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<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第二幕 堆積する記憶と神戸の深淵編

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第27話 淡路島へ

 真実の核心を求め、私たちは明石海峡を渡り、淡路島へと足を踏み入れていた。

 兵庫の自宅で見つかった、あの名義不明の巨額の通帳。そこに執拗に刻まれていた、加納咲子カノウ サキコという女の足跡を辿る中で、佐伯が古い戸籍の隠された原籍地として割り出したのが、この島だったからだ。お父さんが死ぬまで送り続けた血の代償、その呪縛の始まりの地が、ここにある。


 連絡船の甲板から見上げる明石海峡大橋の巨大な主塔は、夏のぎらつく陽光を浴びて白骨のように白く、圧倒的な威圧感をもって無機質にそびえ立っている。

 吹き付ける潮風は生温かく、私の肌にじっとりとまとわりついては、これから踏み込む過去の領域の重苦しさを予感させてしまう。

 

 海面はぎらぎらとした日差しを反射して、まるで無数の刃物がうごめいているかのように、私の目を容赦なく刺してくる。船底が波を打つたびに、ドスンという鈍い衝撃が足の裏から頭の芯まで突き抜けていき、私の胃のあたりを不快にかき回す。逃げ場のない洋上の直射日光は、容赦なく体力を削り取り、ブラウスの背中がじっとりと汗で張り付いていくのが分かった。


 淡路島に降り立つと、そこには真夏の暴力的な陽光が、アスファルトをどろどろに溶かすかのように、ただ執拗に照りつけているだけだった。照り返す熱気が陽炎となってゆらゆらと立ち上り、視界全体が油絵のように歪んで見える。周囲の古い建物や、遠くに見える乾いた砂浜の色さえも、強烈な光の乱反射によって白く焼き飛ばされ、まるで世界の輪郭そのものが少しずつ崩壊していくかのような強烈な眩暈を覚えた。


 役所の窓口へ進み出ると、彼はいつものぞんざいな調子を完全に潜め、驚くほど丁寧で物腰柔らかい口調で受付の職員に接していた。

 

「ええ、少々古い記録になりますが、こちらの手続きの関係でどうしても確認が必要になりまして。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします」


 その淀みのない、他人の警戒心を一瞬で溶かすような声音。しかし、当然ながら本来であれば外部の人間が簡単に立ち入れるはずのない、役所の奥深くにある資料室への案内を乞う言葉に、職員の顔に明確な困惑の表情が浮かぶ。公的な手続きの壁に阻まれ、にべもなく断られそうになったその瞬間、佐伯は上着の内ポケットから一枚のカードを取り出し、そっと職員の目の前に差し出した。それは、誰のものかも分からない一枚の名刺だった。


 名刺に刷られた文字を盗み見ようとしたが、佐伯の巧みな指の動きに遮られ、私には何一つ読み取ることができない。しかし、それを一瞥した職員の目の色が引っくり返るのを見た。生真面目そうな年配の職員が、まるで身に覚えのない特権階級の印を突きつけられたかのように顎を強張らせ、慌てた様子で腰を浮かせたのだ。

 

「あ、案内いたします。こちらへどうぞ」


 明らかに動揺した手つきで鍵の束を握りしめる職員の後ろ姿を追いながら、私は隣を歩く男に疑惑の眼差しを向けた。


(なんなん、あの名刺……。誰のやつか気になるけど、どうせ佐伯さんに聞いても適当にはぐらかされて、絶対に教えてもらえへんのやろな。もうきくだけ時間の無駄やし、諦めるしかないわ)


 私は、佐伯のパリッとした襟元と、ジャケットのポケットから覗くピンク色の表紙を交互に見つめる。


(でも、あのジャケットの隙間から見えとる少女漫画の表紙、あれのせいで全部台無しやん! 何が『きらめき☆放課後デイズ』の最新刊やねん)


 思わず、私は佐伯の脇腹を軽く肘で小突いてやろうかという衝動を必死に抑え込んだ。


(そんなんポケットに突っ込んで、めちゃくちゃシリアスな顔で作調の解説とかされても、こっちはどんな顔していいか分からんわ! 頼むからそのきらきらした表紙をちょっとは隠してよ!)


