第41話 万年筆の「心音」の再現
大倉山の佐伯の屋敷へと舞い戻った私たちの周囲には、未だに長田の街で浴びた秋の冷ややかな空気の名残が、衣服の繊維の隙間にしがみつくようにして漂っていた。
佐伯は屋敷の玄関扉を閉めるやいなや、私に声を掛けることすら忘れたかのように、吸い込まれるように廊下の奥へと歩を進めていく。
いつもならだらしなく丸められている彼の背中が、今は何とも形容しがたい奇妙な緊張感を孕んで、張り詰めた弦のように強張っているのが見て取れた。彼が向かったのは、屋敷のさらに奥、陽光の決して届かない深い地下へと続く厚い扉の向こう側だった。いつもなら世界を斜めから見て不敵に笑う男の横顔に、今は一切の余裕がなく、ただひたすらに文字の奥に隠された心臓の鼓動を暴き出そうとする、執念めいた光だけがその瞳に宿っている。
埃の匂いと機械油の香りが微かに混ざり合う薄暗い地下室へと足を踏み入れると、佐伯は迷いのない手つきで壁面のスイッチを押し、そこに鎮座する大型解析装置の主電源を起動させた。幾重もの電子回路が目覚める低い駆動音が、まるで巨大な怪物の寝息のように室内の冷え切った空気を震わせ始める。
彼は上着を椅子に投げ捨てると、昨夜からずっと大切に保管されていたお父さんの山城正蔵の遺した最後の手紙、そして咲子さんの手紙を、細心の注意を払いながらスキャナーの平滑なガラス面へと設置した。
超高精細に読み取られた紙の微細な凹凸、すなわち筆圧データの群れが、最新の解析プログラムへと次々に吸い込まれていく。その一連の動作のなかで、彼の細長い指先は微かにも震えることはなく、まるで精密な機械の一部のように淡々と、しかし確かな熱量を持って盤面を操作していた。
「終筆士の技術を舐めるなよ」
佐伯は、冷たい発光を始めた大型モニターの群れを正面から見据えたまま、どこか飢えた野獣のような、低く鋭い声音でそう呟く。彼の長い指先が、キーボードの盤面を鍵盤楽器でも奏でるかのように激しく叩くたび、乾燥したプラスチックの擦れ合う音が地下室のコンクリート壁に反響する。
「文字を書く時の速度と筆圧の変動を細かく解析すれば、その時の人間の心拍数まで逆算できるんや。人間の指先いうのはな、本人がどれだけ隠そうとしても、心臓の鼓動と完全に連動して動いてまう生き物なんやからな」
彼の解説は、私を不安から遠ざけるためのものではなく、科学の事実を突きつけるためのものである。
画面の上には、緑色や青色の無数の細い線が走り始め、やがてそれらは不規則な振幅を繰り返す複雑な波形へと姿を変えて映し出されていく。お父さんが万年筆を握り締め、便箋にインクを染み込ませていったその一瞬一瞬の時間軸が、今、デジタルデータという冷徹な記号へと変換されていくのを、私はただ息を潜めて見守るしかなかった。
解析装置が弾き出したデータ、それによって可視化された山城正蔵の運筆時の心音は、私の予想を遥かに超えた異様な形をしている。
規則正しい生命の営みとは程遠い、まるで狂おしいほどに激しく脈打ち、今にも内側から弾け飛んでしまいそうな、異常な高鳴りが画面を埋め尽くしていたのだ。
ペンの先端が紙に触れるその一瞬一瞬に、お父さんの命そのものが激しく削られていたかのような、凄まじい衝撃の痕跡がそこには刻まれていた。恐怖なのか、それとも別の感情なのか、素人の私には判別のつかないその波形の乱れは、まるで死の間際に激しく燃え上がった命の灯火そのもののようにも見えた。
(お父さん、こんなに震える心臓で、ペンを握っていたの……?)
