第23話 偽りのドレスアップ
異国情緒の面影を色濃く残す、神戸旧居留地。石積みの近代建築が整然と立ち並ぶ一角で、今夜は限られた政財界の重鎮たちだけが集う、厳重に秘匿された晩餐会が開かれていた。
豪奢な車寄せには、一般の市場には出回らないような最高級の外車やクラシックカーが途切れなく滑り込み、磨き上げられた漆黒のボディが街灯の淡い光を鈍く跳ね返している。
重い扉を抜けてエントランスをくぐると、そこは地上の現実や日常のすべてから完全に切り離された、目も眩むような絢爛豪華な別世界が広がっていた。
見上げるほどに高い天井の巨大なクリスタルシャンデリアからは、無数の光の粒が滝のように降り注ぎ、幾何学模様が美しい大理石の床に万華鏡のような反射を描いている。会場を埋め尽くす紳士淑女たちの胸元や指先で、贅を尽くした本物の宝石たちが、お互いを牽制し合うように妖しく輝きを競い合っていた。
(……信じられん。まさか私が、こんなテレビの向こう側みたいな場違いな場所に潜り込むことになるなんて。背中が大きく開いたドレスなんて生まれて初めて着たし、さっきからヒールが高すぎて足元がずっとふわふわしとうわ。床に自分の顔が映るたびに、別の誰かを見とるみたいで落ち着かへん)
私は、佐伯がどこからか手配して用意してくれた深い群青色のシルクドレスの裾を気にしながら、喉の奥までせり上がってくる心臓の鼓動を必死に抑えようと、ドレスの滑らかな生地を指先できつく握りしめていた。
「おい、あまりキョロキョロと周囲を見回すな。田舎から上品なカモが迷い込んできたと思われるぞ、妻よ」
緊張で硬直しかけていた私の隣から、耳元にだけ届くような掠れた低い声が滑り込ん込んできた。
ハッとして見上げると、そこには普段の無精ひげを綺麗に剃り落とし、仕立ての良い漆黒のタキシードを一片の隙もなく完璧に着こなした佐伯が立っていた。
うっとうしそうに伸ばされていた前髪をきっちりと上げて、切れ上がった双眸の鋭さを一層際立たせた彼の佇まいは、まるでどこかの名門の若き当主そのものの風格を漂わせている。普段の偏屈で世捨て人のような姿からは逆立ちしても想像がつかないほど、洗練された大人の色気と威圧感を放っていた。
彼は私の震えを見抜いたのか、安心させるように、万年筆のインクの跡を綺麗に消し去ったその無骨な右腕を、滑らかな動作でそっと差し出してきた。
「す、すみません。でも、こんな『夫婦』だなんて大それた設定、本当にこの目の肥えた人たちを騙せるんでしょうか……」
私は彼の手首に、今にも千切れそうなほど震える指先をそっと絡め、周囲からの値踏みするような鋭い視線から逃れるように、ごくりと乾いた唾を飲み込んだ。
(……それにしても、佐伯さん、タキシード姿が似合いすぎやわ。いつもボサボサの髪で偏屈なことばかり言うとるのに、こうして並んで歩いとるだけで、隣から伝わってくる男の人の匂いに心臓の音がうるさくて破裂しそうになる。これじゃあ別の意味で怪しまれてまう……)
「心配するな。今夜ここに集まっとる奴らは、相手の”格”と”肩書き”しか見てへん。中身が本物かどうかなど、誰一人として興味はない。この俺が隣におる限り、誰もあんたの正体を疑う余地など持てん。俺のリードにただ身を任せていろ」
佐伯は冷ややかな笑みを唇の端にほんの僅かに浮かべ、広い会場を鷹のような鋭い視線でゆっくりと見回した。
彼のその眼差しは、優雅に談笑する客たちの笑顔の裏を値踏みするように正確に捉え、その一挙手一投足、微かな皮膚の引きつりさえも見逃さない。
私たちの目的はただ一つ、生前の父に無実の濡れ衣を着せ、死へと追いやった巨大な不正の首謀者をこの晩餐会で見つけ出すことだった。
あの悪夢のような日、父は裏六甲と呼ばれる深い山中で、変わり果てた姿となって発見された。遺書もなく、動機も不明なまま、警察によって不慮の原因不明の自殺として片付けられてしまった父の、あまりにも呆気ない最期。あの冷たい山奥の闇の中で、父の身に一体何が起きたのか、なぜ大切な家族に嘘を吐き、孤独のまま命を絶たねばならなかったのかという、答えの出ない暗い問いが、今も私の胸を黒く抉り続けている。
そのすべての元凶となった、父を死の罠に嵌めた標的が、間もなくこのホールの中心へと姿を現すだろう。
オーケストラによる古典的で格式高いワルツの旋律が会場に響き渡ると、中央の円形ダンスフロアに優雅な人の輪ができ始めた。
「山城さん、あー、いや、春奈。……踊るぞ」
佐伯は私の本当の名前をわざと甘く低く囁くと、有無を言わせぬ確かな力強さで、私の身体をフロアの中央へと連れ出した。
