第20話 夕暮れのトアロード
JR沿線に住む私は、いつもなら仕事場に一番近い地下鉄の大倉山駅からそのまま帰路につくはずだったが、佐伯が気怠げな足取りのまま「三ノ宮まで歩くぞ」と言い出したのは、単なる気まぐれではないはずだった。
大倉山から三宮までの距離は、歩けばそれなりに骨が折れる。
それなのに、彼はよれよれのTシャツに無精ひげという、およそ外出には似つかわしくない姿のまま、ただ無言で私の先頭を歩き続けていた。
並んで坂を下っていた佐伯が、ふと足を止め、無造作な手つきで舗装されたアスファルトの路面を指差した。
薄汚いグレーのTシャツの首元はだらしなくよれ、手入れを怠った黒い無精ひげが、傾いた夕陽を浴びて彼の顎のラインに青々とした影を落としている。
「街がどれだけ綺麗に書き換えられても、その下には決して消えへん『筆圧の地層』が残っとる。人間の記憶も、これと全く同じや」
彼はポケットに両手を突っ込んだまま極端な猫背をさらに丸め、剥き出しの鋭い眼光を路面のわずかな歪みへと向けた。
「一見したら今風の滑らかな舗装に見えるけどな、山城さん。この傾斜の付き方、建物の基礎の不自然なズレを見てみ。震災前の古い区画と、そこに生きた人間の未練が、コンクリートの奥で今も呼吸しとるで」
普段は言葉を極限まで削ぎ落とし、事務的な会話しか口にしない男が、大倉山から三宮へと向かう道すがら、珍しく堰を切ったように饒舌に語り始めていた。
その口から溢れ出るのは、私などよりも遥かに深く、執念に近いほどにこの街の細部を凝視し、その歴史を骨の髄まで咀嚼してきた者にしか語れない、神戸の記憶の断片である。
「たとえばな、あんたがいつも使うとるJRの駅のすぐ近く、いま市役所や東遊園地があるあの広大なフラワーロードや。あの大通りはな、かつて流れとった旧生田川の跡地を埋め立ててできた道路なんや」
「……え? あそこ、昔は川やったんですか……?」
生まれ育った神戸の街の、誰もが知る象徴的な中心地。そのあまりにも意外な歴史に、春奈は驚きを隠せず、思わず声を上げていた。
尋ねられた佐伯は、歩調を緩めることなく、ただ僅かに口角を上げてみせた。
フフン、と鼻で笑うような、自分の知識の深さを当然とする傲岸なその表情が、夕陽の残光に照らし出される。
(……なんなん、そのちょっと人を小馬鹿にしたような顔。神戸生まれの私が知らんことを、あんたが知ってて当然って言いたいわけ? またそうやって、人がちょっと感心したらすぐに調子に乗るんやから。なんか、ほんまにいちいちイラッとする男やわ)
春奈は胸の奥をチリチリと焼くような苛立ちに耐えかね、ついぽろっと本音を言葉にして吐き出していた。
「……なんか、いちいちイラッとします」
「アハハハハ! なんやそれ、イラッとするって!」
佐伯は突然、お腹を抱えるようにして大声を上げて爆笑した。
いつも仕事場で見せる気怠げな鉄の仮面はどこへやら、無精ひげを震わせ、目を細めて心の底からおかしそうに笑い転げている。
トアロードを行き交う数少ない歩行者が、彼の大きな笑い声に驚いて振り返るほどだった。
(……ちょっと、なんでここでそんな大笑いするんよ。こっちは真面目に悔しがってるのに、余計に腹立つわ……!)
