第42話 美津子の遺言
大倉山の佐伯の屋敷の書斎で、お父さんの万年筆から弾き出された狂おしいほどの心音データを見つめていた私のスマートフォンが、沈黙を破って静かに震え出した。
画面に表示されたのは、お父さんの学生時代からの無二の親友でもある加納弁護士の名前だった。加納弁護士は、私が幼い頃からまるで自分の本当の子供であるかのように、いつも優しく頭を撫でて可愛がってくれた温かい記憶のなかにいる人物だ。
通話ボタンを押して耳に当てると、受話口からは彼の穏やかな声音が響いた。
「春奈ちゃん、正蔵から託されていた遺言の後始末、つまりすべての遺言執行手続きが、たった今無事に完了したよ。これで法的な手続きはすべて終わりだ」
法的な手続きの完了という一つの区切りを告げられたものの、私の心の奥底にある澱みは消えず、ただ小さく返事をするのが精一杯だった。
すると、私の隣でじっと気配を殺していた佐伯が、細長い指先を伸ばして私のスマートフォンを半ば強引に奪い取る。
彼はそのまま自分の耳に端末を当てると、いつもの不敵で、どこか鋭い声音で加納弁護士へと語りかけ始めたのだった。
「加納先生、終筆士の佐伯です。山城さんから話は聞いてます。正蔵氏の遺言執行手続きが終わったんは分かりましたけど、先生、本当にそれだけですか? 正蔵氏が親友であるあなたにだけ、他に何か、書類やなくて私的なものを預けていたりせんでしょうか? 彼のあの筆圧の乱れ方は、何かを必死に遺そうとしとる形跡があるんですわ」
佐伯は私を背にしながら、冷たい発光を続ける大型モニターを見据えたまま、一歩も引かない口調で問い詰めていく。受話口の向こうで、加納弁護士が小さく息を呑む気配が、静まり返った地下の書斎に微かに漏れ聞こえた。
「……やはり、君のような専門家には見抜かれてしまうのだね。分かった、すべて話そう」
加納弁護士は観念したように、重い口を開いた。お父さんからは、すべての遺言執行手続きが完全に完了した後に初めて、私に手渡してほしいと強く懇願されていた『美津子さんの手紙』が存在するのだという。それは法的な書類ではなく、お父さんが命を懸けて守り抜いた、もう一人の母からの最期のメッセージである。
佐伯は加納弁護士から手紙の存在を聞き出し、受け取りの約束を取り付けると、静かに通話を切ってスマートフォンを私へと返した。彼はそのまま、自分の額に手を当てて深くため息をつくと、視線を床へと落とした。
「……もっと早よ言えや」
佐伯は憮然とした態度で、どこか呆れたような声音でポツリとそうこぼしたのだった。父がどれほどの苦悩を抱えてその瞬間を待っていたのか、その時間の重さを思い知らされたかのような呟きだった。
「山城さん、元町なら大倉山から歩いてすぐや。行くぞ」
佐伯は、私を促して歩き出した。秋の乾いた風が吹き抜ける神戸の坂道を、私たちは並んで歩いて下っていく。
高い空から降り注ぐ柔らかな光が、私の焦燥感を静かに包み込んでいくようだった。大倉山の高台から、賑やかな元町の繁華街へと向かう道のりは、不思議と心を落ち着かせる時間を与えてくれた。
辿り着いた事務所の奥に鎮座する、鉄塊のようなものものしさを湛えた金庫の扉が、固い金属音を響かせて開かれる。
その暗がりの底から静かに取り出されたのは、経年によって端が茶褐色に煤け、持ち主の生前の執念をそのまま吸い込んだかのように歪んだ一通の封筒だった。
美津子さんが死の間際、消え入りそうな命の灯火を激しく燃やしながら遺したという、本当のメッセージ。
私はその紙の重みを受け止める指先が、自分の意志とは無関係に凍りついたように細かく震えるのを止めることができなかった。
