第22話 万年筆の告白
北野の入り組んだ坂の頂近くに佇む、佐伯の自宅。その建物の最奥にひっそりと隠されていた地下室は、地上の微かな光や喧騒から完全に隔離された異界のようだった。
部屋全体にカビ臭い古い紙の匂いと冷たい湿気が澱みのように足元へ溜まっており、肌に触れる空気がじっとりと重い。
この地下室は、鉄骨の梁が幾重にも張り巡らされた堅牢な耐震構造によって守られており、まるで核シェルターのように強固なシェルターを思わせる空間になっている。
壁一面には、青白い光を放つ最新鋭の大型モニターがいくつも並び、複雑な波形データや高解像度の解析画像が絶え間なくスクロールしている。
室内にはメーカーの刻印すら入っていない特注の高性能パソコンや、用途のまったく分からない精密な電子器具が所狭しと並び、それらが放つ微かな駆動音が低くうなっている。
そのハイテクな機器の群れの中心にある広い作業机の上で、佐伯は驚くほど繊細な手つきを崩さず、私が持参した古い万年筆を静かに分解していく。
金属同士がかすかに噛み合う精密な音だけが、コンクリートの壁に虚しく反響しては、深い闇の中に吸い込まれるように消えていった。
(……『山城さんの家にある親父さんの万年筆、残っとる奴を一本残らず持ってこい』って佐伯さんに命令された時は、何が始まるんかと思ったけれど。実家の引き出しをひっくり返して見つけたこの数本のなかに、そんなに大事な秘密があるんやろか)
私は息を詰め、彼の無骨な指先がペン軸を滑らかに回していく様を、ただ祈るような心地で見つめ続けることしかできなかった。
「吸入器のゴムが、劣化したインクで完全に癒着しとうな」
佐伯はピンセットの先を器用に動かしながら、硬くピンと張り詰めた声で呟いた。
彼はガラスのシャーレに怪しい化学臭のする特殊な薬品を満たし、バラバラに外した細かなペン先や、内部の金属シリンダーを慎重に浸していく。
最初は完全に透明だったはずの液体が、たちまちのうちに数十年分の暗い藍色の澱みによってドロリと濁り、モニターの青白い光を受けて妖しい光沢を放ち始めた。
薬品によって分解され、剥がれ落ちていく古いインクの塊は、まるで父が誰にも言えずに閉じ込めていた秘密の残骸そのもののようだった。
「佐伯さん、そのインクの成分で、何が分かるんですか……?」
私は机の端の硬い木目をきつく握りしめ、薬品の鼻を突くツンとした匂いに胸を締め付けられながら、彼の険しい横顔に視線を向けた。
(……お父さん、毎日これらの万年筆を握りしめて、一体何を書いてたんやろ。この小さくて黒い道具のなかに、何が隠されてるの……)
「インクの定着剤と染料の比率、それからこの特有の酸化の進み具合を見れば、当時どこの機関が支給しとったものか、何に使われとったかが一発で特定できる」
佐伯は電子顕微鏡に接続されたモニターに視線を移し、無精ひげを蓄えた顎を硬くこわばらせたまま、画像の倍率を細かく調整するダイヤルをミリ単位で回した。
「山城さん、あんたが前に持ってきた、お父さんが生前に家族へ遺した手紙のインクとは、成分が完全に別物や。あれは一般の文房具店で普通に売っとる青色手紙用やったが、この一本の奥底にこびりついとる染料は、全く違う」
「え……? 別物って、じゃあどこで使われてたやつなんですか。お父さんの手紙のインクとは違うって……」
私の震える問いかけに、佐伯はゆっくりと細い身体を起こした。深く丸まった猫背の姿勢のまま、信じられないほど鋭く険しい双眸で、まっすぐに私を見つめ返してくる。
「当時の、旧内務省直轄の公的な記録官にしか配給されん特殊な保存用インクや」
佐伯は一度言葉を切ると、モニターに映し出されたインクの分子構造のグラフを愛おしそうに見つめている。
「お父さんはな、死ぬその直前まで、咲子さんを救い出すための『公文書』を必死に偽造し続けとったんや」
電子機器の規則的な作動音が地下室の重苦しい空気に溶けていくのを待つように、彼はわざとらしく一度深い呼吸を挟んだ。
「家族に見せるための手紙にはあえて普通の市販インクを使い、この誰にも見せられん作業の時だけ、この隠された万年筆と本物の配給インクを使い分けとったんやろ」
彼の低い口から厳かに告げられた言葉の意味が、冷たい地下室の空気を激しく震わせ、私の鼓膜へと容赦なく突き刺さる。
「公文書を……偽造? お父さんが、国の書類を偽物で作ってたっていうんですか……!?」
私はあまりの衝撃に足元がぐらりと崩れそうになり、目眩を堪えるように思わず佐伯の作業机にしがみついた。
「……待ってください。そもそもお父さんが、そんな内務省の記録官やなんて所に勤めてたこと自体、私は何も聞いてません。お母さんからだって、お父さんの仕事は普通の地味な事務職やからって、ずっとそう聞かされて育ってきたのに……!」
私の必死の訴えに、佐伯は感情を削ぎ落とした鋭い目元のまま、静かに首を振った。
「母親も知らんかったか、あるいは知っていてあんたに隠し通したか、そのどちらかやろな」
佐伯はピンセットをカタりと机に置き、私の目をまっすぐに見据えてきた。
