第21話 不器用な聖典
三ノ宮駅へと向かう道すがら、佐伯が気怠げな口調で語った旧生田川の歪んだ歴史。
人間の都合によって無理やりその流れをねじ曲げられ、何事もなかったかのように美しい大通りの下に覆い隠された、川の流した涙の痕。
トアロードを歩きながら、耳にしたそのあまりにも生々しい土地の記憶が、私の頭の奥底でずっと不気味な地鳴りのように響き続けている。
それは、先ほどまでいた大倉山の仕事場で目にした、父の遺品であるあの奇妙に歪んだデッサンと、驚くほど完全に重なり合っている。
(……お父さんも,自分の中の氾濫しそうな罪を必死に覆い隠そうとして、あの美しすぎる咲子さんの絵を描いたんやろか。周囲の目を欺くために、綺麗な絵の具で過去を塗り潰したんやろか……)
そう考えると、私の知っているお父さんの優しさや温もりや家族に向けていた穏やかな笑顔のすべてが、ただの外面を取り繕うための偽物だったのではないかと思えてくる。
考えれば考えるほど、頭の中で同じ問いがグルグルと渦を巻き、底のない暗闇へと容赦なく引きずり込まれていく。
激しい焦燥感と、誰にもぶつけられない割り切れない悲しみが一気に押し寄せ、視界がぐにゃりと奇妙に歪んだ。
世界全体の輪狂が融解していくような錯覚を覚え、足元が急に他人の土地になったかのように覚束なくなり、冷や汗が背中を伝う。
立っていることすら困難なほどの軽いめまいに襲われた私は、これ以上一歩も進むことができなくなっていた。
「……すみません、佐伯さん。ちょっと、そこ座らせてください」
掠れた声でどうにかそれだけを告げると、私はトアロードの片隅にひっそりと佇む古びた木製ベンチに、すがるようにしてどうにかその身を沈めた。
膝の上に手を置き、ただただ硬いアスファルトの地面を見つめることしかできない。
佐伯の容赦ない言葉によって暴かれた、この街の過去。それから、最愛の父の遺品の裏に隠されていた冷酷な真実の重さは、私の脆い許容量を遥かに超えていた。
目の前が暗転していくような感覚の中で、視界がとめどなく溢れる涙で遮られ、呼吸の仕方を忘れたように胸が苦しくなる。
(……もう無理や。これ以上、お父さんの遺した歪みと向き合うなんて、私にはできへん。こんな残酷な現実を突きつけられて、明日からどうやって生きていけばええの……)
どのくらいの時間が経ったのだろうか。
ふいに、冷たいプラスチックの感触が、私の涙に濡れた頬へと容赦なくムギュッと押し付けられた。
「ひゃんっ……!」
あまりの冷たさに小さく悲鳴を上げて顔を跳ね上げると、いつの間にか近くの自動販売機へ行っていたらしい佐伯が、缶コーヒーではなく、結露した冷たいミネラルウォーターのペットボトルを私の顔面に突きつけたまま無愛想に見下ろしていた。
「ほら、さっさと受け取りいや。見てるこっちが息苦しくなるようなツラすんな」
ぶっきらぼうに手渡されたボトルを両手で受け取ると、手のひらから伝わる確かな冷気が、パニックを起こしかけていた私の脳の熱を、ゆっくりと、だけど確実に冷ましていくのが分かった。
一口含んだ冷たい水が喉を通り抜けるのを待ってから、佐伯は私の隣に座って肩を抱くような真似はせず、少し離れた場所に突っ立っていた。
ただ、衣服が擦れるカサカサとした不躾な音が、静まり返った夕闇の中に小さく響く。
彼が大きな手でよれよれのポケットから無造作に取り出し、私の視界に突き出してきたのは、この張り詰めた状況には場違いにもほどがある一冊の少女漫画だった。
夕暮れの薄明かりに照らされた表紙には、あまりにも色鮮やかでキラキラとした、等身大の少年少女たちのイラストが描かれている。
「……なんですか、これ。いま、そんな気分やないです」
私はボトルを握りしめたまま、拒絶するように、差し出された冊子から目を背けようとした。
しかし、視界を遮るようにして、その鮮やかな色彩が無理やり私の意識へと割り込んでくる。
「ここに書いてある」
