第38話 揺らぐアイデンティティと眼鏡の涙
地下の狭い暗室から這い出るようにして戻ってきた書斎の空気は、肌が粟立つほどに冷え切っていた。
ツンと鼻の奥を突き刺す酸性の現像薬品の臭いが、今も衣服の繊維や皮膚の奥深くにべっとりと染み付いている。その不快な残り香が、心に刻まれた絶望の感覚をさらに強固なものへと変えていくようだった。
机の上では、ランプが頼りない琥珀色の光を放っている。その暗い灯りが、手元に並べられた残酷な解析データを不気味に照らし出していた。
血のような赤い光のなかで、紙の表面にある凸凹が不気味に浮かび上がる。それは肉眼では絶対に見えない筆圧の化石として、紙の繊維の奥深くに尋常ではない力で刻まれている。
現し出されたのは、父・正蔵の凄まじい謝罪の痕跡に他ならない。その厳然たる事実が、私が生まれてからずっと信じ続けてきた、優しかったお父さんの記憶を根底から引き裂いていく。これまで大切に積み重ねてきた幸福な過去のすべてが、容赦なく粉々に打ち砕かれていった。
兵庫駅の近くにある、つつましい佇まいの実家。そこでお父さんは、私を不器用なまでに深い愛情で包み込んでくれていた。しかし、山城正蔵という男の文字の表層には、あまりにもおぞましい本当の叫びが隠されていたのだ。これこそが、暗闇のなかで窒息しかけながらのたうち回っていた、父の真の絶叫であろう。
胸の奥が、鋭利な刃物で何度も何度も執拗に抉られるような激しい痛みに支配されていく。あまりの衝撃に、全身の感覚が恐怖で麻痺していくようだった。
喉の奥がカラカラに干からび、カチコチに凍りついていく。私は、まともな呼吸の仕方すら忘れてしまいそうだった。記憶のなかにあるお父さんの穏やかな笑顔も、私の細く冷え切った指を引いてくれた時の確かな温もりも、すべては偽りのものだったというのか……。
生涯の親友であった男を、自らの筆跡偽造という悪魔の技術を使って社会的に完全に破滅させ、その命すらも奪ってしまった。あの深い優しさは、そのおぞましい大罪の裏返しに過ぎなかったのだ。
「私は……お父さんにとって、罪滅ぼしのための道具やったん?」
ようやくの思いで喉の隙間から絞り出した声は、自分でも驚くほどに惨めだった。そして、行き場をなくした小鳥のように、弱々しく不規則に震えていた。
(愛されてきた、あの温かくて優しい時間は、すべて父の胸の中の罪悪感を和らげるための都合の良い塗り絵に過ぎなかったんやろか。私は、ただの身代わりとして、お父さんの心の枷を軽くするためだけに都合よく存在させられていたんやろか……)
止めどなく溢れ出してくる疑問の濁流が、私の細い身体の輪郭を内側から激しく揺さぶる。
私は父の愛を一片の疑いもなく信じていたからこそ、この大倉山の佐伯の屋敷で終筆士の調査に関わってきたのだ。
そんな自分自身が、あまりにも滑稽で、哀れで、たまらなく憎らしかった。咲子さんへの愛を饒舌に語る華やかな言葉の裏側で、お父さんが命を賭けて隠したかった破滅のパズルのピースが、今、最悪の形を伴って私たちの目の前に完全に揃ってしまったのだ。
私は、自分の顔の一部として視界を支え、真実を見極めるための盾としていた眼鏡のフレームに震える指先をかけた。そして、それを自らの手でむしり取るようにして、乱暴に顔から引き剥がす。
耳の裏に擦れる物理的な痛みなど、今の胸の裂傷に比べれば完全に無に等しい。眼鏡を失った途端、ただでさえ涙の膜で酷く歪んでいた世界は完全に崩壊し、まるで熱で溶けていくプラスチックのようにドロドロと不格好に、どこまでも霞んでいく。
お父さんがその器用な指先で創り出したものは、美しい手紙などではなく、誰かを地獄へ突き落とすための悪魔の証明だったのだ。その厳然たる事実を前にして、私は震える膝を支えることすらできない。膝が激しくガタガタと震え、私はたまらず木製の古い机の端に両手を突いたが、手のひらから伝わってくる冷たい木の質感が、現実の過酷さをこれでもかと主張してくる。
