第32話 未投函の手紙と
あの日、古い机の上を我が物顔で占領していた少女漫画の新刊たちは、今ではすっかり本棚の定位置に収まっている。
毎週のようにネット予約で届く色鮮やかな帯を綺麗に整え、背表紙のナンバリングを揃えて並べる作業も、私の日常にすっかり組み込まれていた。
少しでも油断をするとすぐに埃が堆積してしまうこの空間を、私自身の手できれいにしていく行為。
それは過酷な真実の連鎖から私の心を防衛するための、静かな儀式のようなものだった。
雑巾をバケツの水で何度もすすぎ、冷たくなった指先を丸めながら、私は部屋の隅にある古い木製の収納棚へと視線を向けた。
棚の最上段、普段は佐伯の背丈でなければ届かないような奥まった場所に、見慣れない長方形の木箱が押し込まれているのが目に入る。
(あんなところに、あんな箱あったっけ……)
私は近くにあった丸椅子を引き寄せ、きしむ音を立てるその上に乗って慎重に手を伸ばした。
つま先立ちになりながら指先が捉えた木箱は、見た目以上にずっしりとした重みがあり、表面には漆が剥げかけたような古びた光沢がある。
引き抜いた拍子にバランスを崩しそうになり、私は慌てて床に着地した。
その衝撃で、経年劣化によって留め金が緩んでいた木箱の蓋が、小さな音を立ててパカリと開いてしまう。
中から溢れ出た大量の封筒に、私の視線は完全に釘付けになった。
それは、どれも丁寧な文字で宛名が書かれているものの、切手は貼られておらず、郵便局の消印も押されていない。
上質な和紙の封筒に、端正でありながらもどこか張り詰めた、見覚えのある筆跡が整然と並んでいる。
佐伯誠一郎、佐伯和子。
それが、この屋敷の主の亡き両親の名前であることは、これまでの調査の中で嫌というほど目にしてきた。
(これ、全部、佐伯さんが書いた手紙なんや……)
出されることのなかった言葉の山を前にして、私ははたきを持ったまま立ち尽くすことしかできなかった。
「あ……ごめんなさい、落としそうになって――」
思わず声をあげた私の背後に、気配が静かに忍び寄る。
いつの間にか座椅子から立ち上がった佐伯が、前髪の隙間から剥き出しの瞳でその光景を見下ろしていた。
彼はゆっくりとした足取りで歩み寄ると、床に散らばった封筒の一つを、長い指先で静かに拾い上げる。
いつもなら『終筆士の美学』や『少女漫画の構図論』を捲し立てるはずの彼が、今は猫背を一層丸めていた。
まるで自分の胸の奥に隠された深い傷口を自ら眺めるような、歪んだ笑みを唇の端に浮かべている。
「勝手に見るなとは言わんよ。山城さんがこの部屋の埃を払ってくれとる結果やからな」
佐伯の声は、いつになく低く、そしてどこか突き放すような響きを帯びていた。
手にした和紙のざらついた質感を確かめるように、彼は親指の腹でゆっくりと表面をなぞる。
その視線は遥か遠くの、二度と戻ることの叶わない時間を彷徨っているかのようだった。
「ごめんなさい。でも、これ……全部切手が貼ってありません。出すのを忘れていたんですか?」
私は散らばった封筒を慌てて拾い集めながら、少しでも空気を和らげようと問いかけた。
そやけど、佐伯は拾い上げた一通を見つめたまま、首を小さく横に振るだけだった。
「忘れたんやない。出せへんかったんや。出す意味が、最初からどこにも存在せんかったからな」
「意味がないって、どういうことですか。宛先は、佐伯さんのご両親ですよね? 伝えたいことがあったから、これだけの数を書いたんじゃないんですか」
「伝えたいこと、な。そんな大層なもんやない。それはな、俺がまだこの仕事を始めたばかりの頃に、嫌というほど繰り返した『実戦』の残骸や」
「実戦……ですか?」
私は胸の奥が締め付けられるような予感を覚えながら、手の中の木箱を強く抱きしめた。
