第33話 咲子からの返信
JR神戸線の兵庫駅からほど近い、お父さんと二人でずっと暮らしてきた古い二階建ての私の家。その二階にある、昼間でもどこか薄暗い、湿った空気の溜まる書斎には、窓の外から夕暮れの紫色の闇が、じわじわと波のように忍び寄ってきていた。
西の空の低い位置に残された、燃えかすのような茜色の残光が、長年磨かれていない大きな窓ガラスを斜めに突き抜けて、床に敷かれた古い絨毯の上に細長い歪んだ四角い影を落としている。
そのうらぶれた光は、まるで過ぎ去った哀しい時間の終わりを告げる最後の灯火のようで、部屋の四隅を物悲しいセピア色へと容赦なく染め上げていた。
「山城さん、正蔵氏の残した歪みを正すには、もう一度この実家をすべて調べ直す必要がある」
昼下がりのまだ明るい時間帯に、低い声でそう私に告げた佐伯の鋭い提案から始まった、この思い出深い我が家の徹底的な捜索は、数時間を経てようやく一つの結末を迎えようとしていた。
(お父さんの残した持ち物は、あの葬儀のあとに全部私の手で処分したつもりだったのに、まだこんな死角に見落としがあったなんて……)
使い込まれてあちこちの塗装が剥げかけた、古い机の上にバラバラと広げられたのは、長い年月の間、誰の目にも触れずに暗闇の中で眠り続けていた咲子さんの遺品の数々だった。
引き出しの最奥の素人目には決して分からない巧妙な二重底から見つかった小さな桐箱を開けた瞬間、まるで閉じ込められていた過去の時間そのものが部屋の中に一気に溢れ出してきたかのような錯覚に陥る。
(これだけの長い間、誰も触れなかった箱の中身を、部外者である佐伯さんと一緒に、私が本当に暴いてしまってええんかな……)
指先を煤で汚しながら取り出した古びた桐箱の、その一番底にへばりつくようにして残されていたのが、私の父・正蔵へ宛てた、彼女の人生の最後の手紙である。
指先でそっと触れるだけでもパラパラと粉を吹いて崩れてしまいそうなほど、その紙の端は極限まで脆く、乾いた質感を立てている。
経年劣化で全体がセピア色にすっかり変色してしまった薄い便箋の上には、驚くほど背筋の伸びた、気高く気品に満ちた美しい筆跡が几帳面に並んでいた。
一画一画がミリ単位の狂いもなく正確に配置され、まるで定規を使って引かれたかのような、迷いのない完璧な線の連続。
今にも命の灯火が消えそうだった人間が、死の間際に必死にペンを握って書いたとは到底信じられないほど、その文字の並びは完璧に均整が取れている。
それは、書くという行為そのものに自身の残された全存在を賭けて、一滴の妥協すらも許さずにペン先を走らせた人間の凄まじい精神力を物語っていた。
(これ、本当にお母さんが……ううん、咲子さんが最期に残したメッセージなんかな? まるできれいに印刷された文字みたいで、なんだか少し怖いわ……)
私は緊張のあまりごくりと熱い生唾を飲み込み、ドタバタと騒ぎ立てる胸の動悸を両手で必死に押さえつけながら、そこに刻まれた文字を恐る恐る目で追っていった。
手紙の文面が核心へと進むにつれて、私の指先はまるで氷水をかけられたかのように冷たく強張っていった。
全身の血液が急激に足元へと引いていくような感覚を覚え、目の前の視界がチカチカと白く明滅し始める。
そこに書き連ねられていたのは、目を背けたくなるほどあまりにも過酷で、救いの余地がどこにも残されていない”真実”の形である。
それは、これまで私が信じて疑わなかった優しい世界の土台を、容赦なく根底からひっくり返してしまうほどの破壊力を持っていた。
私の父が、どうして長年もの間、自分の手紙を未完のまま引き出しの奥に放り出していたのか、その本当の理由がそこにあった。
心に負ったあまりにも深すぎる傷跡が、ペンを握るたびに甦り、彼の右手のすべての自由を奪い去っていたのだ。
咲子さんが父への返信の最後の一行を紡ごうと、まさにペン先に力を込めたその決定的な瞬間に、彼女の最後の命の火が完全に消え果てていたのだ。
