第37話 父の最後の嘘の全貌
(お父さん、あなたがこの紙の地層の底に埋め殺し、世界から隠し通そうとした真実の重みに、私は一体どこまで耐えられるんやろ……。心が、内側から粉々に砕けてまいそうなのに……)
薬品の鼻を突く強烈な酸鼻の臭気が、まるで逃げ場のない湿った霧のようにどこまでも重苦しくまとわりつく暗室。その肉厚な木製扉を重々しく押し開けた瞬間、肺の腑を実質的に凍らせるかのような冷え切った廊下の空気が、私たちの無防備な肌を容赦なく刺してきた。
先ほどまで狭い暗闇の中で見つめ続けていた、血の海を思わせる赤色電球の残像が、網膜の裏側でいまだにしつこくチカチカと明滅を繰り返し、視界の焦点を不快に狂わせる。
その歪んだ視界の最奥、ぽつんと配置された古びたデスクライトの放つ琥珀色の鈍い光だけが、無機質な鉄製の机の上を寂しげに照らし出していた。ライトの狭い照射範囲の中に並べられた拡大解析データシートの存在感は、まるで白黒の骸骨の羅列のように不気味で、これから告げられる破滅の足音を何よりも雄弁に物語っている。
佐伯はいつになく険しい表情のまま、ひどく緩慢な動作でポケットから煙草の箱を取り出した。指先で一本を抜き取り、薄い唇の間へと静かに咥え、金属製のライターを弾く。
カチリ、という硬質な音が静まり返った室内の静寂を激しく切り裂き、その直後に灯った小さな炎が、彼のいつもとは違う、プロとしての過酷なまでに研ぎ澄まされた横顔を立体的に浮き上がらせる。吐き出された濃厚な白濁の紫煙が、二人の間の空間にまるで逃げ場のない霧のように淀み、彼の双眸を曖昧に覆い隠していく。
部屋の隅に置かれた旧式の掛け時計が、刻一刻と私の平穏な過去を削り取るようにコトコトと不気味な音を立てて時を刻み、不穏な空気だけが部屋のなかにじわじわと満ちていく。
「山城さん。正蔵氏が命を賭して隠し通した真実な、色恋の情事や旧内務省への恐怖なんかより、遥かに残酷なものやったんや」
立ち上る煙の向こう側から届いた佐伯の声は、ただただ事実のみを冷酷に告げる重量感に満ちていた。その剥き出しになった瞳は、私がこれまで信じてきた美しく優しい世界の全てを根底から否定するかのような、圧倒的なまでの冷厳な現実をまっすぐに突きつけてくる。
その眼差しから目を背けることは許されないと、本能が恐怖とともに理解していた。私は逃げ場を失ったまま、木製の古びた机の端へ縋り付くようにして、指先が完全に白く変色し、血の通う感覚が完全に消失してしまうほどの力で、ただひたすらに強く握りしめた。
心臓が耳の奥で、破裂しそうなほどに不規則な早鐘を打ち鳴らし、彼の次の言葉を待つ一瞬が、まるで永遠の拷問のように長く、苦しく引き延ばされていく。
父正蔵が、その生涯のすべてを犠牲にし、自らの汚れた血とともに墓場へ葬り去ろうと画策していた『最後の嘘』。
それは、私のこれまでの人生の歩み、その足元にある確供たる基盤を一瞬にして徹底的に粉砕するに足る、おぞましい破壊力を孕んだ真実の姿だった。
「若き日の正蔵氏の無二の親友やった男を、正蔵氏は自らの筆跡偽造という悪魔の技術を使って、社会的に完全に破滅させとったんや」
佐伯の唇から紡ぎ出された、容赦のない言葉の鋭利な破片が、私の無防備な頭脳の奥深くへと深々と突き刺さと、その意識を激しく殴りつける。
あの混沌とした時代、旧内務省の役人たちとの間で交わされた、権力と金が複雑に絡み合うあまりにも汚濁にまみれた裏取引。
それを完全に成立させ、自らの身の安全を確実なものにするため、父はあろうことか、己の魂を分け合ったはずの最も大切な親友にすべての政治的罪を擦り付けたのだ。それだけに留まらず、その男の命すらも奈落の底へと引きずり落とし、取り返しのつかない不審な死へと追いやる結果を招いていた。
佐伯が手元でトントンと揃え、デスクの光の下に提示した数枚の古い紙片。それこそが、父がずっと隠匿していた手紙の解析データだった。母である咲子さんへ宛てた、狂おしいほどの愛の言葉が並ぶ美しい文字の数々。
だが、その強固な筆圧の地層を特殊な光で透過し、浮かび上がってきたのは、あまりにもおぞましい『裏の文字』だった。そこには、旧内務省の役人と交わしたとされる、親友の署名を寸分違わず偽造するための細かなストロークの計算、傷だらけの告白が刻まれていた。
なぜ、父はそこまでして無二の親友の人生を破壊しなければならなかったのか。透過されたインクの染みの境界線に、父が狂ったように尖ったペン先で紙を引き裂きながら遺した、引き裂かれた本音が赤裸々に浮かび上がっている。
