密口座の識別番号、および当時の不正な裏取引を網羅する署名データであることを、論理の隙間など一切許さぬ緻密さで突き止めた。彼が机の上で硬く組んだ指先には、父の最期の執念が宿っているかのようだった。佐伯は私を鋭い眼差しで見つめ、低く、しかし地の底から響くような声で告げた。
「山城さん。これであの男を暗闇の底へと引きずり落とす、最後の手札が揃ったな」
その男の名は福島義男。現在、政財界の影で強大な力を誇る巨大不動産デベロッパー『福島開発』の代表取締役社長という肩書きを盾に、旧組織が遺した利権を合法的な仮面の下で吸い上げている、紛れもない国策天下りの寄生虫であった。
父を死に追いやったあの日の組織の汚れ仕事を、今や福島は『地域開発と街づくり』という甘美な言葉に置き換え、何食わぬ顔で遂行している。
佐伯は、加納弁護士との緻密な連携によって、福島の動静を完璧に掌握していた。福島が今夜、神戸の格式高いホテル最上階のラウンジで開催される、政財界との大規模な社交パーティーに出席することは、既に張り巡らされた情報の海の中から確実に網にかけられていたのである。
加納弁護士が警察上層部へと直接打ち込んだ布石により、会場内には秋の深まりゆく夜の冷気を帯びた私服警官たちが数名、獲物を狙う狩人のような鋭い視線を巡らせて紛れ込んでいた。
私たちは、その狂乱と嘘が渦巻く喧騒に紛れて、ラウンジの重厚な扉を静かに押し開いた。磨き上げられた大理石の床に靴音が硬く反響し、周囲の洗練された空気を支配していく。窓辺の特等席には、シャンパングラスを片手に、媚びへつらう取り巻きたちに囲まれ、君臨するように座っている福島がいた。男の袖口では、父を陥れたあの不気味な細工が施されたカフスボタンが、ラウンジの贅沢な照明を乱反射して妖しく光を放っている。
その人波を割って、完璧な正装に身を包んだ佐伯が、福島の目の前へと歩み寄った。福島は手元のグラスをテーブルに置き、招かれざる客を値踏みするような、氷のように冷たい視線で舐め回すように見上げた。
「おい、この場に相応しい格好はしているようだが……どこのどいつだ。パーティーの主催者に確認を取っていないぞ。随分と無作法な乱入だな」
福島は鼻で笑い、取り巻きたちに向けて嘲笑を浮かべた。しかし、佐伯は微塵も表情を変えず、ただ福島を真っ直ぐに見据えた。
「俺はただの筆の使い手や。あんたという悪しき物語の終わりを書くために来た」
佐伯が無言でテーブルへと叩きつけた一冊のファイルが、男の余裕に満ちた表情を一瞬で凍りつかせる。
それは寸分違わぬ筆圧を再現した解析書であり、復元された手紙の複製である。ファイルの中身に目を落とした瞬間、福島の顔面から血の気が完全に引き、白磁の器のように青ざめていく。震える指先で書類を掴み、その男は周囲に響かぬよう、喉の奥から絞り出すような掠れた声で漏らした。
「これは……なぜ山城の筆跡がここに……! 奴は裏六甲で、すべてを墓場へ持っていったはずだ!」
福島はハッとして、自らの失言に気づいたように口を噤んだ。しかし、すでに遅い。言い淀んだその一瞬の沈黙こそが、決定的な自白の証としてラウンジの空気を支配した。佐伯は獲物を仕留めるハンターのような冷徹な笑みを浮かべ、その隙を逃さず追撃する。
「ほう。あの山……六甲の奥深くで、正蔵氏が全てを墓場へ持っていったと、なぜあんたが知っている? 警察の公式発表では、あれは単なる孤独な自殺やったはずや。場所までは発表されてない筈やけどなぁ。あんた、現場に居合わせたばかりか、彼が死ぬ直前の状況まで克明に把握しとったんやな」