 案内されたのは、冷房の効きが悪い、異様に湿気た役所の資料室だった。

 部屋の隅にある古い扇風機が、埃っぽい温風をただかき回すようにブーンと鈍い音を立てて回っている。窓外からは、執拗なまでに繰り返される波濤の音が、コンクリートの壁を内側から削り取るように響き、この部屋の沈黙をより一層深いものへと沈み込ませていた。空気はひんやりとしているのに、どこか脂っこい潮の匂いが鼻腔の奥にへばりついて離れない。壁際に並ぶスチール製のキャビネットはどれも赤錆びていて、引き出しが開け閉めされるたびにキーキーと甲高い悲鳴を上げ、私のささくれ立った神経をちくちくと逆撫でする。


 目の前の長机に広げられたのは、昭和の時代に綴られた、そこまで古くはないはずの戸籍謄本だった。

 数十年前に作られたそのバインダーは、まだ現代の事務用品としての硬質さを残しており、過度な色褪せもない。しかし、冷房の行き届かない部屋の片隅で、海からの湿った空気を吸い込んできたためか、指で触れると吸いつくような独特の湿り気を帯びていた。ページを開くたびにピシッという不自然な抵抗があり、まるでずっと開かれることのなかった空白の時間を無理やり引き剥がしているかのような錯覚にとらわれる。


「山城さん。少し、ここに見てみ」


 佐伯の声が、急に低く、温度を一切感じさせない終筆士のトーンへと切り替わる。彼が細い指先で示したのは、手書きで記された加納家の古い記録、とある人物の氏名だった。万年筆のインクが紙に染み込み、かすれかけた文字の羅列。

 

「この『国』という文字の最後の『閉じ』の横線の終端を見てみぃ。一見すると、流れるような一連の動作で一気に枠を閉じたように見える。位置的にも、何一つ怪しいところはないように思えるやろ?」


 佐伯は手元の謄本にさらに顔を近づけ、その指先をじわりと這わせる。

 

「そやけどな、ここだけ、インクの重なりが不自然に厚い。紙の繊維が、無理やり二度なぞられたことで限界まで押し潰されとる」


 佐伯はポケットから使い込まれた拡大鏡を取り出し、そっと紙面に近づけた。その瞳に宿るのは、対象を微塵に解体し尽くそうとする、あの冷ややかな残酷さを孕んだ科学者の光だ。感情の揺らぎを一切排除し、ただそこにある痕跡だけを鋭く見つめる目の光に、私は気圧されそうになる。

 

「一度書かれた文字を、極めて精巧に、しかし僅かに異なる硬さのペン先でなぞって修正しとる。それも、文字そのものの意味を、あるいは血の繋がりを意図的に断ち切るための改竄や」


 佐伯の持つ拡大鏡のレンズが、窓からの真夏の光を拾って鋭くきらりと跳ねた。

 

「誰かが、加納咲子という女の存在を、この島の記録から完全に消し去ろうとした痕跡がこれや。そして、この精巧極まる筆跡の主。つまり、あんたのお父さん、山城正蔵の文字やわ」


 その言葉が、静まり返った資料室に、重く冷たい塊となって落ちる。


 私は、佐伯の指先を凝視したまま、身動きひとつ取れずにいた。

 私の背筋は、張り詰めたように真っ直ぐに伸びたままだ。しかし、握りしめた拳は限界まで力が入り、爪が手のひらに深く食い込んで痛みを訴えている。

 

 額には真夏の粘り気のある汗がじわりと滲んでいく。肺の奥に吸い込んだ空気は、まるで針を混ぜ込んだかのように私の胸をちくちくと痛めつけた。呼吸をするたびに、胸の真ん中が締め付けられるように苦しい。


 お父さんが遺した、最後の一行が欠けた手紙。

 底の知れない巨額の数字が並んでいた、あの通帳。

 あるいは私の記憶の中にある、優しかった父親の少し頼りない後ろ姿。


 底冷えするような沈黙の中で、目の前にある、父親が手を染めた明確な犯罪の記録がそれらを一つに繋いでいく。


(ああ、そうか……。私の、私という人間の根底を支えていたものは、全部この掠れたインクみたいに、他人の手で簡単に書き換えられる程度のものやったんや)


 私は視界が歪むのを必死にこらえながら、古びた書類を見つめ続けた。


(お父さんが必死に隠そうとしとった真実って、最初から私を拒絶するためのもんやなくて、こんな恐ろしい偽造の罪そのものやったん?)


 私はぎゅっと目を閉じ、頭の中に浮かぶお父さんの笑顔を消し去ろうとする。


(私が今まで信じてきた温かい日々のすべてが、この一枚の汚れた紙切れによって粉々に打ち砕かれていく……)


 波の音だけが、劇場の効果音のように二人の間に割り込んでくる。

その瞬間、私の耳の奥で、自分の出生と、これまで信じて疑わなかった『山城春奈』という存在を辛うじて繋ぎ止めていた細い、あまりにも細い糸が、ぷつりと音を立てて千切れる感覚がした。

 

 それは世界が一瞬で色を失い、完全に崩壊していく合図のようでもあった。自分の足元が急に底の抜けた底なし沼に変わったかのように、際限のない暗闇へと真っ逆さまに落ちていくような恐怖が、全身の血液を凍らせていく。


 感情を失った私の眼鏡のレンズに、窓外のぎらぎらとした真夏の淡路島の海が、ただ冷たく反射していた。

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