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<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第二幕 堆積する記憶と神戸の深淵編

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第30話 少女漫画の結末予測(バッドエンド)

 明石海峡の夜。復路の連絡船は、光を一切拒絶する漆黒の海原を進んでいる。

 船底からは、不穏な地鳴りのような重低音が絶え間なく轟いている。

 昼間の皮膚を焼き焦がすような熱気を吸い尽くした淡路島の巨大な影が、白く泡立つ船尾の彼方へとじわじわと遠ざかっていく。

 

 むき出しのデッキには、湿った生温かい夜風が猛烈な勢いで吹き荒れていた。

 鉄塊のような船体がうねる波頭を鋭利に切り裂いて進む。

 そのたびに白く激しく砕け散った飛沫が、暗闇の底で一瞬だけぎらぎらと禍々しく光っては、次の瞬間には吸い込まれるようにして重苦しい水底へと消えていった。


 春奈は長年の過酷な潮風によって赤錆びついた鉄製の手すりを、指関節の皮膚が完全に白く強張って血の気が失せるほどに、狂おしい力で強く固く握りしめていた。

 冷たい塩分を大量に含んだ夜の潮風に、容赦なく髪を顔中に乱される。

 もはや闇の彼方に没して完全に見失われつつある島の輪郭を、彼女はただ取り憑かれたように凝視していた。

 

 あの薄暗い役所の資料室の冷えた空気の中で、そしてあのトタン壁がガタガタと頼りなく鳴り響く平屋の砂地で容赦なく突きつけられた、父親が犯したというあまりにも残酷な公文書偽造の取り返しのつかない足跡。

 

 それが未だに彼女の頭の芯を、脳髄を強烈に締め付けるような激しい目眩とともに何度も何度も揺さぶり続けている。

 

 文字の血縁を強引に引きちぎるような掠れたインクの重なりが網膜の裏側にべっとりと焼き付いて離れない。

 あれが確かに一人の女性を救った一方で、別の家族の人生を容赦なく奪い去っていたという非情な事実が、彼女の華奢な身体を内側からじわじわと圧し潰していくかのようだった。


 佐伯は彼女のすぐ隣、一歩も離れていない境界に音もなくただ静かに立ち尽くしていた。

 彼女と同じように底の知れない暗い海へと、微動だにせず視線を落としていた。

 その端正でありながらもどこか人間味を欠いた高い背中。

 夜光に薄く照らされた無機質な横顔は、周囲を完全に支配する夜の帳の中に完全に溶け込んで同化していた。

 彼が今この瞬間に胸の奥底で何を思考しているのか、その表情の機微を周囲から読み取ることは到底不可能だった。


「少女漫画にも、救われないエンドはある」


 佐伯の薄い唇の隙間からポツリと、何の前触れもなく漏れ出た低く乾いた声。

 それは船の心臓部から絶え間なく響いてくるエンジンの重低音と、鼓膜を激しく叩き続ける風の鳴る音にかき消されそうなほどにひどく静かだった。

 だからこそ、耳朶に触れた瞬間に背筋が凍りつくほど不気味な明瞭さを伴って響いた。


 春奈はまるで鋭利なガラスの破片で背中を直に突かれたかのように、弾かれたような不自然な動作で、隣に佇む男の冷たい横顔を凝視した。

 

 夜風に揺れる彼の髪の隙間から覗く横顔には、感傷の欠片も見当たらない。

 しかし佐伯は、彼女の眼窩に溜まった動揺と恐怖に満ちた視線を一切受け止めようとはしなかった。

 ただどこまでも重苦しく平坦に広がる漆黒の水面を、その切れ長の瞳の奥でじっと見つめ直す。


「世の中、ハッピーエンドばかりが都合よく用意された物語やない。主人公がそれまでの人生で信じ、愛してきた大切な基盤をすべて奪われ、何一つ救いのない剥き出しの荒野にただ一人生きていかなければならんような、そんな残酷極まりない終わり方をする話も、現実には確かに存在するんや」


 佐伯が淡々と、何らの感情も交えずに紡ぐその言葉の連なりは、今の春奈の脆くひび割れた心臓を、一切の容赦なく深く抉り出す。

 

 それほどの鋭利さと冷たさを明確に孕んでいた。

 自分がこれまでの二十数年の生涯において最も愛した実の父親。

 だが、その裏では全く無関係な他人の家族の平穏な人生を根底から徹底的に破壊し尽くした凄惨な加害者であったという、あまりにも非情で重すぎる現実。

 