「……っ、言葉のあやだ! 組織の噂として聞いていただけだ!」
佐伯は鼻で笑い、即座に畳み掛ける。
「組織、やと? おかしいな。あんたは今や、一流不動産デベロッパーの代表取締役社長のはずや。そのあんたが口にする『組織』とは、一体どこを指すんや? 会社の話をしているなら『社内規定』や『業界の噂』と言うべきところを、わざわざ『組織』という、旧内務省の亡霊たちが好んだ隠語を使って言い繕うとは……。あんた自身が今もその闇のなかに首まで浸かっていると、自分で認めたようなもんやぞ」
福島の狼狽は隠しようもなく、今まで保っていた社長という仮面が物理的に剥がれ落ちていくようだった。佐伯はさらに距離を詰め、逃げ場を封じる。
「文字を、そして人間の執念を舐めるなよ。あんたの袖口にあるそのカフスボタン。あれは組織の暗号機であり、あんたが正蔵氏に親友の殺害と自殺工作を命じた際の、通信記録を隠し持っている。咲子さんの戸籍を消し、加納家を一族丸ごと社会的に抹殺するためにあんたが筆を振るわせた、その全ての指示がそこには残されているんや!」
佐伯の咆哮に近い告発が、高級ラウンジの壁面に激しく突き刺さる。会場の空気が一瞬で静まり返り、政財界の要人たちが異様な緊張感を察して遠巻きに視線を送ってくる。
「とぼけるな! あんたは咲子さんを人質に、正蔵氏に筆跡偽造を強要した。公正証書原本不実記載罪、私文書偽造、そして何より加納家の一族を偽りの文字で破滅させた名誉毀損や精神的傷害、さらには咲子さんの戸籍を奪い、加納家を社会的に抹殺した社会的略取の罪。その全てを、このカフスボタンの裏に刻まれた命令が証明しているんやぞ!」
言い逃れのできない科学的な証明と、父が残した執念の重圧の前に、福島は座っていた椅子を突き飛ばすようにして立ち上がろうとした。しかし、その脚力は既に尽きていた。福島はガタガタと全身を激しく震わせ、そのまま大理石の床へと無様に崩れ落ちた。その瞬間、周囲に溶け込んでいた私服警官たちが一斉に滑らかな動きで福島を取り囲んだ。
金属の冷たい擦れる音が響き、福島の手首に手錠が食い込む。彼は激しく暴れ、警官たちに向かって叫び散らした。
「離せ! 俺は代表取締役だぞ! 貴様ら、法の手続きもろくに踏まずに、俺を誰だと思っている!」
陣頭指揮を執る刑事が、冷え切った秋の夜風が吹き抜けるラウンジで、威厳に満ちた声で告げる。
「福島義男。貴殿を公正証書原本不実記載、殺人教唆、および恐喝の容疑で逮捕する。十一月十九日、午後六時四十分だ。騒ぐのはその程度になさい。詳しい事情や言い分は、この先の署でたっぷりとお聞かせいただきましょう」
父を長年縛り続けていた組織の闇が、終筆士の手によって白日の下にさらされ、完全に解体された瞬間だった。福島が拘束されるや否や、会場を囲んでいた政財界の要人たちが蜘蛛の子を散らすようにして逃げ出そうと踵を返した。しかし、警官が立ちはだかり、彼らを静止する。
「動かないでいただきたい」
警官は逃走を図る彼らを冷たく見据え、静かに告げた。
「あなたたちにも、後日詳しくお話をお聞かせいただきましょう」
その言葉に、彼らの足が硬直する。私は胸の奥で重く澱んでいた支えが音を立てて崩れ去るのを感じながら、込み上げる感情を抑えることなく、静かに涙を拭った。
正蔵の娘として、私はただ、この瞬間が来るのを待ちわびていたのだ。
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