ただ文字を書くというその一連の動作そのものが、彼女の残されたわずかな寿命をガリガリと削り取っていた。
心臓が最後の鼓動を打つその瞬間まで、彼女の脳裏にあったのは、残される父の人生を自らの文字で支配しようとする、底知れない執念にもみえる。
そうして、容赦のない死の瞬間が、彼女の持っていたペンを強制的に、暴力的な力でストップさせた。
インクを吸ったペン先が、主を失った瞬間に紙の上で動かなくなり、暗い染みを作っていく光景が、まるで目の前で起きているかのように鮮明に浮かび上がる。
父はその絶対的な終わりの瞬間を、文字が不自然に途切れたその痕跡によって、心に消えない傷として直接突きつけられていたのだろう。
愛する人が目の前で物言わぬ肉塊へと変わったその瞬間、彼が味わった絶望の深さは、どれほどのものだったのだろう。
(お父さんは、この文字が途切れた白紙の余白に、永遠に続く絶望の深淵を見てたんや……)
「山城さん、ここや。この、異様なほど綺麗に並んだ文字の最期の部分を見てみぃ」
いつの間にか私の真後ろに音もなく立っていた佐伯の低く張り詰めた声が私の耳のすぐ裏側に届く。
彼の纏う独特な古いインクの匂いが鼻腔をかすめ、その存在感の大きさに、私の張り詰めていた肩のラインがわずかに跳ね上がる。
彼は長い指先を伸ばし、手紙の最末尾で、突然不自然に右下へと滑って引きちぎれるように終わっているインクの跡を指差してきた。
その指先はわずかにつややかな便箋の表面から浮いており、まるで死者の遺した無念の残滓に直接触れることを躊躇っているかのようだった。
「息が引き取られるその直前まで、これほどまでに美しく正確な運筆のスピードを保っとる。保存状態がええのもあるけど、これはな、並大抵の根性や執念で書けるもんやないで」
佐伯は一度言葉を区切ると、机の上の資料を整理するフリをして、私の顔を横から覗き込んできた。
彼の瞳の奥には、いつも私に向けるからかいの光ではなく、底知れない闇を見据える終筆士としての深い覚悟が宿っている。
夕闇が深まる部屋の中で、彼の輪郭だけが、窓からの残光を受けて際立っている。
彼の真面目な眼差しに気圧されながらも、私はその指先から目が離せない。
「正蔵氏の心を、自分の死後も永遠にガチガチに縛り続けようとする、あまりにも強烈な愛の意思の表れや」
佐伯の言葉が、夕闇の濃くなった部屋の空気の中に、重たい石を投げ込むようにして深く沈み込んでいく。
その言葉の響きは、冷たい現実となって私の耳の奥に残り続け、心臓の拍動をさらに狂わせていった。
咲子さんの遺したあまりに美しい文字の羅列。それは美しく綺麗に飾り立てられた、父への永遠の呪いのメッセージに他ならなかった。
どのような言葉を並べるよりも、その未完の終わり方こそが、父の精神を終身刑のように一生拘束し続ける檻となったのだ。
私を置いていかないで。
死んでも私のことを忘れないで。
そんな、血を吐くような強すぎる愛。
その愛の激しさは、もはや美徳などではなく、相手の人生のすべてを巻き込んで道連れにするための、恐ろしい精神的凶器へと変貌を遂げていた。
それが、最後の掠れて歪んでしまった一画にまでこれでもかと限界まで濃縮されて、便箋の紙の繊維の奥深くに染み付いている。
あまりにも深すぎる愛が、歪んで恐ろしい呪縛へと変質してしまったその事実の重さに、私は完全に言葉を失ってしまった。
(愛されるのって、こんなに息が詰まるほど苦しいことやったの……? まるでお父さんは、この紙切れ一枚に一生の自由を奪われちゃったみたいやんか)
胸を締め付ける強烈な息苦しさに耐えかねて、私は自らの喉元を右手で強く掴み、必死に酸素を求めて浅い呼吸を繰り返した。
私はただただ、目の前の赤黒い夕日に照らされた美しい文字を、呆然と見つめることしかできなかった。
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