佐伯は長い指先で封筒の端をなぞり、視線を落としたまま言葉を続ける。
その声のトーンが一段と下がり、部屋の空気がわずかに張り詰める。
「そうや。実戦や。俺も自分の親を鑑定したんや。死んだ親父とお袋が遺したあらゆる文字を、ルーペが擦り切れるほど見つめ倒した。筆圧の強弱、ハネの角度、文字の間隔……その全てをな」
「どうして、そんなことを……。自分のご両親の筆跡を鑑定するなんて、そんなの、わざわざする必要なんてないじゃない」
私の問いかけに、佐伯は前髪の奥の瞳を僅かに歪め、乾いた声を漏らした。
「せなあかんかったんや。他人の文字の嘘を暴く前に、まずは自分の根源を証明せなあかん。そう思ったんや。そやけどな、そこで知ってしもたんや。自分が『望まれて生まれたわけではない』いうことを、その筆跡から残酷なまでに読み解いてしもた」
「読み解いたって……そんなの、佐伯さんの思い込みかもしれないですよね? 文字だけで、そんな大切なことが分かるわけ――」
「分かるんや、山城さん。俺を騙せる文字はこの世に存在せん。文字は嘘をつかんからな。俺への愛を綴ったはずの遺言の線には、隠しきれん義務感と、拭えん嫌悪の歪みが刻まれてたわ」
「嫌悪だなんて、そんな悲しいこと言わないでください。親が子どもを想う気持ちが、全部嘘だったなんて、そんなことあるはずが」
「事実や。どれだけ綺麗ごとで塗り固めても、インクの吸い込み具合が真実を証明しとる。あの二人の筆圧の逃げ方は、明らかに俺という存在を拒絶しとった。俺という存在は、あの二人にとって予定外でしかなかったんやろな」
淡々と、しかし決定的な絶望を孕んだその言葉が、薄暗い部屋の空気を凍りつかせる。
他人の文字に隠されたあらゆる感情を暴いてきた男が、その相手を突き放す技術の刃で、自分自身の心を最も深く切り裂いていた。
私を救ってくれたあの力強い終筆士の背中が、今は驚くほど小さく、孤独な影に包まれている。
その痛々しい姿に、私の胸は引き裂かれるように痛んだ。
「だから、その箱の手紙は……」
「その通りや。鑑定結果を突きつけることもできず、ただ自分の答え合わせのために、何度も何度も宛名だけを書き殴った未練の塊や。滑稽やろ」
佐伯は自嘲気味に吐き捨て、手元の封筒をポイと机に放り出した。
その闇の深さに触れた瞬間、私の思考よりも先に、身体が動いていた。
私は抱えていた木箱を床に置き、気付けば佐伯の服の袖を、両手でぎゅっと握りしめていた。
「佐伯さん……っ」
「山城さん?」
衣服の生地越しに伝わる彼の体温は、秋風のせいか、ひどく冷たく感じられた。
佐伯は驚いたようにわずかに目を見開き、それから視線を落として、私の指先を見つめる。
「滑稽なんかじゃありません。佐伯さんがどれだけ傷ついてきたか、私には想像もできひんけど……でも、今の佐伯さんは、ここにちゃんといます」
「そんなもん、ただの肉体の残存や。文字の裏にある真実からすれば、俺は……」
「違います! 私は、佐伯さんの言葉に救われたんです。佐伯さんが私の文字を見て、魂を肯定してくれたから、私は今、ここに立っていられるんですよ」
言葉なんて見つからなかったし、私が何を言ったところで彼の過去が書き換わるわけではない。
だけど、この手を離してしまえば、彼は本当に文字の底の暗闇に沈んでいってしまうような、そんな気がしてならなかった。
私の眼鏡の奥で、じわりと熱いものが込み上げてくるのを必死に堪えながら、私はただ、彼の袖を強く、強く握り締め続けた。
佐伯はそれ以上言葉を返さず、ただ静かに、私の手の平から伝わる熱を受け止めているようだった。
窓の外では、夕暮れの気配を帯びた秋の風が、大倉山の街路樹を小さく揺らしながら、通り過ぎていった。
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