私は胸の前に両手をきつく組み、自らの心臓の鼓動を確かめるようにして、その青白い光を放つ画面を凝視する。
お父さんが死の間際、どのような思いで万年筆を握り締め、便箋に向き合っていたのか、その一端が、音の出ない波形となって私の視覚へと容赦なく訴えかけてくる。
私の唇は小刻みに震え、視界が再び涙の膜で歪みそうになるのを、必死に堪えるしかなかった。実家で私を優しく見守ってくれていた、あの穏やかなお父さんの姿からは到底想像もつかない激しい感情の嵐が、このデータの海の中に確かに存在していた。
「見てみ、この波形の乱れを。これはな、自分の過去の罪が暴かれる恐怖の波形やない。世間の目から逃げたいとか、悪事が露見して怯えとる人間の心音は、もっと卑屈に、均一に縮こまるもんや」
佐伯は画面の一点を指差した。彼の指先が示す場所では、線が激しく上下に跳ね上がり、まるで引き裂かれた布の端のように乱れ飛んでいた。彼は一度大きく息を吸い込み、地下室の冷気を肺腑に満たしてから、さらに言葉を続けた。
「もし、この手紙の最後の一行を書き終えてしもたら、娘である君との絆が、永遠に断たれてまうことへの……絶望的なまでの喪失の恐怖の心音や。数字も、線の歪みも、全部がそう言うとる」
佐伯の言葉が、画面から放たれる青白い光とともに、遮蔽された地下室の隅々へと静かに満ちていく。彼の声音には、一切の主観的な同情は混じっていなかったが、だからこそ、その解析結果の持つ絶対的な真実味が、私の耳の奥へと重く、深く沈み込んでいく。
お父さんの心臓をここまで狂わせたのは、己の罪に対する罰への怯えではなく、私を失うことに対する、耐え難いほどの恐れだったのだという。その真実が、佐伯の淡々とした口調によって、私の心の最も深い場所に届けられた。
お父さんは、自分が親友を裏切ってしまったことに対する世間体や罪悪感の重さに耐えかねてペンを震わせていたのではなかった。
彼はただひたすらに、私のことを、血の繋がりすら存在しない目の前の幼い私を、狂おしいほどに愛してしまったからこそ、この手紙を書き終えることでその幸福な関係が完全に終わってしまうことを恐れていたのだ。
真実を告白すれば、私から父親と呼ばれる権利を失う、その瞬間が訪れることを恐れ、ペンを進めることができなくなっていたのだという事実が、機械の数値によって白日の下に晒された。
その愛の深さが、罪の重さと同じくらい、あるいはそれ以上に巨大な質量を持って私にのしかかり、そして同時に、行き場を失っていた私の魂をそっと救い上げていく。
「正蔵氏な、謝罪よりも先に、君を狂おしいほど愛してるんや。それは、この数字が完全に証明しとる」
佐伯は、最後にキーボードのエンターキーを強く叩き、解析を終了させた。画面には、山城正蔵の心拍数が咲子さんのそれと比較され、いかに彼が私という存在に対して強い情愛を抱いていたかを示すグラフが、残酷なほどに明瞭に浮かび上がっていた。
彼はフゥと短く息を吐き出すと、椅子に深く身体を預け、どこか誇らしげで、しかしどこか切なさを孕んだ瞳で私の横顔を見つめていた。
その科学的な証明、感情という不確かなものを一切排除したデータが、私の凍りついていた心を、今度こそ力強く抱き締めるようにして温めていく。
お父さんが遺した大罪は消えないし、実家で過ごした日々の背景にあった歪な真実も変わらない。それでも、あの人が私に注じてくれた二十数年間の愛情だけは、何一つの不純物も混ざっていない。
純粋な、紛れもない本物であったのだと、私は佐伯の操作する画面の光の海の中で、ようやく信じることができたのだ。
地下室を満たす機械の駆動音さえも、今は私を祝福する静かな旋律のように聞こえていた。
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