第28話 潮風とインクの腐敗
役所のコンクリート壁に囲まれた資料室を後にした私たちを待ち受けていたのは、やはり容赦のない真夏の淡路島の暴力的な熱気だった。
午後を回り、西へと傾きかけた太陽は、逃げ場のないアスファルトに突き刺さるようにぎらぎらと白く照りつけ、地表から立ち上る陽炎が視界を油絵のようにぐにゃりと歪めている。
海からの潮風は決して涼をもたらすことはなく、生温い湿気と脂っこい磯の匂いをたっぷりと孕んで、まとわりつくように私の肌へとじっとりへばりついてきた。
先ほど資料室の暗がりでお父さんの冷酷な公文書偽造の痕跡、文字の血縁を引きちぎるような掠れたインクの重なりを突きつけられたばかりの私の身体は、芯まで凍りついたように冷え切っているというのに、外界の世界は目眩がするほど熱く、残酷なまでの光に満ち満ちている。その温度の凄まじい落差に、私は呼吸の仕方を忘れたかのように、ただ胸の痛みに耐えるしかなかった。
佐伯は何も言わなかった。
いつもの意地悪な軽口も、作調がどうこうという偏屈な講釈も一切口にせず、ただ前だけを見据えて、彼の大きな背中で私の視界を遮るようにして半歩前を歩き続けている。
事前に島の役所でさらに細かく調べていたのだろう、彼は迷いのない確かな足取りで、海岸線に沿って走る乾いた道路から、さらに細い斜面を下った場所にある、古く寂れた集落の路地へと迷いなく踏み込んでいった。
アスファルトから徐々に砂混じりの土へと変わる地面を踏みしめるたび、私の足元は自分の存在そのものが消えていくかのように覚束なくなっていく。千切れかけた私の心の細い糸を、かろうじて繋ぎ止めているのは、目の前を歩く佐伯の規則正しい足音と、そのパリッとした襟元だけだった。私は、彼が抱える深淵の入り口に引きずり込まれるような恐怖を感じながら、その後ろ姿をただ必死に追いかけることしかできなかった。
いくつもの錆びついたトタン壁の隙間をすり抜けた果てに、ようやく辿り着いたのは、波打ち際から目と鼻の先、海岸線に今にも押し潰されそうなほどへばりつくようにして建つ、小さな木造の平屋である。
長年にわたって容赦ない塩害と潮風に晒され続けた結果、木造の壁板はすっかり生気を失った灰白色に褪せ返り、ところどころが腐り落ちて中の建材が剥き出しになっている。
波頭が砕けるたびに容赦なく飛沫を浴び続けてきたであろう窓ガラスは、塩の結晶がびっしりとこびりついて、まるで白内障を患ったかのように白く濁り、家の中の様子を完全に拒絶していた。
庭先とも呼べないような狭い砂地には、赤黒く錆びついた不気味な漁具や引き裂かれた網が無造作に打ち捨てられており、周囲には強烈な磯の匂いとともに、どこか生き物の死骸が波打ち際でじくじくと腐敗していくかのような、鼻を突く饐えた臭いがねっとりと漂っている。
その光景の禍々しさに私が思わず足を止め、息を呑んだ瞬間、佐伯は躊躇うことなくその薄汚れた木製の格子戸へと近づき、長い指先でトントンと鋭く叩いた。
確かな主張を持つ乾いた音が響き渡り、やがて内側から、ずるずると足を引きずるような重苦しい足音が近づいてくる。
ギィ、と建付けの悪い戸が悲鳴を上げて開いた。そこから姿を現したのは、深く、まるで刃物で刻み込まれたかのような険しい眉間の皺と、底知れない怨念を宿した鋭く濁った瞳を持つ初老の男だった。
「何や、お前らは。役所の人間か? それとも、また嗅ぎ回りに来た新聞記者か?」
低く、地の底から這い上がってくるような、明確な警戒と拒絶に満ちた声音。
この男こそが、かつてお父さんがその存在を文字通り戸籍から消し去り、世間から隠蔽した女性、加納咲子の実の弟だと理解する。
男の着古したシャツからは、染み付いた塩の匂いと、閉ざされた部屋の饐えた空気が混ざり合って漂ってくる。佐伯はいつもの猫背をほんの少しだけ正し、感情の失せた目で男を見つめると、上着の内ポケットからあの「カノウ サキコ」名義の巨額の通帳を、男の眼前に決定的な証拠として提示する。
その瞬間、男の顔が、凍りついた静止から一転して、激しい怒りと憎悪によって赤黒く跳ね上がるのを、私は間近で目撃した。男の剥き出しの敵意が、狭い玄関口から津波のように押し寄せてくる。
「何でそれを、お前らが持っとる。どこで見つけた。まさか、あの山城の身内か!?」
男の血走った視線が、佐伯の差し出す通帳から、その後ろに立っていた私の顔へと、獰猛な獣のようになだれ込んできた。
私の生真面目そうな佇まい、眼鏡の奥にある怯えた瞳、お父さん、山城正蔵の面影を色濃く残す、その顔の輪郭やパーツの配置を、男は直感的に、そして正確に察知したのだろう。男の瞳の奥で、何十年もの間、島の片隅で澱のように溜まり続けていた言いようのない激しい嫌悪の炎が、一瞬にして爆発するように燃え上がった。
「そうか、お前、山城正蔵の娘やな!」
