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<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第二幕 堆積する記憶と神戸の深淵編

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第29話 身代わりの文字の末路

 加納の剥き出しの憎悪が、真夏のぬるい潮風を巻き込みながら、佐伯の正面へと真っ直ぐぶつかってきていた。

 二人の背後では、春奈が必死に荒い呼吸を堪えようとしている気配が、衣擦れの音とともに生々しく伝わってくる。彼女は足元の砂地を見つめたまま、今にも崩れ落ちそうな身体をかろうじて支えている状態だった。この容赦のない日差しの下で、父親の犯した罪の重さに一人で耐えられるはずがない。しかし、ここで事実を曖昧にすることは、終筆士としての佐伯の仕事ではなかった。


 佐伯は視線を加納から逸らすことなく、上着のポケットから一冊の古い手帳を引き抜いた。その表紙は長年の使用で角が擦り切れ、黒い革の表面が陽の光を浴びて鈍くぎらついている。指先で手早くページをめくると、そこには山城の自宅で見つかったあの巨額の通帳の入出金記録と、先ほど役所の資料室で確かめた古い謄本の文字が、冷淡な事実の羅列としてびっしりと並んでいた。


「加納さん。あんたの言う通り、山城正蔵は確かに文字を使って一人の女の存在をこの世から消し去った。戸籍を改ざんし、世間を騙し、完璧な死人を仕立て上げた」


 佐伯は手帳のページを親指で強く押さえつけ、その白い紙面を加納の目の前へと突きつけた。男の血走った目が、びっしりと書き込まれたインクの跡を捉えて僅かに泳ぐ。


「そやけどな、その目的は咲子さんを苦しめるためやない。逆や」


 潮風が手帳の端を激しくめくろうとするのを、佐伯は無造作な手の動きで押さえ込む。加納の顔に、驚きとそれを打ち消そうとする強い拒絶が交互に浮かんだ。


「あの人は、当時の政治的事件の泥沼に巻き込まれ、すべてを失いかけていた咲子さんを世間の追及から完全に隠蔽し、逃がすためにあの極精巧な公文書偽造を行ったんや。文字の力を使って、彼女の命を無理やり繋ぎ止めたんや」


 佐伯の声は、湿った重い空気を切り裂くようにして、初老の男の頑なな胸へと突き刺さる。

 加納は一瞬、言葉を失ったように歪んだ唇を震わせ、浅い呼吸を繰り返した。しかし、その瞳の奥にある拒絶の炎が消え去ることはなく、むしろ油を注がれたかのように、さらに激しく燃え上がり、口元から激しい怒号となって飛び出してきた。


「隠して逃がしたやと? そんな綺麗事で誤魔化されるか! 結果はどうや! えぇ!? 結果はどうやちゅーねん!」」


 加納は激しく首を振り、履き潰したサンダルで地面の砂を思い切り蹴り上げた。乾いた砂粒が容赦なく佐伯のズボンの裾へと撥ねかかり、不快な音を立てて落ちる。


「姉は名前を奪われ、戸籍を失い、神戸の異人館で死人のように生きるしかなかったんやぞ!」


 男の喉からは、まるで肺の底に溜まった泥を吐き出すかのような、酷く掠れた声が絞り出されていた。首筋には青い血管が何本も浮き上がり、怒りのあまりその身を大きくこわばらせている。


「それだけやない、咲子が『存在しない人間』にされたせいで、実家にいた俺たち家族がどうなったか分かっとんのか!」


 加納の叫び声に合わるように、錆びついたトタン壁がガタガタと頼りなく鳴り響く。押し寄せる波の音が、その怒号をさらに大きく増幅させていく。


「国や警察から姉の行方を厳しく追及され、周囲からは犯罪者を出した家だと後ろ指を指され、親父は精神を病んで死んだ! あの男が書いた嘘の文字のせいで、俺たちの人生は根底からひっくり返されて地獄に落ちたんや!」


 加納の胸の奥から搾り出された、何十年もの怨念がこもった叫び。それはどんな綺麗事の並べ立てでも決して拭い去ることのできない、紛れもないもう一つの現実であり、事実だった。

 

 一人の女性の命を救うために選ばれた、あまりにも完璧な手段。それが、全く別の場所にいた無関係な家族を容赦なく圧し潰し、終わりのない暗闇へと突き落としていた。正義の裏側には、常にその影に踏みつけられる他者が存在する。


 佐伯はゆっくりと首を振った。加納の叫びを受け止めながらも、その同情を誘うような境遇に流されるわけにはいかない。因果関係のすべてを、冷淡なまでに解体するのが終筆士としての役割だ。佐伯は手帳を今度は後ろにいる春奈の方へと向け、指先でそこに書かれた文字の境界線を冷たく、明確になぞってみせた。


