第44話 少女漫画の「最終回」
私の謝罪の言葉を背中で受け止めながら、しばらく頑なにそっぽを向いていた佐伯が、椅子の座面を軋ませて、ゆっくりとこちらを振り返った。
彼はまだ、加納法律事務所から大倉山の屋敷に戻ってきた時のままの姿をしていた。それは亡き婚約者への消えない誓いと深い未練の防壁として彼が身にまとっていた、あの仕立ての良い漆黒の三つ揃いの衣服。
上質な生地で編まれたそれは、彼にとって他者を一切寄せ付けないための強固な鎧であり、過去という名の開かずの墓標を守り続けるための厳格な正装であったはずだった。
だが、佐伯は椅子から勢いよく立ち上がると、その上着とベストを自らの手で躊躇なく脱ぎ、机の上へと投げ捨てた。
さらに端正な首元を厳しく縛っていたネクタイまでも一気に引き込み、無造作に放り出す。
「もう、誰かのための自分を演じる必要はない」
遮蔽された地下室の隅々にまでよく通る、迷いのない声音でそう告げた佐伯の姿に、私は完全に息を呑んだ。
漆黒の鎧を脱ぎ捨てた彼の姿は、白いシャツの袖が肘の上まで無造作に捲り上げられ、乱れた黒髪が額に垂れ下がっていた。いつもと違うその無防備な佇まいは、心臓の鼓動が伝わってきそうなほどに酷く男らしかった。
佐伯は、私の前に真っ直ぐに立ち、その飾らない瞳で私を射抜く。彼の眼差しは、今はただ一筋の濁りもない光を放ち、私の網膜の最深部へと直接突き刺さってくる。
「山城さん。俺はもう、報酬を得るための『終筆士』として君の前に立っとるんやない」
彼は一歩、私との距離を決定的に詰めるようにして、コンクリートの床を踏みしめた。床を叩く微かな振動が、私の足の裏を通じて全身の細胞へと伝播していくような、奇妙な錯覚を覚える。
「一人の男として、君の父親の物語を、君の過去を、一緒に完結させる手伝いがしたいんや。これは仕事としての依頼やからやない。俺自身の意志で、君の隣にいたいと心から願うて、ここに立っとる」
過去の防壁を完全に失った彼の身体から、言葉とともに圧倒的な熱量が放射され、この凍てついた地下の書斎を瞬く間に侵食していく。
一人の男として、父親の物語を一緒に完結させる手伝い。仕事ではなく、自分の意志で、隣にいる。それはつまり、これからの人生を賭けた、とてつもなく大規模な契約の話なのだろうか。
私は、高鳴る胸の動悸を必死に抑え込みながら、膝の上で固く握りしめていた右手をゆっくりと持ち上げた。涙を拭うために机の上へと外して置いていた眼鏡を、静かに摘み上げる。レンズの冷たい感触が指先から脳へとダイレクトに伝わり、肥大化した感情の暴走にわずかな理性を呼び戻した。
眼鏡をゆっくりとかけ直した。
カチリ、と耳の奥で世界が噛み合うような小さな音が響いた。湾曲したガラスレンズを一枚通しただけで、涙と電子光で滲んでぼやけていた地下室の無機質な輪郭が、驚くほどの鮮明さをもって正しい輪郭を取り戻す。
レンズの向こうに見える佐伯の一点の迷いも曇りもない直真の瞳をまっすぐに見つめながら、私は大真面目な顔で問いかけた。
「……あの、佐伯さん。それって、これからも仕事の枠を超えて、お父さんの残した足跡や、山城家に関するすべての謎を、私と一緒にボランティアで調査し続けてくれる……という意味ですよね?」
私がそう問いかけると、地下室の空気が一瞬にして凍りつく。私の言葉を聞いた佐伯は、突き刺すようだった鋭い視線を泳がせ、信じられないものを見るような目で私を見つめた。
「……はぁ? ボランティア? 山城さん、君、今の俺の話をどう聞いたらそうなるんや?」
怪訝そうに眉の根を詰める佐伯に対して、私は自分の推測が正しいことを証明しようと、さらに真剣な口調で言葉をまくしたてた。
「だって、報酬を受け取らないということは、完全なる無償の奉仕ということです。ですが、いくらなんでも佐伯さんの専門的な技術と時間をそこまで提供してもらうのは申し訳ありません。ですから、今後の移動費や機材の維持費、兵庫駅の実家へ向かう際の交通費などは、すべて私のポケットマネーから必要経費として、折半、いえ、全額私がお支払いします! それで手を打ちませんか?」
「誰が経費の折半の話をしとるんや。そんな現金のやり取りがしたいわけやない」
佐伯は額に青筋を浮かべながら、呆れたようにため息をついた。
しかし、私は引き下がらない。
「ですが、タダでそんな重労働をさせるわけにはいきません。それなら、私の実家からお父さんの遺品整理を兼ねて、何か佐伯さんの興味を惹くような古い資料や、あるいは貴重な万年筆などを報酬の代わりに現物支給する、というのはいかがでしょうか」
「現物支給って、なんで君はそう頑なに仕事の話に引き戻そうとするんや! 資料も万年筆もいらんわ!」
佐伯の声が少しずつ大きくなっていく。
「ええっ、それもダメなんですか? では、私がこれから毎日、佐伯さんの屋敷の地下室のお掃除や、資料のファイリングなどの雑用を無期限で請け負うという契約ではどうでしょう。これなら労働力の等価交換として成立します!」
