第39話 少女漫画の限界
どれほどの時間が流れたのか、もはや私には計り知ることもできなかった。
大倉山の屋敷は、まるで外界の喧騒から完全に切り離された異界のようだった。夜がどこまでも深く更けていっても、この部屋を支配するあの重苦しい沈黙は、一向に晴れる気配を見せない。
窓の向こうに広がる夜闇は、まるで重たい絵の具を幾重にも塗り潰したかのように濃厚で、部屋の隅々へとねっとり這い寄ってくる。現日はあまりにも非情であり、縋るべき救いの糸すら垂らしてはくれない。
それは、佐伯が普段、退屈な日常からの現実逃避のように熱心に愛読している少女漫画の劇的な世界とは、完全にかけ離れている。紙の上の物語であれば、どれほど絶望的な状況に陥ろうとも、最後には鮮やかな逆転劇が用意されている。あるいは、すべてを白紙に戻すような都合の良い奇跡が、約束された美しいハッピーエンドへと読者を導いてくれるはずだった。フィクションの神様はいつだって主人公に優しく、残酷な現実の泥に塗れる前に、必ず美しい救済の言葉を用意して待っている。
しかし、網膜に焼き付いたあの文字の痕跡は消えない。兵庫駅の周辺を歩いていた頃の何も知らなかった平穏な日々にはもう二度と戻れないのだ。
親友を容赦なく裏切り、その娘である私を己の醜い贖罪のためだけに、歪んだ愛情で育て上げたという、あまりにもおぞましい悪魔の真実。
その圧倒的な事実の巨塊を前にしては、フィクションが提示するいかなる美しい結末も、何の役にも立たない無力な端役へと成り下がっていた。安っぽい台詞の数々は、完全に凍りついた私の心を温める火種にすらなり得なかった。
私の身体の芯から噴き出す深い絶望と、終わりなき嗚咽を目の当たりにして、佐伯はいつもの傲慢な姿勢を完全に削ぎ落とされていた。彼の顎にはうっすらと無精髭が浮き、髪も整えられないまま、いつものヨレヨレのTシャツを着ているだけだった。あの終筆士としての絶対的な自信に満ちた正装の影などどこにもなく、ただの見慣れた怠惰な格好のまま、彼は私のすぐ隣の冷たい床の上へと力なく座り込んだ。
つい先ほどまで、私は彼の胸に顔を埋め、子供のように大声を上げて激しく号泣していた。成人男性特有の圧倒的な熱量と、ヨレヨレのTシャツから微かに漂う古いインクの匂いに包まれながら、感情のすべてを吐き出すように泣きじゃくったのだ。
今はようやく激しい嗚咽こそ収まったものの、腫れ上がった目元からはまだ涙の名残が引きも切らず、私は小さく鼻をスンスンといわしながら、少しずつ呼吸を整えていた。張り詰めた空気を微かに震わせる私の鼻音だけが、広い書斎に虚しく響く。
隣に座った彼の身体からは、普段なら漂うはずの、文字の専門家としての絶対的な自信や気負いのようなものが一切消え失せていた。首元が伸びきった衣服の隙間から、彼の苦しげな呼吸が不規則に漏れ聞こえる。そのだらしなく座り込んだ背中は、まるで重すぎる現実に押し潰されてしまったかのように、ひどく小さく見えた。いつもなら世界を斜めから見下ろすような不敵な態度を崩さない男が、今は一人の人間として、私の傍らで途方に暮れている。
「なぁ、山城さん。こういう時、俺の好きな漫画やったら、主役が気の利いたセリフでヒロインを救い出すんやけどな……」
佐伯は、自らの無力さを呪うかのように、ひどく掠れた声で自嘲気味に呟いた。その声には、文字の裏の心理を暴いてきた天才終筆士の面影など、どこにも残されていない。普段の彼なら絶対に口にしないような弱音が、乾いた唇の隙間から零れ落ちていく。
(お父さんの犯した罪も、私の流す涙も全部本物の現実なんや。漫画の主人公みたいに、綺麗で優しい言葉だけで全部を元通りにしてくれる人なんて、この世界のどこにもおらへんのに……)
