第36話 暗室の告白、浮かび上がる線
ツンと鼻の奥を激しく突き刺すような、酸性の強い現像薬品の独特な臭いが、換気ファンの回らない狭い室内の空気にべっとりと淀み、私の衣服の繊維や皮膚にまで深く染み付いてきそうだった。
お父さんの遺品から見つかった秘密の痕跡を暴くための時間は、私の心臓を不規則に締め付け、冷たい汗が背中を伝うのを止めさせてはくれない。
大倉山の古い佐伯の屋敷の、最も奥まった一角からさらに階段を下りた地下室。その中に作られた本格的な暗室は、まるで外界の時間の流れをすべて遮断した秘密基地のように、恐ろしいほどの静寂のなかで薄暗く沈んでいる。
地上の光も物音も一切届かない、厚いコンクリートの壁に囲まれた底暗い空間は、お父さんの犯した罪の証拠を解き明かすための、逃げ場のない鉄格子のようでもあった。
天井のソケットから剥き出しになった赤色電球が放つ怪しい光は、まるで漆黒の闇のなかでドクドクと脈打つ生き物の心臓から溢れ出た、どす黒い生き血のようだった。
その不気味な赤い光線が、冷たい地下の壁や、私たちの引きつった顔を、不気味な陰影を伴って照らし出しては、電圧の不安定さゆえに小さく明滅を繰り返している。
いつになく真剣な表情を浮かべた佐伯は、まるで肺のなかの空気の出し入れすら忘れたかったかのように彫刻のごとく完全に動きを止め、手元のトレイをじっと見つめていた。
その一切の無駄がない横顔を横から盗み見ているうちに、私の緊張のメーターもいよいよ限界に達し、喉の奥がカラカラに干からびていく。
化学溶液が波一つ立てずに張られた、四角いガラスのトレイのなかへ、細心の注意を払いながらゆっくりと、一枚の白い紙がピンセットで沈められていった。
(これから暴かれる真実が、私のこれまでの人生をどれほど残酷に変えてしまうんやろ、想像するだけで全身の血が引きそうになるわ……)
それは、兵庫駅近くの私の家に残されていた、父正蔵がかつて愛用していた古い便せんの一枚である。
引き出しの奥から見つかったその紙は、パッと見ただけでは文字一つ綴られていない完全な白紙にしか見えなかった。
職人気質で頑固だったお父さんは、生前、ペンを握る時の筆圧が尋常ではないほどに強かった。
白紙の表面に隠された、目には見えない凹凸のなかに、お父さんが命懸けで残した何かが刻まれているかもしれない。その一縷の望みに賭けて、私たちはこの地下の暗闇へと足を踏み入れたのだ。
(お父さん、あなたはこんな地下の暗闇の底で暴かれることになる秘密を、一体どれほどおぞましい思いで世界から隠そうとしていたんや……?)
私の胸の奥にある心臓は、薄緑色の液体のなかでゆらゆらと頼りなく揺れる紙の動きに呼応するように、激しく、今にも胸骨を突き破りそうなくらい非規則的に波打っていた。
「山城さん、動くなよ」
薬品の海を見つめたまま、佐伯が低くかすれた声で、私の鼓膜へ直接届けるように囁いてきた。
彼の視線はトレイに固定されたままで、その横顔からはいつもの冗談めかした気配が完全に剥ぎ取られている。
地下特有のひんやりとした湿った空気が、ピンと張った一本の糸のように部屋のなかに満ちていく。
「ここから先が、俺の終筆士としての本当の領域や」
続く彼の重量感を持った声が、逃げ場のない狭い空間の隅々にまでじわじわと響き渡る。
普段の時とはまるで違う、プロとしての誇りに満ちた響きに、私はただ圧倒されて思わずごくりと固い唾を飲み込んでしまう。
彼は指先の感覚を極限まで研ぎ澄ませながらピンセットをわずかに動かし、薬液を吸って今にも自重で千切れそうなほど脆くなった紙を、一枚の薄皮を剥ぐようにそっと引き上げた。
デスクの上に鎮座する、金属の鈍い光沢を放つ拡大解析装置という、いくつものレンズが重なった物々しい機械の下へと、吸い付くような手際よさで固定していく。
「見てみぃ。普通やったら何十年の歳月が流れれば、紙自体の劣化や湿気で潰れてまうはずの紙の繊維の奥深くに、肉眼では絶対に見えん『筆圧の化石』が眠っとるんや」
佐伯は解説するような低いトーンでそう語ると、私の警戒心が追いつくよりも早く、音もなく私の背後へと回り込んできた。
(えっ、ちょっと待って、嘘、急に距離が近すぎる……っ!?)
