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<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第二幕 堆積する記憶と神戸の深淵編

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第26話 血の代償

 JR神戸線の兵庫駅からほど近い、お父さんと二人でずっと暮らしてきた古い二階建ての家。そのリビングに、今、私以外の人間が座っているという事実だけで、私の心臓は朝からずっとバタバタと騒がしい音を立てていた。

 

 須磨の美津子の母、つまり私の祖母に会った帰りの社内の事だった。猫背の『終筆士』である佐伯卓也は、急に万年筆をポケットに仕舞い込んでこう言い出したのだ。

 

「実際に、そのお父さんが最期まで暮らしてた家を見て判断もしたい。文字にはな、書いた場所の空気がどうしても混じるんや。明日、そっちの家に行くわ。あっ、あんたの降りる駅はここやな。じゃあな」

 

 その一言を聞いた瞬間、私の脳内には、切実なパニックが巻き起こった。

 お父さんが急にいなくなってからの数週間、悲しみに暮れて掃除どころではなかった我が家は、一言で言って、とても人を招き入れられる状態ではなかったからだ。


 (ちょっと待って、そんなん無理に決まっとるやん! あそこもここも、お父さんの書類やら私の脱ぎ散らかした服やらで、めちゃくちゃなんやから!)

 

 そんなわけで、昨日の夜は本当に地獄だった。兵庫駅近くの自宅に帰るや否や、私は尋常ではない目つきで大掃除に取り掛かったのだ。

 一階のリビングから二階のお父さんの部屋まで行き来し、テーブルの上のゴミをまとめ、ソファに放置されていた服を片っ端から押し入れに放り込んだ。気付けば日付は完全に変わり、真夜中を過ぎてもまだ、私はウェットティッシュで膝をつきながら床を猛烈な勢いで拭き倒していた。

 体中がバキバキに痛む中でようやく作業を終え、泥のように眠ったまま、私は今日という当日を迎えたのだった。

 チャイムが鳴ったのは、私が限界までボサボサになった髪をなんとか手ぐしで整え、玄関を開けた、まさにその瞬間だった。


「……どうぞ、散らかってますけど、入ってください」

 

 なるべく平然を装って迎え入れた私を、佐伯はいつものきらきらした少女漫画の単行本が入ったトートバッグを肩にかけたまま、じっと見つめてきた。

 

 彼は一歩足を踏み入れると、古い木造住宅独特の急な階段や、部屋全体をぐるりと見渡す。そして、私が昨日の真夜中まで必死の思いで磨き上げた、古い畳やフローリングへ視線を落とした。

 

「……山城さん。人間、急に前日の真夜中までかかって大掃除なんかするもんやないで」

 

「へっ!?」

 

 佐伯は呆れたように息を吐くと、部屋の隅、押し入れの襖の隙間からはみ出している私のパーカーの袖を指差した。

 

「靴下が左右逆やし、押し入れからは服が悲鳴を上げてはみ出とる。それに、そのテレビ台の裏……慌てて埃をあっちに押し込んだやろ。空気の動きで即バレやわ」

 

「う、うるさいなぁ! これでも精一杯おもてなししようとしたんよ!」

 

 恥ずかしさで顔がカッと熱くなる私を余所に、佐伯は少しだけ口元を緩め、それからすぐに真剣な表情に戻って、擦り切れたこたつテーブルの前に腰を下ろした。


 そんなドタバタ劇の余韻が残る部屋で、佐伯から突きつけられた言葉は、私の頭の中でカンカンと甲高い鐘のように鳴り響いていた。お父さんという、私の世界の土台そのものだった人間の輪郭が、足元からぐらぐらと音を立てて歪んでいく。

 

 私を実の娘としてこの腕に抱きしめるためだけに、死の影が忍び寄る病床の中で、わざわざかりそめの母親という泥を被ってくれた美津子お母さん。その凄絶なまでの無償の優しさが、今も私の胸の奥で熱い塊となって渦を巻いている。