男は一歩、激しい足音を立てて敷居を跨ぎ、外の砂地へと踏み出してきた。その身体からは、長年この寂れた島に隠れ住み、過去の呪縛と姉の無念に囚われ続けてきた者特有の、濃厚で、狂気すら孕んだ執念の臭いが立ち上っている。
「帰れ! お前らみたいな人間の顔など、二度と見たないわ! あの男が、あの山城が私らに何をしたか、お前はちっとでも分かっとんのか! 姉の咲子の人生を、あの汚い文字の暴力でめちゃくちゃに汚し尽くした悪魔やぞ!」
男の絶叫に近い罵声が、真夏の重く湿った空気を引き裂いて、私の鼓膜へと容赦なく突き刺さる。その衝撃に、私の頭の奥で何かが火花を散らした。
(悪魔? お父さんが、悪魔? 嘘や、そんなん嘘や。私にとっては、いっつも優しくて、夜遅くまで机に向かって真面目に文字を書いて、私のくだらん話をいつでも笑顔で聞いてくれる、大好きなお父さんやったのに。そのお父さんが、誰かの人生を、家族を、こんな風にめちゃくちゃに汚したやなんて)
私は激しい動揺の波に呑まれ、目眩の突風に煽られたかのように、その場から一歩も動けずに立ち尽くしてしまった。
私の背骨は、男が放つ圧倒的な憎悪の重圧に圧し折られそうになり、無様に前かがみに折れ曲がりそうになる。
ぎゅっと握りしめた拳は、自分の意志とは無関係に小刻みに、そして激しく震え続け、手のひらに深く深く食い込んだ爪の鋭い痛みが、これが夢でも何でもない現実であることを容赦なく突きつけてくる。
額からじわりと流れ落ちる真夏の粘り気のある汗が目に入り、視界が涙とも汗ともつかない水分でじんわりと歪んで滲んでいく。必死に呼吸をしようと喉を動かしても、肺の奥が男の吐き出した罵声の残響と、饐えた空気で満たされてしまって、上手く酸素を吸い込むことができない。胸の真ん中が、鉄の万力でギリギリと骨ごと締め付けられるように苦しかった。
「あの男はな、自分の都合のいいように精巧な偽造文字を書き散らして、咲子を家族からも、世間からも完全に引き離して遮断したんや! 公的には死んだことにされ、戸籍から存在を消され、この島の薄暗い隅っこで誰にも知られずに朽ち果てていくしかなかった姉の絶望が、その娘のお前に分かるんか! お前らが温かい飯を食うとる間、こっちは地獄におったんや!」
男の言葉は、潮風に混じる鋭い塩粒のように、私の心にできた無数のささくれへと容赦なく擦り込まれ、激しい激痛となって神経を焼き焦がしていく。
お父さんの”悪”の側面。今まで私が信じて疑わなかった、温かく穏やかで、何の汚れもなかったはずの家庭の風景。その裏側に確かに存在していた、血とインクに塗れた凄惨な犯罪の真実。それが、この目の前の男の口から、生々しい毒液となって容赦なく吐き出されている。
(私が今まで注いでもらってきた愛情も、あの優しいお父さんの笑顔も、全部この人たちの人生を犠牲にして、その絶望の上に成り立っとった偽物の楽園やったん? 私は、あの優しいお父さんの中にあった、恐ろしい加害者としての側面を何も知らんまま、ただのうのうと生きてきただけやったんや)
絶望の底なし沼へと際限なく沈み込んでいく感覚の中、私の頭の芯は完全に真っ白に染まり、膝の力が抜けてそのまま砂地へと崩れ落ちそうになった。私のすべてが瓦解しようとした、まさにその瞬間だった。
「文字で汚したのなら、文字で拭う」
私の視界を塞ぐように、ぬっと力強く割り込んできた、あの男の広い背中があった。
佐伯だった。彼はいつものように、猫背のままで、ジャケットのポケットに『きらめき☆放課後デイズ』のピンク色のきらきらした表紙を不格好に覗かせたままである。しかし、その口から放たれた声音には、一切の揺らぎも、微かな躊躇いも存在しない、絶対的な終筆士としての響きが硬質に湛えられていた。
「それが俺の仕事だ」
男の剥き出しの憎悪と呪詛を、その大きな背中一面に防波堤のように受け止めながら、佐伯は温度を一切感じさせない、しかしどこか傲慢なまでに力強いトーンで言い放った。
「山城正蔵が書いた偽りの文字が、誰かの人生を歪め、この場所に縛りつけているのだとしたら、その嘘をすべて暴いて、真実を引っ張り出す。俺はそのために、この山城の娘を連れてここへ来た。あんたの姉さんが残した本物の記録がどこにあるのか、それを教えろ」
海の向こう、水平線の彼方から吹き付ける強烈な潮風が、佐伯のジャケットの裾をバタバタと大きく翻す。
その瞬間、彼の背中が、私の目にはこの上なく大きく、世界で一番頼もしいものとして映っていた。
感情を完全に失った私の眼鏡のレンズに、男の激しい怒号と、佐伯の揺るぎない背中、そして窓外のぎらぎらとした真夏の淡路島の海が、ただ冷たく反射していた。
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