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<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第二幕 堆積する記憶と神戸の深淵編

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第24話 第二の女性の正体

 大倉山の古い平屋を包み込む夏の夜気は、まるで澱んだ沼の底のように重苦しく、肌にまとわりついて離れなかった。

 縁側の外からは、あれほど狂ったように鳴き喚いていた蝉時雨が嘘のように消え失せ、不気味なほどの静寂が部屋の隅々にまで満ちている。

 卓上の白熱灯が、頼りなくジジ、と微かな音を立てて明滅し、床に積み上げられた少女漫画の山に長く、歪な影を落としていた。

 

 その光と影の境界で、佐伯はいつもの無精ひげの浮いた顎に細い指先を添え、机の上に乱雑に広げられた古い戸籍謄本の写しと、父の遺品である書きかけの手紙を、穴があくほどに見つめ続けていた。

 彼の指先には、あの旧居留地の晩餐会で偽りの夫婦を演じ、甘く私の名前を呼んだ男の面影はもうどこにもない。再び終筆士としての、執念に囚われた男の剥き出しの鋭さが戻っている。

 

 

 ――加納咲子――

 

 父の遺品に幾度となくその名を刻まれながらも、警察の捜査線からも完全に没交渉として無視されてきた第二の女性。

 彼女の過去を、佐伯の網羅的な調査力で一枚ずつ剥ぎ取っていくうちに、私たちは決して足を踏み入れるべきではない、底なしの暗い裂け目の前に立たされていた。


「山城さん。俺の仮説をがもし、この文字の並びの通りやとしたら、あんたはどうする」

 

 佐伯は、旧居留地で私の腰を抱いたあの温かな手のひらを今は机に伏せ、謄本に記された加納咲子の出生地の一行を細い指先でそっとなぞる。

 

 見上げた彼の瞳は、これまでにないほど深く、迅速に思考を巡らせる。それは、他者の感情をすべて解析し、残酷なまでの真実だけを問い求め続けてきた男が、初めて見せる躊躇いと底知れない深淵の闇そのものだった。


「加納咲子という女の、戸籍から抹消された過去の空白期間……。その時期の移動足跡や当時の交友関係を執拗に追い詰めていけば、不自然に辻褄(つじつま)が合う」

 

 佐伯は一度言葉を切り、喉の奥で小さく息を詰めると、私を射抜くようにその鋭い双眸を向けてきた。

 

「これらすべての点と線が結ぶ答えは、一つしか残されておらん。加納咲子こそが、あんたの本当の肉親……山城さん。あんたを産んだ実の母親や」


 その言葉が室内の重苦しい大気に放たれた瞬間、私の背筋を、真夏の夜の不快な熱気を一瞬で凍らせるような、凄惨な冷気が走り抜ける。

 

 心臓の鼓動が、耳の奥でドクンと嫌な音を立てて跳ね上がる。


 (……何を言うとるの、この人は。私の、お母さんは、物心つく前に病気で亡くなったって、お父さんからずっとそう聞かされて育ってきたのに。あの優しいお父さんが、私にそんな重大な嘘を吐き続けとったというん……?)


 自分がこれまで二十数年間、一歩一歩踏みしめて歩いてきたはずの人生の土台が、足元から音を立てて崩れ去っていく。

 私が信じて疑わなかった温かな家族の記憶、父と繋がっていたはずの確かな血の繋がりが、まるで水を含んだ半紙の上のインクのように、見る影もなく滲んで、どす黒く溶け出して消えていく。

 脳髄を直接揺さぶられるような激しい眩暈に襲われ、私は立っていられなくなり、着ていた衣服の裾をきつく握りしめながら、その場に崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。

 

「嘘や……嘘やわ、そんなん! じゃあ、私が今までずっと仏壇に手を合わせてきた、あのお母さんは誰なん!? お父さんがいつも愛おしそうに話してくれた、あのお母さんの思い出は、一体誰のものやったっていうの……!」

 

 私は叫びながら、机の傍らに視線を落とした。そこには、父の死の真相を突き止めるための手掛かりとして、私が以前に実家からすべて運び込み、この部屋に預けておいた遺品の数々が積まれている。

 私は焦燥感に突き動かされるようにその山を崩し、中から一冊の古い家族アルバムを引きずり出した。床に膝をつき、汗ばんだ指先でページをめくると、そこには私が「お母さん」と呼び、盲目的に信じてきた美しい女性、山城美津子の姿が、色あせた写真の中に何枚も収められていた。幼い私を抱きしめ、神戸のポートアイランドの海風の中で優しく微笑んでいるその姿は、私の記憶にある理想の母親そのものなのだ。