(……嘘やん、ほんまに踊るん? 普通のダンスだって一度も経験したことないのに、こんな本格的なワルツなんて絶対に無理やわ)
大倉山のあの平屋で、ここへ乗り込む前に受けた練習という名の特訓が、嫌悪感とともに脳裏をよぎる。
佐伯は一切の妥協を許さず、猫背を容赦なく叩き伸ばし、ステップが狂うたびに低く掠れた声で冷酷に私の不器用さを指摘し続けた。あの苛烈なしごきで、私の足の指は今もジンジンと鈍い痛みを残している。
フロアに一歩踏み出した瞬間、彼の大きな右手が、遮るもののない私の剥き出しの腰へと、ためらいなくそっと添えられた。
衣服を挟まない、彼の指先から伝わる驚くほど熱くて力強い体温が、私の冷え切った皮膚を通じて、直接脳髄へと駆け抜けていく。
「あっ……」
心臓がドクンと激しく跳ね上がり、私の思考はまたたく間に真っ白に染まった。
(……あんなに厳しい特訓の時は血も涙もない手やと思ったのに、どうして今はこんなに温かいの。腰をがっしりと支えとる手のひらが熱すぎて、練習したはずのステップが頭の中から全部弾け飛んでまいそうやわ。全然足が動かへん……)
彼の広い胸の中に完全に包み込まれ、佐伯がステップを踏むたびにドレスの群青色の裾がフロアに鮮やかな軌跡を描いて激しく翻る。
周囲のきらびやかな景色が万華鏡のように歪んで流れ去っていく中で、私の世界にはただ、私の肌を焦がすような佐伯の胸の鼓動と、私を射抜くように見つめる彼の強い視線だけが残されている。
「動揺して足元を狂わせるな。周囲の目が集まっている。特訓の成果を思い出せ、俺にすべてを委ねろ」
佐伯は私の耳朶に唇が触れるほどの至近距離で、かすかに熱い息を吹きかけるように囁いた。
彼は完璧なまでの計算とリードで私の不格好な身体を巧みに操り、私の拙い足さばきを完全にカバーしながら、流れるような滑らかなステップでフロアを滑っていく。
その時、私たちのすぐ傍らを、今夜の主賓である初老の貿易商の男が、傲慢な笑みを浮かべながら通り過ぎようとした。
その男の肥大化した手首で、奇妙なデザインの特注のカフスボタンが、シャンデリアの光を受けて不気味な金色の輝きを放つ。
「見つけたぞ」
ダンスの華やかな旋律の裏側で、佐伯の声から一切の熱量が綺麗に消え失せた。
私の腰を抱く彼の指先が、その瞬間、獲物を捕らえた檻のように僅かに強くきしむ。
「あの男が右手を回すとき、左の親指でカフスを二度叩いた。……あれは、旧内務省の内部で、極秘の『裏取引』が無事に成立したことを示す、身内だけの隠されたサインや。奴らの間でのみ通用する血の同盟の合図」
彼は私を優雅に旋回させながら、その感情を一切排除した恐ろしいほど鋭い双眸で、標的のわずかな指先の動きを完全に解析し、網膜に焼き付けていた。
「あのカフスボタンに刻まれた歪な紋章、間違いない。お父さんの万年筆のシリンダーに残っとった、あの偽造書類の裏に隠されとった特殊な刻印と完全に一致しとる。……お父さんをあの裏六甲の山奥まで精神的に追い詰め、不可解な死の偽装を仕組んで、すべての罪を擦り付けた真犯人は、あの男や」
ステップを完璧に刻み続けながら、淡々とだが、容赦のない確信を持って告げられる彼の冷静な分析に、私は背筋が凍りつくような感覚を覚えた。
(……この人は、私をこんなに温かい手で抱きしめて、甘い夫婦の芝居をしてくれている最中でさえ、その頭脳はどこまでも冴え渡り、残酷な真実だけを問い求めとるんやね。この胸の温もりも、すべては計算された偽りなんやろか?)
彼が見つめているのは、私の身体でも、この華やかな夜の歓楽でもない。
もっと暗く、もっと深い、過去の因縁という名の底知れない深淵の闇だった。
曲の終わりを告げる最後の和音が重厚に響き渡り、私たちはフロアの端で静かに足を止めた。
佐伯の温かい手が、名残惜しさを演出するように私の腰からゆっくりと離れていく。
その体温の急激な喪失が、私に耐え難いほどの寂しさと、現実の冷たさを思い出させる。
(……ほんまに、底が知れん人。優しく私を守ってくれるかと思えば、恐ろしいほどの執念で真実を暴き出していく。この偽りの抱擁が終わっても、私はもう、この人の手の温もりから一生逃れることなんてできんわ。佐伯さんという底なしの深い海に、私はこれから、どこまでも溺れていくしかないんやろな……)
胸の奥から湧き上がる、逆らうことのできない激しい情動に身を任せるように、私は彼から逸らされた横顔を、ただ狂おしいほどの愛おしさを込めてじっと見つめ続けていた。
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