私が膝を抱えて視線を落とすと、床に落ちた涙の雫が、古い木目に小さな輪を作ってじわりと広がっていく。佐伯は力なく垂らしていた自分の両手を見つめ、何度も指を折り曲げては、その不甲斐なさに耐えるように拳を固く握り締めた。彼の爪が手のひらに深く食い込み、微かな皮膚の軋みを生み出す。
「どんなに探しても、単行本のどこをめくってもな、今のあんたに掛けてやれる都合のええ言葉なんて見つからんのや。俺がどれだけ言葉の裏を読めても、肝心な時に何も言えんのやったら、終筆士なんてただの格好付けやな……」
自虐的な言葉とともに、佐伯は深く大きなため息を吐き出し、その背中をいっそう丸めて私の横顔を覗き込んできた。
その瞳は、いつもの鋭さを完全に失い、ただ目の前の女性の傷を労わるような、深く暗い光を宿している。彼は言葉を武器に戦ってきた男だからこそ、今、自分の手元に私を救える言葉が一つも存在しないという事実に、激しく打ちのめされているように感じた。
「なぁ、山城さん、頼むからそんな風に一人で全部を背負い込もうとせんといてくれ。あんたが泣き止むまで、俺はどこにも行かへんし、ずっとここに居るから。だから、もう無理に笑おうとか、しっかりしようとか思わんでええんやで」
佐伯の言葉は、洗練された知識人のそれではなく、酷く泥臭く聞こえたが、どこまでも必死な響きを伴っていた。彼は頼りなく泳ぐ視線の先、絨毯の傍らにぽつんと転がっていた少女漫画の一冊を、静かに手に取った。その背表紙に描かれたきらびやかなキャラクターたちが、今の私たちの陰惨な状況を皮肉に際立たせている。佐伯は感情の抜け落ちた虚ろな目で、その色褪せたページをパラパラと力なく手繰り始めた。
スンスンと鼻を鳴らす私の隣で、彼は敷物のうえに座り込んだまま、ある一節をぽつり、ぽつりと、まるでおまじないでも唱えるかのように優しく読み聞かせ始めた。
それは、作中の登場人物たちが交わす、今の私たちの張り裂けそうな状況には幕切れのない、他愛のない恋の言葉に過ぎなかった。甘ったるくて、どこまでも現実味のない、ただの絵空事の羅列だった。それでも、彼の声だけが、暗闇のなかで唯一の道標のように響いていた。
「ほら、ここな……『世界がどれだけ変わっても、俺はお前を見つけ出す』やて」
佐伯はそこで一度ページをめくる手を止め、ふっと力なく、自嘲の混じった笑みをその薄い唇に浮かべた。紙をめくるカサリという乾いた音だけが、静まり返った書斎の天井へと寂しく吸い込まれていく。彼は漫画のなかの非現実的なセリフをなぞることで、どうにかして私との繋がりを繋ぎ止めようとしているかのようだった。
「アホらしいくらいに綺麗事やけどな。あんたの親父さんが遺した真実がどれほど泥塗れでも、あんた自身が犯した罪やない。あんたはただの山城春奈や。終筆士の俺の前に現れた、ただ一人の山城春奈なんやからな」
彼はそう言って、漫画のページをひらいたまま、そっと私の震える肩に届かない距離で手を止めた。これ以上踏み込んではいけないという理性が働いているのか、あるいは単に彼の不器用さゆえなのかは分からなかったが、その躊躇いそのものが、今の私には酷く愛おしく思えた。
彼がそうして不器用に、決して私を見捨てずに私のすぐ隣に居続けてくれること。
その拙い朗読と、必死に紡ぎ出される慰めの言葉に込められた、言葉にならない不器用な共感の意思。
それだけが、冷え切った屋敷の床の上へと、静かに優しく、雪のように音もなく積もっていくのを、私は泣き疲れて感覚の麻痺しかけた頭の片隅で、感じ取っていた。
真実は私の未来を黒く塗り潰してしまったけれど、この大倉山の床の上にある温もりだけは、決して嘘ではないと信じたかった。
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