 私はそのアルバムを佐伯の前に突き出したが、彼は動じることもなく、謄本と一緒に並べられた古い病院の経営記録の写しへと注意深く視線を落とす。

 

「……山城美津子。確かにお父さんの戸籍上の配偶者はこの女性や。あんたがこれまで仏壇に写真を飾り、毎日のように手を合わせて拝んできたお母さんというんは、間違いなくこの美津子さんや。お父さんが語った美津子さんの思い出も、決して作り話やない」

 

 佐伯は謄本から指を離し、白熱灯の光に透かすようにして私にその紙面を向けた。

 

「お父さんと美津子さんはな、幼馴染の間柄や。お父さんにとっては、何でも腹を割って話せる唯一無二の親友のような存在やった」


 親友、という言葉の持つ軽さと、そこにある書類の重みが、私の頭の中でちぐはぐに絡み合う。

 

「だが、ここにどうしようもない決定的な矛盾がある。あんたがこの世に生を受けたそのまさに同じ時期、美津子さんは神戸市内の病院に、別の重い病気で丸一年近く長期入院しとった記録が残っとるんや」

 

 彼の爪先が、無機質な数字の並びをトントンと規則正しく叩く。

 

「つまり、美津子さんがあんたを妊娠して、出産すること自体が物理的に不可能な状況やった。結論を言おう、山城さん。あんたが拝んできた美津子さんという女性は、お父さんの書類上の『妻』の籍を貸してくれただけの、非常に仲が良かった幼馴染や。あんたを我が子として心から愛し、育ててくれた母親代わりの恩人ではあるが、あんたにその血を分けた、本物の母親ではない」


 佐伯の言葉は、まるで鋭利なメスで過去の包帯を切り開くように、容赦なく真実の輪郭を剥き出しにしていく。

 

「お父さんは、加納咲子との間に生まれたあんたを引き取り、戸籍上の妻である美津子さんとの間にできた子供として、世間に偽って育てたんや」

 

 彼は白熱灯の傘を少し傾け、机の上の影の位置を変えた。

 

「美津子さん自身も、お父さんの事情をすべて理解し、親友を助けるために籍を貸し、それを承知であんたを本当の娘として抱きしめていた。お父さんがあんたに遺したあの万年筆も本当は……美津子さんのものではなく、加納咲子からお父さんへ贈られたものやったんやろ」


 頭の芯が、文字通りバラバラに砕け散るような衝撃が私を襲った。

 私がこれまで信じ、心の拠り所にしてきた温かな家庭の景色は、父と美津子さんが、必死に作り上げてくれた優しさに満ちた偽物だったのだ。

 

 実の母は、父を裏六甲の闇へと葬り去ったあの恐ろしい事件の核心に潜む、加納咲子という女性。そして、私が「お母さん」と信じて疑わなかった美津子さんは、そのすべての秘密を胸に抱いたまま、私に無償の愛を注ぎ続けてくれた、血の繋がらない他人。


 (……何これ。私の周りにあるもの、全部嘘で塗り固められとったん? お父さんも、お母さんが偽物やったって……。そんなん、誰も本当のことなんて教えてくれへんかった……!)

 

 あまりのショックに視界がぐるぐると激しく回転を始める。

 崩れ落ちそうになる私の視界の先で、佐伯は何も言わず、ただ静かにその無骨な右手を差し出してきた。その手のひらは、あの旧居留地のダンスフロアで私の腰を優しく、精度高くリードしてくれた時と同じ、驚くほど熱い体温を宿している。

 

 (……この人は、あんなに近くで私を抱きしめてくれたのに、今はもう『山城さん』って呼んで、私との間に引き裂けへん境界線を引いとう。どこまでも残酷で、どこまでも正しい。私のお父さんを裏六甲へ追い詰めた真犯人を暴くためなら、私の魂がどれだけ引き裂かれようと、容赦なく真実の光を当てていく。なのに、どうしてこの差し出された手は、こんなに切ないほど温かいの……)

 

 私は、目の前で静かに私を見つめる佐伯の、その暗く深い瞳の奥に、逆らうことのできない宿命の引力を感じていた。

 たとえこの先に、すべての日常を失うような絶望が待っていようとも、私はもう、この男の差し出す手から、その底知れない深淵から、永遠に逃れることなどできないのだと、眩暈の中でただ強く悟っていた。

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