第40話 街が教えてくれること
遮光カーテンの隙間から差し込んできた容赦のない朝の光が、私のひどく腫れ上がった瞼を不躾に刺激した。
昨夜、大倉山の佐伯の屋敷の書斎で、畳みかけるような絶望の真実に打ちのめされ、子供のように声を上げて泣き腫らした私の目元は、今も熱く脈打つような不快感を残している。
鏡を見るまでもなく、自分の顔がどれほど酷い有り様になっているかは容易に想像がつく。思考は未だに澱んだ泥の底に沈んだままで、重い身体を動かすことすら拒絶したくなるような気怠さが全身を支配している。
そんな私のスマートフォンが、枕元で無機質な電子音を響かせたのは、午前八時を少し回った頃だった。画面に表示された名前に心臓を小さく跳ね上げながら通話ボタンを押すと、受話口からは、普段と変わらない不敵で低い声音が鼓膜を叩いた。
「山城さん。今から出かけるから、さっさと準備しとき。もう近くまで行っとるからな」
と、彼は私の返事も待たずに、一方的に通話を切ってしまったのだった。
佐伯のことだから、どうせいつものヨレヨレのTシャツ姿で、兵庫駅の改札あたりに突っ立って私を待ち構えているのだろう。そう思いながら、私はまだ生々しい涙痕の残る顔を洗い、肌寒くなってきた季節に合わせた上着を羽織って、重い身体を引きずるようにして必要最低限の支度を整えた。
あの真実を知ってしまった今、兵庫駅の周辺にある私の実家は、どこか見慣れない冷たさを湛えた空間に思えて、一刻も早く外の空気を吸いたいという思いもあった。
しかし、重い玄関の扉を開けて表に出た私を待っていたのは、想像を絶する光景だった。公共交通機関を使って移動する姿しか見たことがなかった佐伯が、私の自宅の目の前に、信じられないほど鮮やかな、燃えるような真っ赤なスポーツカーを滑り込ませて停車させていたのだ。
秋の澄んだ日差しを浴びてギラギラと輝く流線型のボディは、下町の静かな住宅街の中で、異様なほどの存在感を放ちながら周囲の空気を威圧している。
運転席の窓が静かに下がると、案の定、首元の伸びきったヨレヨレのTシャツを着た佐伯が、その特有の猫背をシートに預けたまま、面倒くさそうに私を見上げてきた。
「遅い。女の子の着替えを待つのに、この車は少々目立ちすぎると思わんか」
と、彼は自分でこの派手な外車を持ち出しておきながら、呆れたような口調で私を助手席へと促したのだった。
あまりの場違いな光景に、私は一瞬だけ昨夜の絶望を忘れ、呆然と目の前の赤い鉄の塊を見つめてしまった。ドアをひらいて恐る恐る高級な革張りのシートへと腰を下ろすと、車内には独特の新しい革の匂いと、微かに機械的なオイルの香りが充満している。
「高そうなレンタカーを借りたんですね」
私が少しだけ声を尖らせてそう尋ねると、佐伯はハンドルを握ったまま、一瞬だけあからさまに不機嫌そうな歪んだ表情を浮かべた。彼は憮然とした態度で私の方を睨みつけるように見据え、ぶっきらぼうに言葉を吐き捨てた。
「自分のや!」
まさか彼がこのような高級外車を自前で所有しているなど思いもしなかった私は、その予想外の返答に小さく唇を震わせたが、彼はそれ以上こちらの驚きに付き合うつもりはないらしく、滑らかにアクセルを踏み込んだ。赤いスポーツカーは低い排気音を響かせながら、兵庫駅前の喧騒を抜けて静かに走り出したのだった。
連れてこられたのは、乾いた秋風が吹き抜ける、高い日差しが容赦なく降り注ぐ神戸の街の一角だった。上空には雲一つない抜けるような秋晴れの青空が広がっているというのに、私の心の奥底には、未だに昨夜の陰惨な真実の雨が降り続いている。太陽の光が強ければ強いほど、自らの足元に伸びる影の濃さが際立ち、胸が締め付けられるように痛む。
(なんでお父さんはあんな真実を隠して私を育てたんやろう。あの優しかった日々すら、全部誰かへの裏切りの上に成り立っていたというのに、どうして私は今もこうして息をしているんやろう)
そんな、答えの出ない問いかけが頭の中でぐるぐると渦巻いては消えていく。
スポーツカーを再開発ビルの地下駐車場に滑り込ませ、私たちの足が止まったのは、あの阪神淡路大震災という未曾有の災厄によって一度は完全に灰燼に帰し、そこから気の遠くなるような年月と、人々の血の滲むような祈りを積み重ねることで、奇跡のような力強い復興を遂げた長田の街だった。
