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<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第二幕 堆積する記憶と神戸の深淵編

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第35話 キャンセル規定の再確認

 湊川公園の冷たい夜風に吹かれながら、ひたすら涙を流し尽くした私は、赤く腫れぼったくなった目元を濡れたハンカチで何度も強く押さえた。

 お父さんの真実を知るのが怖くて、自分の血筋さえも否定して叫んでいた私の愚かな震えは、佐伯が示してくれた確かな証拠によって、ようやく静まりをみせていた。

 

 佐伯の分厚い胸から確かに伝わっていた確固たる生命の温もりは、私の心の奥底で醜く暴れ回っていたすべての疑念を静かに、そして完全に鎮めていた。

 

 手紙に隠された本当の筆跡が、お父さんが私を心から愛して抱きしめてくれた記憶と一致しているという事実は、暗闇のなかに射し込んだ唯一の光だった。

 

 私たちはそれから夜の闇が深く澱む街路樹の並びを再び無言のまま寄り添うようにして歩き、兵庫駅近くの私の我が家へと戻ってきた。

 一歩足を踏み入れた我が家は、昼間の賑やかさが嘘のように静まり返っており、まるで私たちの帰還をじっと待っていたかのような冷たい静けさに包まれている。


 二階の奥に位置する書斎の空気は、私たちが部屋を激しく飛び出した時のまま、どこか時の流れを完全に止めたようにどんよりと重たく溜まったままでいる。

 窓から差し込む街灯の薄明かりだけが部屋の輪郭をうっすらと浮かび上がらせており、私は壁のスイッチに指をかけ、部屋の電灯を点けた。

 

 パッと白い光が広がった瞬間、使い込まれた机の上にバラバラと並べられた咲子さんの遺品とお父さんの未完の手紙が、容赦のない現実の姿を取り戻していた。

 お父さんが生涯をかけて隠し通そうとしたかもしれない秘密の箱が、今や蓋を開けられた状態で、私たちの目の前に無防備に晒されている。

 

 これから始まるのは、あの美しくも恐ろしい手紙の残りの余白を埋めるための本当の意味での最終調査なのだ。

 逃げ出すことはもう許されないのだと、机の上の白紙の便箋が、無言の圧力となって私の細い肩へと重くのしかかってくる。


 佐伯は机の前にゆっくりと腰を落ち着けると、いつもの仕事用の鞄から一冊の黒い手帳を丁寧に取り出し、静かな音を立ててページを捲った。

 使い込まれた革の表紙が擦れる微かな音が、水を打ったように静まり返った書斎のなかに、驚くほどはっきりと響き渡る。

 

 彼の衣服の繊維に深く染み付いた独特な古いインクの匂いが再び書斎の密閉された空間の中に満ちていき、私の背筋を自然とピンと伸ばさせる。

 その匂いは、彼がこれまでに幾人もの死者の想いを紡ぎ、数々のこじれた過去を解き明かしてきたプロフェッショナルであることの証左でもあった。

 

 彼はある特定のページでパタリと指の動きを止めると手帳から静かに視線を外し、これまで見たこともないほどに真剣な眼差しで私をまっすぐに見つめてきた。

 その瞳は、まるで私の心の奥底にある迷いや、僅かな逃避の念さえも一瞬で見透かしてしまうかのように、深く、鋭く光っている。


「今から仕事としての最終確認をするからな。よう、聞いといてや」


 いつもの低い声でありながら、その言葉にはどこか独特な重みが乗せられているように感じる。

 佐伯は私から視線を逸らさないまま、拳を軽く口元に当てて、一つ、短く厳かな咳払いをする。

 

 そのわずかな音を境にして、彼の瞳の奥からはいつもの雰囲気が一瞬で消え失せていく。

 部屋のなかの温度が急激に下がったのではないかと錯覚するほどの緊張感が、私たちの間のわずかな空間を支配していくのが分かった。

 他人の人生の深淵に踏み込もうとする完全な終筆士としての、厳しいプロの覚悟だけがそこに鋭く宿り始めていた。


「山城様、最終調査に入らせていただく前に、終筆士としての契約におけるキャンセル規定を、今一度ここで再確認させてください」


 佐伯の低く張りのある声は、先ほどの崩した関西弁から、どこか明確に距離を置いた丁寧な標準語の口調へと完全に切り替わっていた。

 その響きは、私と彼の間に明確な()()()()()()()という一線を引くためのものであり、生半可な感情の介入を拒絶する響きを持っている。

 

 彼は手帳を机の上に静かに置くと、私を試すかのようにその大きな両手を机の端に突いて、わずかに上体を前に傾けた。

 

 (キャンセル規定? そんなの、最初に契約書を交わした時にちゃんと説明を受けたはずなのに、なんで今になってこんなに他人行儀に言うんやろ……)

 