不意を突かれた私の心の準備など待ってくれるはずもなく、私の細くかじかんだ指の上に、彼自身の肉厚で大きな手のひらが、そっと重ねられた。
衣服越しではない、彼の肌から直接肌へとダイレクトに伝わってくる、成人男性特有の圧倒的な熱量と、筋肉の硬い感触。
すぐ耳元、ほんの数センチという至近距離から規則的に聞こえてくる彼のあたたかい呼吸の気配に、私の脳裏は一瞬にして真っ白に染まり、全身の関節がカチコチに固まってしまう。
「じっと目を凝らして、よく見とくんや」
佐伯はさらに上体を寄せ、私のすぐ背後から包み込むような形で行く手を阻む。
彼の胸板の硬さが背中に伝わるたび、私の思考は完全に停止し、心臓の音だけが耳の奥でうるさいほどに鳴り響く。
地下室の狭い暗闇のなか、私をどこにも逃がさないと決めたかのような彼の大きな手のひらが、さらに一段と強く私の指を固定した。
「このレンズの向こうにあるのが、真実の形やからな」
彼の大きな手が、私の指を優しく包み込むようにしながら機器のダイヤルを回し、ルーペの焦点をじわじわと合わせていく。
背中から包み込まれるような彼の熱にすっかりのぼせそうになりながら、私は破裂しそうな胸を必死に抑えて、レンズの向こうに広がる赤い世界を覗き込んだ。
すると、血のような赤い光が交差するレンズの向こう側、尋常ではない異常な力で紙の表面を深くえぐり取った”見えない線”の凸凹が、牙を剥くようにしてボコボコと立体的に浮き上がってきた。
「見ろ、これが君の父親の……文字の表層に隠された、本当の叫びや」
佐伯の真摯な言葉が、私の耳の奥の鼓膜を、自由を奪われた私の魂の輪郭を激しく揺さぶる。
その声の響きは、過去の亡霊を呼び覚ます呪文のように重い真実を孕んでいた。
レンズの底に浮かび上がってきたのは、表向きの、誰もが騙されるほど綺麗に整っていた均整の取れた文字を、内側の地層からめちゃくちゃに破壊するような、父正蔵の凄まじい謝罪の痕跡。
一度書いた上から、さらにインクの出ないペン先を何度も何度も狂ったように重ねて引かれた深く紙を引き裂き貫くような線の太さ。
拡大されたその筆跡の地層には、ただ一人の男の名が、まるで呪詛のように、あるいは血を吐くような無念の告白とともに何度も繰り返し彫り込まれている。
お父さんから聞いた事のある生涯の親友の名前。
白黒の濃淡のなかに不気味に浮かび上がるその文字の羅列は、長年私が温めてきた優しかったお父さんの記憶を、根底から引き裂いていく。
(お父さん、なんでこんなになるまでペン先を押し付けたん……。親友に対する何の『ごめんなさい』なんやろ……)
それは、咲子さんへの愛を饒舌に語る華やかな言葉の裏側で、のたうち回りながら暗闇のなかで窒息しかけていた、罪悪感にまみれた父の本当の絶叫そのものに感じる。
お父さんが命を賭けて隠したかった破滅のパズルのピースが、今、最悪の形を伴って私たちの目の前に完全に揃おうとしていた。
お父さんが、その器用な指先で創り出したものは、美しい手紙などではなく、誰かを地獄へ突き落とすための悪魔の証明である。
その事実を前にして、私は震える膝を支えることすらできず、佐伯の体温だけを唯一の命綱にしながら、暗室の赤い光のなかに深く沈んでいくしかなかった。
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