第31話 真夏から初秋へ
網戸の細かな格子の向こうで、大倉山の木々がわずかにその色彩を落とし始めていた。
ほんの数週間前までは、肌をじりじりとしつこく灼くような凶悪な陽光が容赦なく降り注いでいたというのに、吹き抜けていく風はいつの間にか、確実に尖った冷たさを孕んでいる。
真夏の明石海峡を渡り、淡路島の酷な潮風に晒されたあの過酷な日々が、まるで遠い幻であったかのように、季節は移り変わろうとしていた。
手にした雑巾で、年季の入った古い机を何度も往復するようにして拭う。
いくら拭っても、この部屋の主がどこからか引きずり出してくる紙のせいで、すぐに微細な粉が積もってしまうのだ。
春奈は、少しだけずり落ちてきた眼鏡のブリッジを人差し指でクイと押し上げ、小さく息を吐き出しながら、指先に残る乾いた埃の感触を確かめた。
それから、目の前に広がる部屋のあまりの惨状に視線を走らせる。
「あの、佐伯さん。私がせっかく片付けたそばから、なんでそうやって新しい漫画ばかり山積みにするんですか? 少しは足の踏み場というものを考えてください」
床に直接ひざをつき、散らばったルーペやピンセットをトレイにまとめながら、春奈は眉をひそめて声を尖らせた。
以前の私なら、この気難しくて何を考えているか分からない男に対して、こんな風に文句を言うことなんて絶対にできなかったはずだ。
どこか遠い存在のように思えていたし、自分の境界線の中に踏み込むことすら怖くて仕方がなかった。
しかし、淡路島から戻ってきて以来、私の中で何かが確実に変化していた。
あまりにも過酷な真実を突きつけられ、自分の出生の糸がぷつりと切れて、足元が崩れ落ちそうになったあの夏の日々。
その嵐のような時間のなかで、この男だけは、一切の綺麗ごとを排した剥き出しの言葉で、私の存在を支え続けてくれたのだ。
あの真実の衝撃で立ち上がれなくなっていた私を救ってくれたお礼として、せめてこの荒れ果てた屋敷を少しでも人間らしく住める場所にしようと、私は自ら進んで掃除の役目を買って出たのだった。
(……そやけど、この部屋の散らかり具合を許してええ理由にはならへんのやけどな)
心の中で小さく毒づきながら、春奈は本棚の歪みを直すためにぐっと力を込めた。
「漫画の海に溺れて死ねるなら本望や。それに、これでも配置には一応の法則性があるんや。山城さんが親切心で並び替えると、俺の脳内インデックスと摩擦を起こしてまう」
部屋の奥、座椅子に深く腰を沈めた佐伯が、まるくなった背中をさらに丸めながら、手元の最新刊のページから目を離さずに呟いた。
彼の長い前髪が、手元を照らすデスクライトの黄色い光を遮して、その素顔に不規則な影を落としている。
お世辞にも健康的とは言えない姿勢のまま、彼はただ、コマ割りの美しさやキャラクターの感情の線だけを追い続けている。
出会ったばかりの頃の、こちらの心を容赦なく抉ってくるような刺々しさは幾分か和らいだものの、ぶっきらぼうな口調とその偏屈な生態は相変わらずだ。
その世俗から切り離された横顔を見つめながら、春奈は、彼が普段どれほど重い過去を背負って生きているかを思い出す。
(この人は、ずっとこうして一人で、インクと紙の匂いのなかに閉じこもってきたんやろな)
胸の奥が、ちりちりと微かに痛む。
彼の不器用さも、ぶっきらぼうな態度も、すべては傷だらけの心を防衛するための鎧のようなものなのかもしれない。
「何が脳内インデックスよ! これ、全部今週出たばかりの新刊ですよね。ネットで予約してまで一気に買い込むとか、どこの熱狂的なファンなんですか。これなんか、まだシュリンクすら破っていませんよ」
春奈は床に積まれた単行本のタワーを指差し、不満そうな声を隠そうともしなかった。
表紙には華やかなドレスをまとった少女と、制服姿の男子が描かれており、この薄暗い屋敷の空気からは完全に浮いている。
佐伯はそこでようやく顔を上げ、前髪の隙間から覗く剥き出しの瞳をわずかに動かして、口を尖らせた。
「買い逃したら重版まで待たなあかんやろ。少女漫画の初版は貴重なんや。それに、この作品の作者は線の引き方に迷いがない。真実を追求する俺にとって、これ以上の精神安定剤は他にないねん」
「はいはい、名探偵さんのメンタルケアのお役立ちアイテムってわけですね。でも、読むならちゃんと本棚に収めてからにしてください。このままだと、私が足を引っかけて転びます」