 突拍子もない彼の態度と、そこから放たれるただならぬ気迫に完全に圧倒され、私は言葉を失ったまま、彼の鋭い双眸をただ見つめ返すことしかできなかった。

 私の胸の鼓動は早鐘を打つように激しくなり、喉の奥がカラカラに干からびていくような強い圧迫感を覚える。


「この先にあるのは、単なる事実の確認ではありません。山城正蔵氏の、そしてあなたの家族の物語の本当の終わりです」


 佐伯は一度言葉を区切ると、机の上の未完の手紙へと視線を落とし、その途切れた最後の一画を静かに見つめた。

 お父さんの愛用の万年筆が、最後にインクを紙に残したその場所には、まだ行き場のない無念の念が漂っているかのようだった。

 

 部屋の窓の外からは遠くを走る電車の微かな走行音が、地鳴りのように低く響いてきており、この部屋の異常な静寂を際立たせている。

 彼の表情には一片の揺らぎもなく、ただ依頼人である私の未来を真っ正面から見据える、まっすぐな誠実さだけが満ちていた。

 それは、これから暴かれるであろう凄惨な真実から、私を絶対に逸らさないという冷酷なまでの優しさの裏返しでもあった。


「このまま進めば、あなたが知りたくなかったお父様本当の素顔や、咲子氏の真実と完全に正面から向き合うことになります。もしそれが耐えられないとおっしゃるなら、今ならまだ引き返せます」


 佐伯は私から視線を逸らさず、突き放すような、それでいて未来を委ねるような厳しい声のトーンを保ったまま言葉を続けた。

 彼の言葉の一つ一つが、私の胸の奥に容赦のない現実の弾丸となって、鋭い痛みとともに深く突き刺さっていく。

 

 これまで私が信じてきた温かいお父さんのイメージが、木っ端微塵に砕け散るかもしれない恐怖が、私の足元から這い上がってきた。


「規定通り、調査費の実費、プラス見積額の二割の違約金をお支払いいただき、ここで本を閉じられますか? それとも、どのような真実であれ、最後まで読み切る覚悟をお持ちですか」


 (二割を払って、ここで全部なかったことにする? お父さんのことを何も知らないまま、綺麗な思い出だけの箱に閉じ込めて生きていくってことやんな……)

 

 何も知らなければ、私はお父さんの優しい娘のままでいられるし、これ以上傷つくことも、誰かを恨むこともなくて済むのかもしれない。

 

 一瞬だけ私の頭の中にそんな弱気な選択肢が浮かび、机を握りしめようとした指先が小さく強張った。

 しかし、さっきまでいた湊川公園の黒い土の上に指で引いた、あの不器用な一本の直線の感触が、私の背中を強く力強く押し出していた。

 

 お父さんが遺した日記の、あのかすれるほど優しい筆圧の記録、私を生まれて初めて腕に抱いた時の手の震えの軌跡が、私に戦う勇気を与えてくれる。

 お父さんは私を愛してくれていたという確信があるからこそ、私はこれ以上お父さんの遺した真実から目を背けたくはなかった。


「キャンセルはしません。……貴方と一緒に、最後まで」


 私は迷いを完全に振り切るようにして、佐伯の机の上に置かれていた大きな右手の上に、自分の小さな手のひらをそっと確固たる意志を込めて重ね合わせた。

 私の指先から伝わる微かな体温を彼の皮膚がしっかりと受け止め、部屋の中の空気が一瞬で張り詰める。

 

 (もう迷わへん。どんなに辛い真実が待っていても、お父さんの書いた最高の一行として、私は全部を受け止めるって決めたんやから)

 

 自分の声が、書斎の壁にぶつかって力強く跳ね返るのを耳にしながら、私はまっすぐに前を向いて、彼の次の言葉を待った。


「よしっ、交渉成立やな。その言葉、二度と取り消したらあかんで」


 重ねられた私の手を見つめていた佐伯は、ふっと張り詰めていた肩の力を抜くと、いつものぶっきらぼうな関西弁の口調へと一瞬で戻した。

 まるでそれまでの厳しい鉄の仮面を脱ぎ捨てるかのように、彼の纏う空気が一気に親しみやすいものへと変貌していく。

 

 彼の手のひらがくるりと返り、私の手を下から包み込むようにして力強く一度だけ握りしめる。

 終筆士としての近寄りがたい厳しさはどこへやら、その顔にはいつもの、すべてを見透かしたような彼らしい不敵な笑みが浮かんでいた。

 その手のひらの圧倒的な大きさと力強さが、私がこれから歩む茨の道のりを、全力で肯定してくれているように思えてならなかった。


「山城さんがあんまりにも今にも泣き出しそうな顔しとるから、ちょっと脅しが強すぎたかもしれんわ。安心せぇ、あんたがどれだけ血の反吐を吐きそうになっても、俺が横でちゃんと支えたるからな」


 悪戯が成功した子供のような顔をしながらも、その言葉の裏には、決して私を一人にはさせないという男としての強い責任感が滲んでいた。

 

 彼のその言葉とともに、机の上の手紙の余白が、まるでこれから始まる私たちの歩みによって埋め尽くされていくかのような予感がした。

 暗闇に閉ざされていた家族の真実の物語が、ここから新しいページへと力強く捲られていくのを、私は肌で感じていた。

 

 ただのビジネスとしての依頼人と終筆士という二人の契約は、この瞬間に誰にも引き剥がすことのできない、運命という名の強固な絆へと変わっていった。

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