見上げるほどに高くそびえ立つ再開発ビルは、近代的なガラス窓を陽光にきらめかせ、新しく敷設されたばかりの道路の黒いアスファルトは、どこまでも平坦に伸びている。あまりにも整然としたその街並みは、昔ここで起きた凄惨な悲劇の記憶など、最初から存在しなかったかのように美しく、そしてどこか人工的な表情を湛えて私を圧倒した。
佐伯は、相変わらず首元の伸びきったヨレヨレのTシャツを身に纏い、その特有の猫背をさらに丸めるようにして歩調を緩めた。彼は歩道の中央でふと足を止めると、履き潰されたスニーカーの靴底で、よく整備された舗装道路の地面をコツコツと、小刻みに叩き始めた。周囲の再開発ビルの壁面に反射して、私の耳腔へと寂しく吸い込まれていくその乾いた硬質な音は、まるで地下に眠る過去の記憶を呼び覚まそうとする合図のようだった。
「山城さん。この綺麗な街並みの下にはな、あの震災で焼けた土や、以前の暮らしの跡が何重にも埋まっとるんや」
彼の声が、冷ややかな秋の風に乗って私の元へと届く。佐伯は地面を見つめたまま、文字の裏を読み解く時と同じ、どこか遠くを見るような深い眼差しをその路面へと向けていた。
私は言葉を返す気力すら湧かず、ただ無言のまま、彼の少し先を歩く背中をじっと見つめていた。その背中は、いつもなら他者を寄せ付けない傲慢な自信に満ちあふれているはずなのに、今はなぜか、この街が抱える膨大な歴史の重みを一身に受け止めているかのように、ひどく寡黙で、揺るぎない存在感を放っている。
(この人は、私がどれだけ絶望の淵で立ち止まっていても、決して無理に手を引くわけやない。ただ、こうして私の目の前を歩き続けて、世界の本当の姿を見せようとしてくれる)
そう思うと、視界の端に映る彼の広い背中が、酷く眩しく、外車を乗り回す彼の底知れない一面も含めて、どこか遠いもののように感じられてならなかった。
佐伯は突然、それまで進めていた足を完全に止め、ゆっくりと時間をかけるようにして振り返った。その動作に伴って、彼の細い身体が強い日差しを遮り、私の足元に細長い影を落とす。彼は前髪の隙間から、その切れ上がった瞳で私の真っ直ぐな瞳を正面から見据えた。その眼差しには、一切の妥協も、誤魔化しも、憐れみすらも含まれてはいなかった。
「街は新しく上書きされる。そやけど、その下にある土や地層は、決して消えへん。それと同じや。君の父親の犯した大罪も、君に向けられた二十数年間の無償の愛も、どちらかが嘘でどちらかが本物っちゅうわけやない」
そこで佐伯は一度言葉を切り、私の動揺を確かめるように、じっと私の顔を覗き込んできた。少し肌寒い長田の街の風が、二人の間に横たわる沈黙をゆっくりと通り抜けていく。秋の澄んだ光が、彼の無精髭の浮いた顎のラインを白く浮かび上がらせていた。
「両方とも、紛れもない正蔵氏の真実なんや」
彼の口から告げられたその名前と、あまりにも残酷で、同時にあまりにも優しい言葉の重みが、私の鼓膜を直接震わせ、脳髄へと深く突き刺さった。
再開発された美しい長田の街並みの下に眠る、決して消えることのない人々の生活の筆圧。それを、自らの足元を指し示すことで私に理解させようとする彼の横顔には、文字に命を懸けてきた終筆士としての底知れない誠実さが宿っていた。その真摯な眼差しと、一言句に込められた魂の重量を前にして、私自身がどれほど独りよがりの絶望に閉じこもっていたかを思い知らされる。
お父さんは罪を犯した。それは絶対に許されない事実であり、兵庫駅の実家に残された私の大切な思い出をも汚すものかもしれない。しかし、いや、だからこそ、私を抱きしめてくれたあの手の温もりも、私の成長を狂おしいほどの情熱で願い続けてくれたあの二十数年間の日々も、また絶対に否定できない本物の愛なのだ。
彼の言葉が、私の胸の奥深くに長年君臨し、昨夜の真実によって完全に凍りついていた頑なな氷の塊を、音も立てずにわずかに融かしていくのを明確に感じていた。罪の裏に、確かに存在していた狂おしいほどの愛。
私は初めて、その両極端な真実から目を逸らさずに、自らの足で立って立ち向かうための微かな光をその場所に見出していた。
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