封筒の封が切られ、中から取り出された便箋を広げた瞬間、私の視界には長年思い込んできた絶望を根底から覆す、あまりにも力強い文字の群れが飛び込んできた。そこには、お父さんに対する恨み言など、ただの一文字も刻まれてはいなかったのだ。
「何やこれ、お父さんはずっと苦しんでいたのに……」
私の唇から漏れ出た微弱な呟きは、重苦しい事務所の空気に触れた瞬間、古いインクの匂いとともに儚く霧散していった。
美津子の手紙の本文は、病床の苦しみの中で書かれたとは思えないほど、凛とした気品に満ちた万年筆の青いインクで埋め尽くされていた。
――――――
正蔵さん、これをあなたが読んでいる頃、私はもうこの世にはいないでしょう。
私は、あなたから何の理由も詮索することなく、春奈ちゃんを私たちの我が子として、どこまでも大切に育てることに決めました。
あなたと咲子さんとの間に生まれた新しい命、春奈ちゃんという小さな光が、私たちの歩んできた道を未来の愛へと変えてくれる唯一の希望なのです。
私はあの子を、心から祝福しています。
あなたが実の娘である春奈ちゃんを、命を懸けて抱きしめ、慈しみ、 その成長をただひたすらに見守り続けること。それこそが、私たちの未来への愛の形なのだと私は信じています。
正蔵さん、春奈ちゃんをどうかあなたの手で、 どこまでも大切に育て上げてください。
それが私の最期の願いであり、あなたに託す、私の光なのです』
――――――
美津子さんは、お父さんが愛する咲子さんとの間に生まれた実の娘である私を、この手でどこまでも大切に育て上げることを誰よりも強く望んでいたのだ。
自分たちが過去の歪な運命の中で歩んできたそのすべての苦難を、私という実の娘への命の営み、すなわち、未来への愛へと昇華してほしい。それこそが、彼女が今際の際に便箋へと叩きつけた、血の滲むような本心だった。
「思い違いをしたらあかん、山城さん。正蔵氏が背負わされとったんはな、過去の呪縛に縛り付けられるだけの冷たい重荷なんかやないんや」
佐伯は便箋の裏側に残された、異常なほどに深い筆圧の痕跡を長い指先でなぞりながら、腹の底に響くような低い声音で私に語りかけた。彼のその瞳には、真実を完全に引きずり出した者の、揺るぎない確信の光が宿っている。
「これは約束や。亡き人と交わした、絶対に破ってはならん魂の誓いや。正蔵氏の二十数年はな、ただの罰やない。実の娘である君を命がけで愛し抜くことで、過去の闇を光に変えようとした、気が遠くなるほど純粋な……『祈り』そのものやったんや」
佐伯の言葉が、私の耳腔を通って、ずっと凍りついていた胸の最深部へと怒濤のように流れ込んでいく。
お父さんが実家で私を抱きしめてくれた時の包み込むような手の温もり。
私が熱を出してうなされた夜に、狂おしいほどの情熱で私の名前を呼び続けてくれた、あの必死な後ろ姿。
そのすべての背景にあったのは、義務などではなかった。美津子さんとの約束を果たすため、それ以上に、正真正銘の自分の娘である私という一人の人間を心の底から愛してしまったからこそ、お父さんはあの実家で、二十数年間という膨大な時間をただひたすらに祈り続けていたのだという真実が、美津子さんの筆跡によって完全に証明された。
激しい涙が、私の頬を伝って便箋の端へと容赦なくこぼれ落ち、小さな染みを作っていく。
それは昨夜までの絶望の涙痕ではなく、お父さんの歪な、しかし、それでも絶対に揺らぐことのなかったあまりにも巨大な無償の愛に触れた救済の涙だった。
私は初めて、自分がこの世界に祝福されて生まれてきたのだという事実を、血の繋がったお父さんの祈りの質量を、全身の骨が軋むほどの確かさで受け止めていた。
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