春奈が呆れたようにそう告げた瞬間、佐伯はそれまで寝そべるようだった猫背をびくりと跳ね上げ、手元の本を机に叩きつけるようにして身を乗り出してきた。
「誰が名探偵や! 俺は『終筆士』や! あんな、事件が起きてから首を突っ込んでドヤ顔するような人種と一緒にせんといて。俺は文字の最期を看取り、真実の幕を引きにいく人間やねんから」
「ちょっと、急に大声を出さないでください……。終筆士でも何でもいいですけど、やっていることは大体同じじゃないですか。細かい証拠を集めて、最後に相手を言い負かすんですから」
「全然違うわ! 探偵は謎を解くだけやろ。俺は文字の裏に隠された怨念やら覚悟やら、その人間が人生をかけて絞り出したインクの重みを鑑定しとるんや。一緒にするんは、俺の美学に対する侮辱やで!」
「はいはい、分かりましたから。そんな真剣な顔して少女漫画の最新刊を抱きしめながら熱弁されても、全然説得力ありませんよ」
「これは資料や。少女漫画のセリフの配置やフォントの選択には、現代人の心理が凝縮されとる。終筆士たるもの常に時代の文字に触れておかねばならんのや」
フンッと鼻を鳴らしながら続けて言う。
「転んだら、漫画の主人公みたいに俺が受け止めるシチュエーションが発生するかもしれんやろ。二割の確率で、そのまま大惨事になるやろうけど」
「そんな少女漫画みたいな展開、絶対に起こりませんから安心してください。佐伯さんの猫背じゃ、私の体重を支えきれずに一緒に床に激突するのがオチです」
春奈も同じようにフンと鼻を鳴らし、ずり落ちそうになる眼鏡のフレームをもう一度指先で直しながら、散らばった帯を丁寧に畳んでゴミ箱へと放り込んだ。
言い合いをしているはずなのに、不思議と心地よいリズムが二人の間に流れている。
外の世界には、父の隠された罪や、私の出生にまつわるドロドロとした疑惑が渦巻いている。
そこから逃れて、ただ目の前の埃を払い、目の前の男に文句を言っている時間だけが、私を現実に繋ぎ止める確かな防壁になっている。
春奈は立ち上がり、台所へと向かう。湯沸かし器が低い音を立てて、白い湯気を立ち上らせる。
棚から取り出したのは、ごく普通の陶器の湯呑みだ。
この屋敷に来たばかりの頃は、どの茶葉をどれくらいの温度で淹れればいいのか分からず、彼の顔色を伺ってばかりだった。
しかし今では、彼がどのタイミングで喉を鳴らし、どの程度の濃さを好むのか、身体が自然と覚えている。
「あの、佐伯さん。お茶を淹れますけど、熱めがいいですか? それとも、ちょっと冷ました方がいいですか?」
台所から少し声を張り上げて尋ねると、奥の部屋から「猫舌に配慮してくれると助かるわ」と、気の抜けた返事が返ってきた。
茶葉がゆっくりと開いていく様子をじっと見つめながら、お湯を注ぐ。
(私、すっかりこのひねくれ者のペースに巻き込まれてるなぁ……)
少しだけ悔しいような、そやけど不思議と悪くない、そんな温かな感情が胸の隙間を満たしていく。
「お茶を置いておきますね。冷めないうちに飲んでください。それから、これが終わったらちゃんと休憩をとること。約束ですよ?」
トレイに乗せた湯呑みを、佐伯の手元から少し離れた、絶対に新刊が濡れない安全な位置へと滑らせる。
少しだけ押し付けるような所作に、春奈の小さな反抗が滲んでいた。
佐伯は、視線だけをわずかに動かして湯呑みを見つめ、それから小さく鼻を鳴らした。
「……配慮に感謝するわ。山城さんの淹れるお茶、俺の思考のノイズを適度に適当に薄めてくれるから助かる。これがないと、どうにも少女漫画の考察が捗らへん」
「そこは仕事の考察って言いなさいよ。まあ、役に立っているなら何よりやけど」
そう言って、彼は猫背を少しだけ伸ばして湯呑みに手を伸ばした。
立ち上る湯気の向こうで、彼の張り詰めていた肩の線が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
春奈はその様子を確認すると、満足したように頷き、再び雑巾を手に取って、次の区画の掃除へと取りかかった。
窓の外では、夕暮れの気配を帯びた秋の風が、大倉山の街路樹を小さく揺らしながら、通り過ぎていった。
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