 

 私はその熱を振り払うようにして、お父さんの書斎の湿気たクローゼットの最奥から見つけ出したばかりの”もう一つの遺品”へと視線を落とす。

 昨日私が必死に拭いたテーブルの上に、私はそれを慎重に並べる。どこか場違いなほどに厳重な、特殊な暗証番号錠が付いた耐火セーフティバッグ。そのファスナーを開ける私の指先は、不自然なほど冷たくなっていた。


 中から現れたのは、ごく普通の一冊の古い預金通帳だった。

 何年も使い込まれて角が丸くなったその紙片を、私は生唾を飲み込みながらゆっくりとめくる。次の瞬間、隣に座る佐伯の視線と私の視線が、同時に紙面の一箇所へと釘付けになった。

 

 そこには、私の知るお父さんの生涯年収を遥かに超越するような、黒々とした異常な数字の羅列がびっしりと印字されていたのだ。

 

 毎月、判で押したように決まった日付に振り込まれる、一般的な会社員の月収など足元にも及ばないほどの巨額の資金。もちろん、お父さんが勤めていたあの小さな会社の給与口座などではない。どこか得体の知れない暗い源流から、定期的に流れ込んでくる正体不明の濁流のような金だった。

 振込先の欄に、それこそ紙面が真っ黒に染まるほど執拗に刻まれていた名前。それは「カノウ」という、私をこの世に産み落としたとされる女の名義だった。


「……何、これ。何なん、この信じられへん金額……」

 

 私の口から漏れたのは、情けないほどにかすれた掠れ声だった。自分の指先から急速に体温が失われ、まるで氷のようになっていくのがはっきりとわかる。

 

 私が見てきたお父さんは、いつだって地味なグレーのスーツを着て、毎朝決まった時間に兵庫駅へと向かう、大人しい事務職の男だった。私に贅沢をさせることもなければ、自分自身もかかとがすり減ったビジネスシューズを何度も地域の靴修理店に出しては、大事そうに履き続けるような人だったのだ。

 

 お弁当の小さな卵焼きひとつで「美味しいな」と相好を崩すような、絵に描いたように実直で生真面目な小市民。

 そんな清貧を極めた生活の裏側で、これほどまでの巨額の金が、私の全く知らない血の繋がった一族へと流れ続けていた。その厳然たる事実に、私の頭の芯は激しい拒絶反応を起こし、視界がちかちかと明滅を始める。


 (なぜお父さんは、この莫大なお金を一体どこから都合してきたん? 毎日あんなに頭を下げてペコペコ働きながら、どんな気持ちで毎月毎月、咲子さんに送り続けとったんやろ)

 

 胸を締め付ける疑問が、心臓の鼓動を不規則に跳ね上げる。

 

 (これは、私を産んでくれた咲子さんへの、せめてもの愛の証やったって言うの……? それとも、私には計り知れんほどの深い情熱が、あの不器用な背中に隠されとったん?)

 

 私は縋るような思いで、自分のタイトスカートの裾をきゅっと握りしめた。生地が指の形に白く引き絞られる。

 飾らない兵庫駅前のいつもの景色が見える窓を背に、隣でじっと印字のインクを穴が開くほど凝視している猫背の男へと、すがるように視線を向けた。

 

「ねえ、佐伯さん。これって、お父さんが咲子さんを心から愛しとって、残された家族を必死に支えようとしとったってこと、なんよね……?」


 私の声は、自分でも嫌になるほど縋りつくような響きを帯びていた。せめてお父さんの行動を、美しい純愛の物語として解釈したかったのだ。

 しかし、佐伯は私のそんな微かな、そしてあまりにも甘い希望を、その鋭い眼差しであっさりと切り捨てる。

 