「山城さん。これが、あんたのお父さんが行った筆跡偽造の本当の末路や。綺麗に包まれた思い出の裏にある本当の姿や」


 佐伯は背後を振り返り、眼鏡の奥で目を見開いている春奈を見つめた。いつになく厳しい声音を向けられた彼女は、まるで物理的な衝撃を受けたかのように、小さく肩をすくめて一歩後ろへ退がった。


「文字を変えるということは、その人間が紡ぐはずだった歴史を、他人の手で強引に捻じ曲げる行為に他ならん。いくら理由がまっとうであっても、それは傲慢な支配や」


 佐伯の指先が、ノートの紙面を強く押し潰す。紙がみしりと湿った音を立てて歪み、春奈の視線がその歪みに吸い寄せられるのが分かった。


「正蔵さんは、咲子さん一人を救うための身代わりとして、この加納家の戸籍という土台を文字通り破壊した」


 佐伯の言葉は、容赦のない刃となって、春奈の心の一番柔らかく、純粋な部分を正確に切り裂いていく。彼女の絶望を痛いほど知りながらも、佐伯はあえてその事実から目を背けさせないように、さらに深く言葉の楔を重ねた。


「その筆先で、この家族の未来をバラバラに切り刻んだんや」


 春奈は、佐伯が示す手帳の文字を、歪む視界の片隅で必死に追おうとしていた。しかし、次から次へと溢れ出る涙が彼女の眼鏡のレンズを厚く濡らし、世界をぐにゃぐにゃとした不確かな形へと溶かしていく。

 

 膝がガクガクと頼りなく笑って、その場に立っているのがやっとの状態だった。固く握りしめた小さな拳には限界を超えた力が入り、爪が手のひらの皮膚に深く食い込んで、生温かい汗とともに鈍い痛みを脳裏に伝えている。

 

 彼女が肺の奥に吸い込んだ空気は、まるで細かなガラスの破片が混ざっているかのように胸をちくちくと痛めつけているに違いない。呼吸を繰り返すたびに、彼女の胸の真ん中が強固な鉄の鎖でギリギリと締め付けられるように苦しげな吐息が漏れていた。


「これが文字の持つ暴力や。誰かを救うという大義名分があろうと、その筆先が他人の人生を容赦なく切り裂き、破壊した事実に変わりはない」


 佐伯の声から、感情の抑揚が完全に消え失せる。実の父親を告発する裁判官のような響きが、真夏の重い空気の中に冷たく響いた。


「君の父親は、紛れもなく加害者だ」


 佐伯は手帳をポケットへと戻し、突き放すような視線を春奈へと向けた。西日が彼女の横顔を赤黒く照らし出し、涙の跡をぎらぎらと光らせる。


「山城正蔵は、極めて残酷な凶器としてその筆を振るった。あんたがどれだけ否定したくても、これが山城春奈という存在の根底に流れる、お父さんの罪の血や」


 その宣告が、彼女の耳の奥で爆音となって響き渡り、すべての思考を停止させた。


(ああ、そうや……。お父さんは、誰かを救うために、この人たちの人生をめちゃくちゃに踏みにじったんや)


 春奈の頭の芯がカッと熱くなり、過去の楽しかった父親との思い出が走馬灯のように駆け巡る。しかし、そのどれもが黒いインクで汚らしく塗りつぶされていく。


(私が今まで信じてきた、あの穏やかで優しかったお父さんの手は、一人の女性の過去を消し去り、その裏で別の家族を地獄に突き落とした、恐ろしい犯罪者の手やったんや)


 彼女は溢れる涙を止めることができず、視界が完全に遮られたまま、激しい絶望にその身を縮こまらせた。父親が遺したあの最後の一行が欠けた手紙も、あの巨額の通帳も、すべてはこの残酷な暴力の代償、被害者の血と涙の結晶に過ぎなかったのだ。彼女が愛し、誇りに思っていた『山城正蔵の娘』としての足場が、足元から嫌な音を立てて粉々に砕け散っていく。


 記された文字の行く末を見届けるかのように、激しい波の音だけが、劇場の効果音のように彼らの間に激しく割り込んでくる。

 完全に絶望し、言葉を失った春奈の眼鏡のレンズに、加納の憎悪に歪んだ顔と、容赦なく真実を突きつける佐伯の大きな背中、そして窓外のぎらぎらとした真夏の淡路島の海が、ただ冷たく反射していた。

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