第34話 湊川公園の対峙、親子としての決別
「山城さん、ちょっと外の空気吸いに行こか」
あまりのショックに頭が真っ白になり、激しい過呼吸のなかで自らの喉元を掴む私を見かねたのだろう。
佐伯はそれ以上の追及を一度止め、私の肩をぽんと叩くと、重苦しい空気が淀む書斎から私を連れ出した。
JR兵庫駅の北側へ出ると、夜の街特有の生温い風が、私たちの間をすり抜けるようにして吹き抜けていく。
駅前のロータリーを横目に、私たちは北東へ向かって、暗い街灯が等間隔に並ぶ大通りを無言のまま並んで歩いた。
(お父さんとずっと暮らしてきたこの街の景色が、今はなんだか、全然違う知らない場所みたいに見える……)
街灯の光に照らされる佐伯の横顔はどこまでも厳かで、私の歩幅に合わせるように、時折ゆっくりとその長い足を前に進めていた。
新開地の交差点を越え、緩やかな坂道を上っていくにつれて、周囲の建物の明かりが少しずつ減り、目的地の闇が近づいてくる。
兵庫駅から歩いて十五分ほど、すっかり夜の帳が下りた湊川公園に到着した頃には、私の足元はおぼつかないほどに冷え切っていた。
公園の街灯の鈍いオレンジ色の光が、まばらに地面を斑に染めている。
昼間の喧騒が嘘のように引き引いた広大な敷地には、冷たい夜風が吹き抜け、私の火照った頬を容赦なく撫でて通り過ぎていく。
実家の書斎からここまで歩く間、ずっと胸の奥を激しくかき乱していた絶望感と寂寥感に、私は今にも押し潰されそうになっていた。
あの手紙に刻まれていた、咲子さんの死の間際の執念と、それによって完全に心を縛られてしまっていたお父さんのあまりにも哀しい真相。
ずっと私を慈しんで育ててくれたあの優しいお父さんの心は、本当は咲子さんという存在だけで満たされていて、私に向けられた言葉はすべて、その呪縛から逃れるための虚飾だったのではないかという疑念が頭を離れない。
「私は、あの人の娘やない……! あんな、最初から最後まで別の人のことしか頭になかった人の子供やなんて、私は信じひん……っ!」
私は自分の両腕をきつく抱きしめ、衣服の上から爪が食い込むほど強く皮膚をむしりながら、夜の闇に向かって拒絶の言葉を吐き捨てた。
家族としての思い出も、お父さんが私にくれた温かい言葉も、すべては未完の手紙の白紙の余白に消えていく、ただの幻影だったのではないかと胸が引き裂かれそうになる。
(お父さんが私に言うてくれた言葉も、全部嘘やったん? 私と過ごした時間は、あの人にとって何の意味もなかったんか……)
私の前に立ち塞がった佐伯は、乱れた息を整えることもせず、ただまっすぐに私を見据えていた。
彼の纏う独特な古いインクの匂いが、冷たい夜風に混じって私の鼻腔をかすめ、その圧倒的な存在感が私の取り乱した意識を強引に現実へと引き戻す。
「自分の血を否定したところで、事実の地層は一ミリも動かん。山城さん、あんたが今ここで逃げても、あの文字の重みからは一生逃れられんで」
佐伯の声には、慰めや憐れみといった生温い感情は一切含まれておらず、ただ現実を直視させるための重みだけがあった。
彼は私と距離を置いたまま、街灯の鈍い光の下で、自身の足元にある湿った黒い土の地面を厳かに指差した。
「そこに、指で一本の線をひけ」
佐伯の低く響く声は、まるであらかじめ決められていた絶対的な命令のように、夜の公園の静まり返った空気を切り裂いた。
あまりにも突飛で、そしてこの状況には不釣り合いな彼の言葉に、私は涙に濡れた睫毛を大きく揺らしながら、呆然と彼を見上げることしかできなかった。
「なんで、そんなことせなあかんの……っ! 今そんなこと、何の意味もないやん……っ!」
私は声を荒らげ、拒絶の意思を示すように一歩後ろへと足を踏み出したが、佐伯の身体は微動だにしなかった。
彼はただ、深い漆黒の闇を宿したような瞳で、私の視線を真っ正面から捕らえて離さない。
言葉を重ねて説得してくるわけでも、強引に腕を掴んでくるわけでもないのに、彼の身体から放たれる無言の圧力が、私の全身の自由を確実に奪っていく。
終筆士としての譲れない一線と、一切の妥協を許さないという強い意志が、その沈黙のなかに恐ろしいほどの密度で凝縮されているようだった。
(いやや、この人に逆らったらあかんって、身体が勝手に理解してもうてる……)
気圧された私は、まるで操り人形にでもなったかのように、ゆっくりと膝を折って夜露に濡れた冷たい地面へとしゃがみ込む。
泥の冷たさが膝を通じて伝わってくるなか、私は泥にまみれるのも厭わず、人差し指の腹を黒い土の表面へとそっと押し当てた。
佐伯の視線が私の指先に注がれるなか、私は自身の感情をぶつけるようにして、土の上に左から右へと、一本の長い直線を一気に引き絞った。
街灯の光の下、夜露で湿った土の表面に、深く、そして巡るような周期で細かく蛇行した線の軌跡が、くっきりと浮かび上がっている。
「じっと見てろ。今、あんたが引いたこの線の筆圧の揺らぎ、これが何よりの証拠や」
佐伯は私と同じ目線になるように腰を落とすると、土の溝をじっと見つめたまま、再び静かに口を開いた。
その声には先ほどまでの険しさはなく、どこか確信に満ちた奇妙な優しさが混じり始めている。
「この微細な波形はな、正蔵氏が遺した大量の筆跡データと完全に一致しとる。その中に一本だけ、あんたが生まれた日の日記に、驚くほど筆圧の優しい、それでいて手が震えるのを必死に堪えて書いたような文字の記録があった。終筆士の目は誤魔化せんで」
彼の言葉の一つ一つが、私の凍りついた心の表面を激しく叩き割り、奥底に眠っていたお父さんの温かい手の記憶を呼び覚ましていく。
(お父さんが……私を抱きしめてくれた時、あの手のぬくもり……あれは咲子さんとは関係ない、私だけのものやったん……?)
「血がどうあれ、あんたが生まれてきた背景にどんな歪みがあろうが関係ない。あんたの魂という存在は、あの山城正蔵という男が人生を賭けて書き残した、最高の一行や。それだけは絶対に否定させん」
佐伯の有無を言わせぬ、あまりにも強引で、それでいて絶対的な肯定の言葉が、私の胸の奥に突き刺さった。
それは、お父さんの愛を疑い、迷子になっていた私の存在を、世界のすべての理不尽から守り抜くための、揺るぎない楔のようだった。
その瞬間、限界まで張り詰めていた私の心の糸が、音を立ててぷつりと切れてしまった。
「う、あ……っ、お父さん……っ!」
私は堪えきれずに決壊した涙とともに、目の前にあった佐伯の分厚い胸の中に顔を埋め、子供のように声を上げて激しく泣き崩れてしまった。
佐伯は私を突き放すことも、優しく抱きしめることもしなかったが、ただその場に大きな壁のように佇み、私の涙が枯れ果てるまで、その強固な胸を貸し続けてくれた。
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