 彼は通帳の余白部分をじっと見つめる。そこには、お父さんの手によるものと思われる、数字の計算跡の書き込みが微かに残されていた。

 佐伯はその頼りない筆跡を、自身の細い指先でそっとなぞる。真実だけを容赦なく引っ張り出す終筆士の瞳には、私への同情も、お茶を濁すような誤魔化しも一切存在しなかった。

 

「……いや、違うな。愛の対価やなんて、そんな綺麗なもんと一緒にしたらあかん」

 

 佐伯の喉の奥から、低く、芯の通った声が響いた。

 彼が爪先で示したインクの跡は、紙の繊維を限界まで押し潰すようにして、深く深く沈み込んでいる。

 それはまるで、書いた人間の呪念がそのまま紙の上に定着してしまったかのような、異様な雰囲気を放っていた。

 

「この筆跡の、筆圧の異常なまでの強さを見てみぃ。数字の角が紙を突き破らんばかりに尖っとる。保存状態がどれだけ悪かろうが、この怨念だけは消えへん。これは、誰かを愛おしむ慈しみや、遺族を支えようっていう前向きな義務感で書かれた文字やない」

 

佐伯は一度言葉を区切ると、万年筆を握る手に微かに力を込めた。

 

「……ただの、呪縛や」


「呪縛……?」

 

 私の呟きは、お父さんと暮らした見慣れたリビングの空気に、力なく霧散していった。

 お父さんが呪縛。その単語の持つおぞましい響きが、耳の奥で何度もリフレクトする。

 

 佐伯は開いたままの通帳を、まるでこれ以上見るのも忌まわしいと言わんばかりに、テーブルの真ん中へ放り出した。

 そして、木製の椅子の背もたれにギシッと音を立てて深く体重を預ける。

 

「そうや。咲子という女はな、お父さんの『罪』を代わりにその背に背負って、泥を被ったまま表舞台から消えていったんや」

 

 佐伯の言葉は容赦なく、私の心の柔らかい部分を抉り取っていく。

 彼はそこまで言うと、私の表情の痛々しさに気づいたのか、一度言葉を切った。そして少し決まり悪そうに、ジャケットのポケットから使い古したペンを取り出しては、手持ち無沙汰に指先で回し始めた。そんな彼の少し不器用で人間味のある仕草が、かえってこれから語られる現実の重さを際立たせる。

 

「突破口のない泥沼のような日々の中で、お父さんは自分が犯したそのあまりにも酷い罪の重さに耐えかねて、この膨大な金で、あるいは自分が紡ぐ文字で、一生をかけてその命を購い続けようとしとったんやろ。これは愛の対価ではない、血の代償や」


 

――血の代償――

 

 佐伯が突きつけたその言葉が、私の心臓を直に鷲掴みにして、思いきり握りつぶすかのように響いた。

 

 お父さんのあの実直で、近所の人に対してもいつも帽子をとって頭を下げてばかりいた、あの少し頼りない生真面目な背中。あれは、家族を心から愛する温かい父親の姿などではなかったのだ。

 ただ、自分が引き起こしてしまった過去の過ちから目を背けることすら許されず、死ぬまでその罰を受け続ける、孤独な罪人の後ろ姿に過ぎなかった。

 そう気付いた瞬間、頭の奥の血管がちぎれるほどの衝撃が走り、私は目眩に襲われる。


(なんでお父さんが、自ら命を絶たなあかんかったほどの罪って、一体何なん。そんなおぞましい生き様を優しさの裏に隠しながら、何食わぬ顔で私を育てとったんか……)

 

 足元から、底の知れない真っ暗な奈落の底がぶわリと広がっていくような、強烈な衝撃が私を襲う。

 脳内がパニックを起こし、呼吸の仕方を忘れてしまったかのように喉がヒューヒューと鳴る。

 私は自分の味気ないブラウスの肩をきつく抱きしめて、兵庫駅周辺の夜を支配する深い静寂の中で、これ以上崩れ落ちてしまわないように、ただじっと身をすくめて耐え続けるしかなかった。

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