 山城正蔵の娘としての確固たるアイデンティティと足場を、一瞬にして完膚なきまでに失ってしまった。

 今の彼女の立ち位置は、まさにその佐伯が口にした、すべてを失って極寒の地に放り出された主人公そのものの悲惨な境遇に他ならなかった。

 そのあまりの落差に、彼女はただ息を詰まらせる。


 流れるべき涙は、淡路島のあの乾いた砂地を踏み締めた時すでに枯れ果てていた。

 その代わりに胸の奥の最も深い場所には、冷えて固まった黒い鉛を容赦なく流し込まれたかのような、形容しがたい重苦しい鈍痛がどす黒く澱のように居座り続けている。

 

 息苦しい酸欠を誘発するような狭い胸の檻。

 その中で、必死に酸素を求めて荒い呼吸を繰り返す。

 そのたびに冷え切った夜の空気が剥き出しの肺の粘膜をちくちくと細かく刺し、彼女の体力を内側から確実に奪い去っていった。


「山城さん。終筆士への依頼というのは、いつでも、どの段階であっても途中で引き返せるもんや」


 佐伯はジャケットのポケットから大きな手をゆっくりと引き出し、海風に猛烈に煽られる前髪を無造作にかき上げた。

 彼のその動作に伴ってポケットの端が僅かに広がる。

 そこからは相変わらず、この重苦しい夜の空気にはおよそ不釣り合いな、あのきらきらとした少女漫画のピンク色の表紙が不格好に覗いている。


「規約通り、二割のキャンセル料を払いさえすれば、あんたが今その手に重く背負い込んでいる古い手帳も、父親が遺した隠し通帳の痕跡も、全部この夜の海に投げ捨てて、最初からなかったことにできるで」


 佐伯の声音には、先ほどまで加納の憎悪を冷酷に受け流していたような徹底的な拒絶はない。

 かといって傷ついた少女に同情を寄せるような温かみも一切ない。

 ただただ冷淡に目の前の選択肢を均等に並べるだけの、不気味なまでの平坦さが漂っているだけだ。

 目の前に果てしなく広がる底無しの闇へ、すべての真実を投げ捨ててしまいたいという切実な逃避の誘惑。

 

 それは、目の前の絶望から一瞬で目を背けることのできる、今の春奈にとってあまりにも甘美で、抗いがたいほどに強烈な救いのように思えた。

 このまま父親の罪を闇の底へと葬り去り、何食わぬ顔で神戸の馴染み深い街へと戻る。

 何も知らなかった頃の無垢な自分を必死に演じ直すことができれば、これ以上の底知れない地獄を見ずに済むのかもしれないという卑怯な思考が、脳裏を甘くかすめていく。

 

 限界まで握りしめた手すりの、錆びた鉄の拒絶するような冷たさ。

 それが、彼女の心の中で激しく揺れ動く迷いを具現化するように、手のひらの皮膚を通じて脳髄へとじんわりと伝わってくる。


「……でもな、一度めくって開けてしまった頁は、人間の手でどれだけお色直しをしようとしても、二度と元の真っ白な紙には戻らん」


 佐伯の長い指先が、船の不規則な揺れに合わせるようにして、鉄製の手すりをパチンと軽い音を立てて叩いた。

 その乾いた拒絶の音は、夜の海の騒音の中に一瞬で吸い込まれて消えていく。


「たとえ証拠をすべて捨て去ったとしても、あんたの頭の芯にこびりついたその残酷な文字の記録は、一生消えへんのや」


 佐伯はゆっくりと視線を海から春奈の側へと移した。

 底知れない瞳で、彼女の胸の内で暴れる葛藤のすべてを見透かすように、真っ直ぐにその瞳を射抜いてくる。

 

 夜風が一段と激しさを増して二人の狭い隙間を猛烈に吹き抜ける。

 それと同調するように、連絡船が波に煽られて大きく左右に傾いた。

 春奈の心は、二割という痛みを払ってでも今すぐこの重圧から楽になりたいという卑屈な逃避の願いに囚われ始めた。

 

 その一方で、それでも父親がこの世に刻みつけてしまった罪の文字の行く末を、血を流しながらでも最後まで見届けなければならないという、逃れられない義務感があった。

 二つの感情の間で、彼女の心は千々に乱れ、今にも身の内側からバラバラに引き裂かれそうになっていた。


(ああ、私はこれからどうしたらええんやろ……。お父さんの犯した消えない罪の重さを知ってしまったままで、これから先の人生を歩んでいくなんて、そんなの、本当に救いのないバッドエンドそのものやないの……)


 誰にも打ち明けることのできない、心の中で狂おしく渦巻く絶望の独白。

 それは彼女の口から言葉となって漏れ出ることはなかった。

 ただ船尾が描き出す白くぎらぎらと光る不毛な夜の波飛沫の中へと、深く深く吸い込まれていく。

 

 激しい波の音と重苦しいエンジンの駆動音だけが、彼女が進むべき正解の道を永遠に惑わせようとする。

 夜の海の中心で、二人の間にいつまでも大きく冷たく鳴り響いていた。

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