もう、目の前に佐伯という一人の男がいることさえ、私の意識からは完全に消え失せていた。感情の決壊を食い止めていた最後の堤防が音を立てて脆くも崩れ去り、私は生まれて初めて、分別のない幼い子供のように大声を上げて激しく泣きじゃくった。ヒィヒィと引きつった呼吸が喉を鳴らし、胸の奥底の暗い深淵から湧き上がってくる絶望の泥水が熱い涙となって両頬を伝い、ボタボタと大倉山の歴史を吸い込んだ古い床板へと染み込んでいく。
床に落ちていく涙の黒い染みが、まるで父が遺したあの偽造書類のインクの汚れのように見えて、その錯覚がさらに私の胸を激しく締め付けてくる。いくら涙を流しても紙の繊維に刻まれた残酷な真実が洗い流されることはないと痛いほど知りながらも、私はただ、自由を奪われた魂の叫びを上げるように泣き続けるしかなかった。長年私が大切に温めてきた優しかったお父さんの記憶が、音を立てて砂のように崩れ落ちていく。
いつもなら、彼はどんなに複雑にもつれ合った筆跡の裏に隠された人間の汚濁にまみれた心理であっても、鋭く徹底的なまでの論理と少女漫画的直感をもって瞬時に見抜いてきたはずだ。そんなはずの佐伯が、その時ばかりは完全に言葉を失っていた。普段のプロとしての誇りに満ちた響きや、あるいは鋭敏な鑑識眼さえもが、目の前で崩壊していく一人の女の絶望の前では何の意味も持たない端役へと完全に成り下がっている。
彼の視線は机の一点に固定されたままで、その横顔からはいつもの冗談めかした気配が完全に剥ぎ取られていた。
「山城さん、俺は……」
低くかすれた彼の声が、逃げ場のない狭い書斎の空気に、ピンと張った一本の糸のように頼りなく、あるいは危うく響いた。
続く言葉を、彼はどうしても見つけることができないようだった。文字の専門家としてどれほど高度な知識を蓄えていようとも、今まさに目の前で実の父親の偶像を破壊され、自分のアイデンティティを見失ってのたうち回っている私を救うための言葉など、世界中のどこにも存在しないことを彼は誰よりも深く理解していたのだろう。終筆士としての傲慢さも今の彼からは完全に消え失せており、佐伯はただ長い四肢を硬直させたまま、そこへ立ち尽くしていた。
まるで肺のなかの空気の出し入れすら忘れたかったかのように、彫刻のごとく完全に動きを止め、その場に立ち尽くしている彼の姿が涙の向こうで不鮮明に揺れている。
部屋を支配する重苦しい沈黙のなか、私の泣き声だけが無慈悲に響き渡り、地上の光も物音も一切届かない地下室の延長線上にあるかのようなこの閉ざされた部屋で、やがて彼はその長い前髪の隙間から、これまで見せたこともないほどに痛ましげで、今にも心臓が破裂しそうなほど苦悶に満ちた表情を覗かせた。
彼は息を殺し、まるで壊れやすいガラス細工の破片を一つ一つ拾い集めるかのような、極めて慎重で不器用な足取りでゆっくりと私の方へと近づいてきた。
佐伯は、激しく震え続ける私の細い肩をその肉厚で大きな手のひらでそっと引き寄せ、自らの胸元へと不器用に抱き寄せてくれた。
衣服越しに伝わってくる成人男性特有の圧倒的な熱量と、筋肉の硬い感触がダイレクトに私の背中へと伝わってくる。彼のヨレヨレのTシャツから、長年彼がこの大倉山の屋敷で扱い続けてきた微かな古いインクの匂いとタバコの香りが、私の鼻腔へと一気に広がっていく。
その独特ではあるが、落ち着いた大人の男の匂いが私の冷え切っていた心の輪郭を優しく融解させ、温かさに触れたことで私の目から溢れる涙の速度をさらに狂おしいほどに加速させていく。私は震える膝を支えることすらできず、彼の体温だけを唯一の命綱にしながら、激しい嗚咽とともにその胸のなかに深く沈んでいくしかなかった。
ブックマーク、評価をお願い致します。
レビュー、感想等もお待ちしております。
誤字、脱字等がありましたらご報告をお願い致します。