春奈は頬を赤く染め、今度こそ完全にそっぽを向いて、足早に彼の先へと歩き出そうとした。
佐伯はひとしきり笑い終えると、涙を拭うような仕草をしながら、なおも愉快そうに彼女の後に続いた。
「知らんかったんか? 生粋の神戸っ子を気取る割には、ずいぶんと薄っぺらい街の歩き方をしとるなぁ」
笑いを含んだ声のまま、佐伯がさらに言葉の針を刺してくる。
「そんなん、普通に暮らしてたら知る機会なんてないですよ。フラワーロードはフラワーロードです。あそこが昔は川やったなんて、歴史の教科書にも載ってへんし……」
「教科書に頼らんでも、街をちゃんと見りゃあちこちに歪みは浮き出とる」
佐伯は長い腕を伸ばし、遥か南側の海へと続く空間をなぞるように指し示した。
「明治の初めまで、あの場所に滔々と水が流れとった。けどな、度重なる氾濫を防群に防ぐために、明治四年に現在の生田川の位置へ無理やり付け替えられたんや。川の歴史そのものを人間の都合で横へ退けて、何事もなかったかのように美しい大通りで覆い隠した」
「川の歴史を、横へ……」
春奈は歩みを止め、彼が指さした方向を凝視した。
頭の中に、アスファルトを突き破って激しく流れる、かつての巨流の幻影が不意に浮かび上がる。
「けどな、土地の記憶っちゅうのはそう簡単に消えへん」
佐伯の細い指先が、今度は地面を鋭く突き刺す。
「水は今でも、かつて自分が流れとった場所をちゃんと覚えとる。だから大雨が降りゃ、地下の暗渠からかつての川の鳴き声が聞こえる。街の奴らはそれをただの排水の音やと思っとるが、違う。あれは土地が流したかった涙の痕や」
「川の、涙の痕……」
彼の語る壮大な、そしてどこか物悲しい街の過去に、春奈はいつしか苛立ちを忘れて聞き入ってしまった。
「そうや。自然の流れを無理に曲げた代償は、今も地下で澱み続けてる。人間がどれだけ隠そうとしても、元あった場所へ戻ろうとする執念までは埋め立てられんのや」
彼の声は、トアロードの坂道を転がり落ちるように、私の耳の奥へと深く染み込んでいった。
彼の言葉の端々からは、ただの知識の誇示や観光用の雑学ではない、この神戸という土地に対する、どこか歪で、しかし誰よりも深い愛情が痛いほどに滲み出ていた。
私だって神戸で生まれ育ち、この海と山に挟まれた美しい街を心から愛しているつもりだった。
異人館のモダンな佇まいも、洗練されたトアロードの華やかな空気も、すべてが私の誇りであり、大好きな故郷の姿だった。
だが、佐伯の語るそれは、私の知っている『お洒落で綺麗に整えられた神戸』とは根本的に違っている。
彼は、街が流してきた血や、無理やり埋め立てられた過去、災害に何度も痛めつけられながらも、必死にその上に新しい皮を張して取り繕ってきた、泥臭いこの街の生き様そのものを愛しているのだ。
その圧倒的な熱量と底知れない執着の前に、私の持つ地元愛など、観光用のパンフレットを表面だけなぞっただけの薄っぺらなものに思えてきて、気圧されるような敗北感を覚えてしまう。
(……わざわざ私が乗り換えるJRの三ノ宮駅まで歩きながら、こんな話をするなんて。佐伯さんは、お父さんのあの歪んだデッサンについて、まだ私に考えてほしいことがあるんやわ)
アスファルトを踏みしめる自分の靴音を聞きながら、私は必死に思考を巡らせた。
(……この街の不自然なズレを私に見せることで、お父さんの遺品の裏にある本当の意図を、私自身の頭で導き出させようとしとるんやね。お父さんも、過去の氾濫を必死に覆い隠そうとして、あの美しすぎる絵を描いたんやろか……)
佐伯は剥き出しの視線のまま、観光客の誰もが素通りしていく風景の中に隠された、残酷なまでの違和感を次々と見抜く方法を私に語っていく。
仕事場からそのまま出てきたような、ひどく生活感の崩れた一人の男の現実。それなのに、その瞳に宿る、他人の嘘や街の虚飾を容赦なく暴き立てる峻烈な意志だけが、私の心を強く捉えて離さない。
(……すごいな。この人はただ駅まで歩いてるだけでも、私らには見えへん過去の傷跡を、全部剥ぎ取るようにして見つめてるんやね)
通り過ぎていくオシャレなカフェのガラス窓に、自分たちの姿が不格好に映り込むのを見る。
(……このトアロードの美しい景色の裏に、どれだけ多くの人の生きた証が隠されてるんか、佐伯さんとおると胸が痛くなるくらい伝わってくるわ)
夕闇が完全に忍び寄り、街灯が一つ、また一つとオレンジ色の光を灯していく街並みの中で、私は彼の少し荒れた横顔から目を逸らすことができなかった。
(……でも、この街の地層を誰よりも深く見抜けるのは、佐伯さん自身が、誰にも触れさせへんほど深くて重い『消えない地層』を、その心に抱えてるからやないの?)
一歩前を行く彼の背中は、夕闇に溶けてしまいそうなほどに孤独に見えた。
(……もうおらへん婚約者の影に縛られて、一人で暗闇に立ち尽くしてるこの人の、その傷の深さに……私はほんの少しでもいいから、近づきたいって願うてしまうよ)
自分の胸の奥で、恐怖を通り越した激しい愛おしさが、夕暮れの冷たい風に抗うようにして熱く込み上げてくるのを私は静かに受け止めていた。
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