当時、天才的な筆跡模倣の才能に目を付けられた父正蔵は、旧内務省の国家を揺るがす大規模な不正資金流用の証拠文書を、何者かの身代わりとして偽造するよう秘密裏に強要されていた。もし拒絶すれば、自身の命はもちろん、当時すでに恋い焦がれていた咲子さんの命までもが即座に消されるという、逃げ場のない鉄の檻の中にいたのだ。
一方で、その不正の決定的な証拠となる一次資料を独自に掴んでいたのが、正義感の強い無二の親友だった。
内務省側は、自らの不祥事を闇に葬るため、そして機密の漏洩を阻むために、血眼になってその親友の行方を追い、抹殺しようと画策していた。だからこそ、親友は内務省の凄惨な追手から身を隠し、地下へと潜伏して反撃の機会を窺わざるを得ない状況に追い込まれていたのだ。
恐怖に呑まれ、自己保身の獣と化した父がその身代わりの標的として選んでしまったのが、皮肉にも、内務省の闇を最も激しく糾弾しようと正義の炎を燃やしていた、誰よりも潔白な、そして追いつめられていたその親友だった。
さらに最悪なことに、この底なしの陰謀の歯車を決定的に噛み合わせてしまったのは、他ならぬ実母である咲子さん自身の選択であったことが、手紙の後半の震える筆致から読み取れた。
当時、正蔵氏の親友であるその男もまた、咲子さんに深く心を寄せていた。そして彼は、内務省に追われる自らの危険も顧みず、同じく巻き添えを食らいそうになっていた彼女を匿い、自分が盾となって権力と戦う覚悟を決めていたのだ。
だが、内務省の冷酷な罠により、『親友が咲子を人質に取り、不正の全責任を正蔵に押し付けようとしている』という偽りの情報を吹き込まれた咲子さんは、愛する正蔵氏を救いたい一心で、親友が世間の目から必死に隠れていた潜伏先や、彼が命懸けで握っていた機密書類の保管場所を、すべて正蔵氏に開示してしまった。
咲子さんは、それが愛する男を守るための正しい行動だと信じて疑わなかった。しかし、その純粋すぎる恋心がもたらした情報こそが、正蔵氏に親友の筆跡を完璧に盗む機会を与え、内務省が親友を”反逆の首謀者”として完璧に仕立て上げるための決定的な毒刃となってしまったのだ。
親友を売ることでしか、最愛の女性を守れず、自分自身も生き残ることができなかったという、あまりにも身勝手で、しかし哀しいまでに人間臭いエゴイズムの塊。
そして、自らの盲目的な愛が引き金となって、無辜の親友を死へ追いやったという事実を知り、狂乱の果てに心を病んでいった咲子さんの絶望の記録が、そこには生々しく綴られていた。
親友の筆跡を完璧にトレースし、あたかも彼が首謀者であるかのように偽装された告発状を捏造したその瞬間、父は己の破滅を回避する代償として、自らの魂そのものを悪魔に売り渡したのだ。
(嘘や、嘘やと言ってよ、お父さん……。お母さん……。二人がそれほどまでに狂おしく求め合った愛の裏側で、一人の無実の人が身代わりにされて殺されたん? あなたがその神の如き器用な指先で紡いできたあの美しい文字は、人を救い、愛を伝えるためのものではなくて、自分が生き残るために誰かの息の根を冷酷に止めるための暗殺の刃やったん……?)
喉の奥がカラカラに干からび、叫び声すらも掠れて形にならないまま、私の胸の奥の空間はただ絶望の黒い泥水で満たされていく。
「つまりな、正蔵氏が君に注いできたあの狂おしいほどの無償の愛、そのすべては……親友から奪った人生に対する終わりのない贖罪やった可能性が極めて高い」
その最後の告白が、私の鼓膜を、そして私の魂の輪郭を完全に引き裂いた瞬間、私の脳裏を埋め尽くしていた全ての光景が反転した。
いつも私を温かく見守ってくれていた正真正銘の父親である正蔵の穏やかな笑顔、私の小さな身体を壊れ物を労るように優しく抱き上げてくれたあの大きな手の確かな温もり。そして、ここ大倉山の古い屋敷の広大な庭で、こぼれ落ちる陽光を浴びながら過ごした幸福な日々の全ての記憶が、まるで劇薬を注がれたように一瞬にして色褪せ、醜く剥がれ落ちていく。
それは、私がこれまで人生の心の拠り所として信じて疑わなかった美しい家族の思い出などでは決してなかった。他人の尊い血と涙、誠して奪い取った命の泥土の上に、罪悪感から必死に築き上げた、あまりにも脆く歪んだ砂の城に過ぎなかったのだ。
ガラガラと音を立てて、私の世界のすべてが足元から完全に崩壊し、暗黒の深淵へと堕ちていく。
私はその猛烈な崩落の中心で、ただの一歩も動くことができず、息をすることさえ完全に忘れたまま、ただ絶望の暗闇のなかに取り残されて立ち尽くしていた。
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