佐伯は私の拒絶を完全に無視して、その大きな親指でパラパラとせっかちにページをめくり、ある特定の頁を強引に開いて私の目の前に突きつけてきた。
街灯のオレンジ色の光に照らされたモノクロの誌面には、涙を流して立ち尽くす主人公の少女と、その前に不意に現れた少年の姿が、ドラマチックな大ゴマで大胆に描かれていた。
「ほら、見てみ。主人公がどれだけ絶望しても、物語のページをめくれば、必ず新しいキャラクターが現れて手を差し伸べてくれる。だから、あんたの物語もここで終わりやない」
佐伯はいつもの極端な猫背で、よれよれのTシャツのポケットに空いた方の手を突っ込んだまま、ひどく無骨な声でそのフキダシのセリフを指でなぞった。
「そんな漫画みたいに、上手くいくわけないやないですか……」
私は膝を抱え込み、小さく頭を振った。
現実の世界はこんなにも冷たくて、不条理で、めくった先にも真っ暗な闇しか用意されていないように思えてならなかったからだ。
「行くか行かんかやなくて、進めるか進めんかや。ここに描かれとる男もな、最初からヒーローやったわけやない。ただ、泣いとる主人公の前に立つことだけは諦めへんかったんや。あんたの目の前にも、現にこうして新しい奴が立っとるやろ」
お洒落なトアロードの街灯の下、三十を少し過ぎたむさくるしい男が、開いた少女漫画の甘酸っぱい一コマを大真面目な顔で指差している。
その光景は、客観的に見ればこれ以上ないほど滑稽であり、不格好極まりないものだった。
「佐伯さん、それ、自分のこと言うてます?」
私は涙で滲む視界のまま、少しだけ呆れたような眼差しを彼に向けた。
こんな最悪な状況なのに、彼のあまりにも突拍子もない行動と言動のせいで、胸の奥を支配していた鋭い痛みがほんの少しだけ和らぐのが分かった。
「俺がいつ自分の話をした。この漫画の仕様を説明しとるだけや。難しく考えんで、目の前にある次の頁を開けばええ。そうすれば、嫌でも物語は動く」
佐伯は不機嫌そうにフンと鼻を鳴らしたが、その鋭い視線はまっすぐに私を捉えて離さなかった。
しかし、その提示されたページの裏にある彼の本当の意図が、私の胸にじわりと温かい熱を持って染み込んできた。
彼は、自分自身の言葉で綺麗事の慰めや、中身のない同情を語ることを良しとしない男なのだ。
だからこそ、他人が描いたフィクションという不変の聖典を物理的に借りて、私に「まだ終わりじゃない」「俺がここにいる」と必死に伝えようとしている。
この男なりの、精一杯の、あるいは泥臭いほどの不器用な配慮がそこにはあった。
「……ほんまに、不器用な励まし方ですね」
私は小さく息を吐き出しながら、差し出された紙面をじっと見つめた。
インクの匂いと、彼の指先が触れていたページの微かな温もりが、私の硬直していた思考を優しくほぐしていく。
「うるさいなぁ。文句があるなら読まんでええ」
佐伯は照れ隠しのように急に顔を背けたが、漫画を開いたその大きな手は、しっかりと私の目の前に留め置かれたままだ。
引っ込むつもりなど毛頭ないと言わんばかりに、ぶっきらぼうに固定されている。
その瞬間、私の胸の奥で、長い間頑なに閉ざされていた氷の塊が、かすかな音を立てて軋みはじめる。
冷たく固まっていた心が、彼の指し示す紙面の体温によって、ゆっくりと、しかし確実に解けていくのを感じる。
涙が再び溢れてきたけれど、それは先ほどまでの絶望の涙ではなく、凍土が春の陽気に溶かされて流れ出す、暖かな雫だった。
(……物語は終わらへん、か。お父さんが遺した過去がどれだけ重くても、私の人生っていう物語は、ここで終わりやない。この人がこうして不器用に前を歩いてくれる限り、私はまだ、次のページをめくることができるんかもしれないな)
開かれた少女漫画を差し出す佐伯の不格好な手を見つめながら、私は鼻をすすり、小さく頷いた。
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