第43話 最後の一行の筆圧の正体
元町にある加納法律事務所から、美津子さんの魂の叫びが刻まれた手紙を抱えるようにして戻った私たちは、再び大倉山にそびえる佐伯の屋敷の地下室へと足を踏み入れていた。
室内に漂うひんやりとした空気は、解析装置の放つ青白い電子光によって淡く照らし出され、まるで世界の時間がここだけで止まってしまったかのような錯覚を抱かせる。
私は、胸の奥底を激しく揺さぶる感情の嵐に耐えかねて、ただ立ち尽くすことしかできなかった。美津子さんの真実を知った今、お父さんが命の灯火を削りながら遺した最後のあの書きかけの手紙、その最末尾に刻まれた奇妙な痕跡が、どうしても私の網膜の裏側から離れようとしないのだ。
佐伯は長い指先で髪を無造作にかき上げると、再び超高精細スキャナーの盤面へと、お父さんの最後の手紙をそっと設置する。
キーボードを叩く乾燥したプラスチックの音が、コンクリートの壁に反響して不規則に響き渡る。モニターの群れが妖しく発光し、手紙の最後の一行、文字として紡がれるはずだった場所のすぐ下を、恐ろしいほどの倍率で拡大表示していった。
そこに映し出されたのは、文章ではない。アルファベットでも、日本の文字でもない。ただの、深く、あまりにも烈しく紙の繊維を陥没させた、文字にすらならなかった一個の歪な”点”の正体である。
「山城さん、見てみぃ。この最後の一撃の深さを。データは嘘をつかへん」
佐伯は、モニターに映し出された青い等高線の解析画像を指差しながら、どこか飢えた野獣のような低く鋭い声音で私を呼んだ。
「正蔵氏はな、ここで文字を書くのを完全に止めとる。いや、止めたんやない。言葉を紡ぐという行為そのものを、己の意志でへし折ったんや。見てみ、この点の周辺の紙の繊維はな、万年筆の鋭いペン先によって完全に引き裂かれて、裏側まで突き破られそうになっとる。これは単に手が震えてインクが滲んだという生易しいもんやないぞ。自分の命のすべてをペン先に集約させて、紙に叩きつけた痕跡や」
佐伯の解説は、私の凍りついた思考を容赦なく覚醒させていく。拡大されたその黒いインクの塊は、お父さんが最期の瞬間に抱いた、途方もない感情の質量をそのまま宿しているかのように、禍々しく、そしてどこまでも哀しく私を見つめ返しているように見えて仕方がない。
(お父さん、なんで、ここで書くのをやめて、こんなに激しくペンを突き立てたん……?)
私は両手を胸の前できつく握り締め、自らの爪が皮膚に食い込むほどの痛みを感じながら、その青白い画面を凝視した。
お父さんが死の間際、実家で独り便箋に向き合っていたあの夜、どのような絶望と愛がその指先を支配していたのか。その一端が、形を持たない暴力的なまでの筆圧となって、私の視覚へと容赦なく訴えかけてくる。
「正蔵氏はな、悟ったんや。自分の犯した大罪、それらすべてを前にして、これからどのような美しい言葉を並べ立てても、どのような謝罪の文章を重ねても、自分の罪を拭い去ることなど絶対にできへんという事実に、この瞬間に直面してしもたんやな」
佐伯は一度言葉を区切り、キーボードの上に両手を置いたまま、私の横顔をじっと見つめた。彼のその瞳には、人間の心の深淵を覗き込んできた者だけが持つ、逃げ場のない真実の光が宿っていた。
「言葉にすればするほど、それは自分を正当化する言い訳に化けてまう。娘への愛を語れば、それは罪から逃げるための美しい欺瞞になってまう。男のプライドも、父親としての威厳も、そのすべてが言葉という道具の不完全さの前に屈したんや。だから正蔵氏は、言葉を紡ぐことを完全に諦めた。諦めて、ただ無言のまま、自分の魂のすべてをこの一点に込めてペンを突き立てたんや」