「それほど、その肩書きは公にできん重いものやったんや。国家の記録を司る人間が、その技術を丸ごと悪用して戸籍を改ざんする。見つかれば一発で身の破滅の大逆罪やからな」
優しくて、実直で、法律を破るような真似とは一番無縁だと思い込んでいた父の背中が、目の前で音を立てて完全に崩壊していく。
今まで信じていた我が家の歴史が、すべて砂の城のように足元から崩れていく恐怖に、私は奥歯をガチガチと震わせるしかなかった。
「そんなん……もし見つかったら、お父さんは一発で犯罪者にされてたやないですか。なんで、家族にも全部嘘を吐いてまで、そこまでして……」
涙が溢れそうになるのを必死に堪えながら、私は酸欠の魚のように掠れた声を絞り出した。
「法を犯してでも、我が身が破滅してでも、守りたいものが人間にはあるっちゅうことや」
佐伯は分解された万年筆の細いパーツを拾い上げ、画面の青白いバックライトに透かしてじっと見つめた。
「お父さんにとってのそれは、咲子さんという一人の存在そのものやった」
拡大されたモニターの映像には、気の遠くなるような摩擦の跡が痛々しく刻まれている。
「この万年筆から溢れ出とったんはな、インクやない。国家の法に真っ向から逆らった、一人の男の意地と血や」
佐伯の言葉は、冷酷な現実を暴く刃のようでありながら、どこか父の犯した罪の底にある人間らしい本質を優しく救い上げるような不思議な温かい響きを帯びている。
(……お父さん、悪いことをしてたんは分ったけど、そこまでして咲子さんを、誰かの大切な人を守ろうとしてたんか。手紙に使うような普通の優しさやなくて、家族にすら生涯ひた隠しにして、泥にまみれても通したかった、本当の覚悟がここにあったんや……)
あまりの真実の重みに胸を突かれ、私は言葉を失って立ち尽くすしかなかった。
「あっ、最悪や。シリンダーの奥に残っとった液が跳ねよった」
不意に佐伯が短く毒づき、張り詰めていた作業の手を止めた。
見れば、彼の細くて無骨な指先から手のひらにかけて、深い藍色の古いインクがじわじわと不格好に滲み、皮膚の皺を黒々と汚している。
薬品と混ざり合ったその汚れは、まるで何十年も前の過去の怨念が、彼の手に取り憑いたかのようにも見えた。
「あ、待ってください。いま拭くもの持ってきますから」
私は我に返り、慌ててポケットから自分のハンカチを取り出そうとした。
「構うな。土地の記憶を暴くときには、これくらいの返り血は付き物や」
佐伯は自嘲気味に低く笑うと、インクで汚れた手を隠そうともせず、無造作に作業机の上へと投げ出した。
それから、思い出したように私の顔をじろりと睨みつける。
「言うとくがな、この部屋は俺の聖域や」
佐伯はわざわざ声を低く落とし、これ以上ないほど深刻な表情を作ってみせた。
「今まで俺以外の人間は、たとえ身内であっても一歩たりとも入れんかったし、これからも入れるつもりはない」
彼は大袈裟な身振りを交え、脅しつけるようにじりじりと私に顔を近づけてくる。
「あんたがその最初の例外や。もしここで見たことを一言でも外で漏らしたら、それこそただの返り血じゃ済まさんからな」
「……ププッ、なんですかそれ。秘密基地の約束事みたいで、大げさすぎます」
あまりにも芝居がかった底知れない迫力と、どこか少年めいた不器用な脅し文句のギャップに、私は涙を滲ませたまま思わず小さく吹き出してしまった。
(……なんなん、その言い方。ちょっと笑ってまうやんか)
おかしさが胸に込み上げてくると同時に、先ほどまで私を支配していた重苦しい絶望が、ふっと薄れていくのを感じる。
「……何が可笑しい。こっちは大真面目に警告しとるんやぞ」
佐伯は不意を突かれたように、ほんのわずかにその頬を赤く染め、きまり悪そうに視線を逸らしながらぶつぶつと反論してきた。
いつも偏屈で突き放すような態度ばかり取る男が見せた、そのあまりにも子供っぽい動揺が、張り詰めていた部屋の空気を優しく和らげていく。
モニターの青白い光に照らされた彼のその手は、決して器用でも綺麗でもないが、誰も入れなかった頑強な秘密の部屋に私を招き入れ、私の代わりに父の魂の深淵へと手を伸ばして、そのすべての汚れを代わりに引き受けてくれたかのように見えた。
その手の汚れは、私を真実へと導くために彼が傷ついてくれた証そのものだ。
(……ほんまに、ひどく汚れてて、不格好極まりない手やのに。どうしてこんなに、愛おしいって思ってしまうんやろ。この人が私だけをこの部屋に入れて、私のために、お父さんの本当の姿を一生懸命に暴いてくれた。その指先の黒い汚れが、今の私には、何よりも尊くて、優しいものに見えてまうわ……)
胸の奥から湧き上がる名前のない激しい感情を隠すように、私はそっと自分の両手を後ろに回した。
彼の汚れた指先に触れたい、その汚れを私の手で拭ってあげたいという強い衝動を必死に抑え込みながら、私はただ、数々の電子機器が静かに明滅する地下室の光の中で、彼の手に広がる黒い滲みをじっと見つめ続けていた。
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