私の必死の提案を聞いていた佐伯は、あ然としたまま口を半開きにしていたが、次の瞬間、彼の顔は耳の裏から首筋にいたるまで、一瞬で真っ赤に染まった。彼は自分の頭をガシガシと乱暴にかきむしると、地下室のコンクリート壁が震えるほどの声で叫んだ。
「こ、この、ド天然がぁー!」
あまりの怒声に私は肩をすくめたが、佐伯は真っ赤な顔のまま、今度は私にこれ以上ないほど分かりやすい言葉で伝えるべく、再び一歩、グイッと距離を詰めてきた。
「なんでそこで雑用の無期限契約とか労働力の交換の話になるんや! ボランティアなわけあるか! ええから耳の穴かっぽじって、よお聞きぃや!」
佐伯は私の両肩をがっしりと掴むと、至近距離から私の目を真っ直ぐに見据えた。
「俺はな、君が好きやから、これからは仕事の依頼人やなくて、俺の特別な女として隣におってほしい言うとるんや! これなら分かるか!?」
ストレートすぎるその言葉が地下室に響き渡り、今度は私の頭が真っ白になる番だった。
「え……あ、あの、特別な、女……ですか?」
あまりの衝撃に、私はただオウム返しに呟くことしかできない。私のその抜けた声に、佐伯はさらに顔を赤くしながらも、掴んだ肩の力を緩めずに言葉を重ねてきた。
「そうや! これ以上どう言えば伝わるんや。仕事のパートナーやなくて、一人の男と女として一緒におりたいんや。山城春奈という人間そのものが、俺にとって必要なんや」
「で、でも……私、お父さんの謎を追うことばかり必死で、佐伯さんに何かしてあげられたことなんて、ひとつも……」
私の困惑を引き裂くように、佐伯は少しだけ目線を落とし、自嘲気味に鼻を鳴らした。
「ひとつもないわけあるか。……君が、初めてこの大倉山の屋敷に飛び込んできたあの日のことを、俺が忘れられると思うとるんか」
佐伯の大きな手が、私の肩を包むように、少しだけ優しく包み直す。
「あの時、俺はちょうど両親のことを考えていて、どうしようもなく鬱々とした気分のまま、屋敷の入口すぐの部屋で少女漫画を読みながら涙を流しとった」
急にトーンの落ちたその告白に、私はパチクリと瞬きをしてしまう。あの気難しくて冷たい印象だった終筆士が、初対面の直前にそんな状態だったなんて想像もしていなかったからだ。佐伯はきまり悪そうに視線を泳がせながらも、しっかりと私を見つめ直した。
「いつもなら依頼人にはもっと丁寧な口調と物腰で完璧に対応するはずやったのに、それすらできんくらい余裕がなかったんや。そんな最悪のタイミングの俺の前に、君は息を切らせて、汗だくになって現れた」
彼の指先に微かな力がこもり、シャツ越しにその熱が肌へと伝ってくる。
「お父さんの無実を信じて、ただひたむきに、まっすぐに前だけを見据えて突っ走る君の姿を見た時や。あの必死で、みっともないほど一生懸命な姿に、俺の凍りついていた心がどれだけ揺さぶられたか」
佐伯の胸の奥から絞り出されるような声が、地下室の沈黙に深く染み渡っていく。
「親のためにすべてを賭けられる君のその眩しさに、俺は出会ったその瞬間から、とうに心奪われとったんや。終筆士の仕事やからやない。最初から、君の力になりたいと身体が動いてしもていたんや」
その言葉は、この部屋で佐伯からお気に入りの箇所やと言って何度も何度も熱心に見せられていた、どんな少女漫画の最終回にある華やかな告白よりも、私の心の最も柔らかい領域へと深く、容赦なく刺さった。
お父さんの命がけの愛の質量を知ったばかりの私の魂に、今度は佐伯という一人の人間が示す、まっすぐな愛の告白が真っ向から飛び込んできたのだ。あまりの感情の激流に、私の視界は再び涙で歪みそうになる。
レンズの向こうの佐伯の瞳は、これ以上ないほどに本気で、自然な熱を帯びながら、そしてどこか必死に私の答えを待っていた。
「佐伯さん……私、そんな風に言ってもらえるなんて……」
言葉がうまく紡げない。だけど、私は自分の胸の奥底で、生まれて初めて経験する、愛おしい恋心が燃え上がるのを確かに感じてはいた。
それは、お父さんが遺した深い祈りの質量にも決して負けないほどに重く、これからの私の人生を永久に変えてしまうほどの、烈しい火の粉を散らす感情の始まりだった。
私が熱くなった顔を伏せ、溢れそうになる涙を堪えながら、必死に次の言葉を探そうとしたその時。佐伯はふっと掴んでいた手の力を抜くと、私の頭にポンとぶっきらぼうに手を置いた。
「……まぁ、今すぐどうこう言うて答えを急かすつもりはないけどな」
佐伯は少し照れくさそうに首のあたりを掻きながら、男らしい笑みを口元に浮かべた。
「返事は、全部終わった時に聞かせてや」
その言葉に、私は弾かれたように顔を上げた。
「全部……お父さんの物語がですか?」
「そうや。君がお父さんの真実を全部見届けて、心から前を向けたその時や。それまでは、何が何でも俺が君の隣をキープしたるからな」
いたずらっぽく、だけど最高に心強い響きを伴って、佐伯はまっすぐに私に告げてくる。
その瞳の奥には、これから二人で立ち向かう過酷な調査への覚悟と、私への消えない愛の炎が、確かに宿っていた。
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