佐伯の低い声音が、遮蔽された地下室の隅々へと、重く深く沈み込んでいく。私を包み込む機械の駆動音が、まるでお父さんの激しい心音の残響であるかのように耳の奥で鳴り響いていた。
「この点の正体はな、言葉にできなかった男の、最期の祈りや。『ここから先は、過去の因縁に囚われることなく、お前自身の足で生きろ』という、剥き出しの願いそのものなんや。自分という呪わしい過去の重荷をすべてここに置いて、光の当たる未来へ進めという、執念めいた愛がこの紙を突き破らせたんや」
佐伯の言葉が、私の耳腔を通って、ずっと張り詰めていた胸の最深部へと怒濤のように流れ込んでいく。
言葉にできない、言葉にしてはならなかった、あまりにも巨大で歪な無償の愛。その質量が、時を超えて、紙を突き破るほどの暴力的な筆圧となって、私の胸を容赦なく、しかしどこまでも温かく突き刺す。
お父さんは、私を狂おしいほどに愛していたからこそ、最後の瞬間に自らの声を消し去り、私を縛り付けるすべての鎖を断ち切ろうとしたのだ。
実家で過ごしたあの穏やかな日々、私を抱きしめてくれたあの手の温もりは、何一つ嘘ではなかった。激しい涙が、私の頬を伝ってコンクリートの床へとこぼれ落ちていく。それはもう、孤独に震えるための涙ではなかった。お父さんの遺した最後の一撃の、その圧倒的な愛の質量を、私は全身の骨が軋むほどの確かさで受け止めていた。
溢れ出る涙を止めることができず、激しく肩を揺らして泣きじゃくる私を、佐伯はじっと黙って見つめていた。解析装置の駆動音だけが響く静寂の中、彼は「ふう」、と大げさにため息をつくと、普段の無愛想な横顔のまま、どこか調子の外れた大声を絞り出した。
「泣きすぎや! ええ加減に泣き止み。そんなに泣いてたら、体カラッカラでミイラみたいになってまうで」
それは、私の涙を少しでも止めようとして放たれた、あまりにも不器用で、へたくそな冗談。
今まで佐伯の口からそんな突拍子もない冗談など一度も聞いたことのなかった私は、あまりの衝撃に激しい涙も忘れ、一瞬だけ両目を大きく見開いて彼の顔を凝視してしまった。
いつもは不敵に笑う彼の顔が、私の視線を受けたとたんに、耳の裏まで真っ赤に染まっていくのがはっきりと見えた。
「な、なんやねん」
あまりにも分かりやすく動揺し、視線を泳がせながら私の顔から強引に目を逸らすその慌てぶりに、私の胸の奥にたまっていた重苦しい塊が、ふっと軽くなるのを感じた。涙がまだ頬を濡らしたままの状態で、私の唇からは堪えきれない小さな笑い声が吹き出し、いつの間にか泣き笑いとなってしまっていた。
「もう、絶対に心配なんてしたれへん!」
私の笑い声にさらに気まずさを覚えたのか、佐伯は大きな足音を立てて椅子の向きを百八十度回転させると、プイッと大きな挙動でソッポを向いた。そのまま大型モニターの無機質な光の中に自らの顔を埋めるようにして、彼は二度とこちらを振り返ろうとはしなかった。
私は涙を袖で拭いながら、完全に背中を向けて頑なになっている佐伯の元へとゆっくり歩み寄った。一歩近づくたびに、彼の大きな肩が僅かにピクリと緊張するのが伝わってきて、おかしくてたまらなくなる。
「ごめん、ごめんなさい佐伯さん。そんなつもりやなかったんです」
私は何度も繰り返し笑いながら彼に向かって謝罪した。
あまりに下手くそな冗談が可笑しくて、それでいて私のために不器用に気を遣ってくれた彼の優しさが心から嬉しくて、私の謝罪は何度も笑い声に混じって途切れそうになった。
「ほんまに、笑ってしもてごめんなさい。でも、もう大丈夫ですから。ありがとう、佐伯さん」
私は彼の背中に向かって、まだ少し潤んだ瞳のまま、何度も何度も笑いながら頭を下げ続けたのだった。
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