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<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第二幕 堆積する記憶と神戸の深淵編

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第19話 歪んだ線の告発

 理恵子が嵐のように現れ、感情をぶちまけて去っていった夜から、大倉山の仕事場にはどうしても足を向けられずにいた。

 佐伯の中に厳然として存在する、もうこの世にはいない婚約者の影。

 その存在を突きつけられた瞬間から、彼とどう接していいのか分からなくなり、私は自分の部屋でただ膝を抱えて何日もやり過ごすしかなかった。

 

 進まない調査への焦燥感と、他人が踏み込めない過去を見せつけられたことへの拒絶感が、私の足を完全にすくませていた。


 

 私は意を決して、再び大倉山の坂を登り、あの重い仕事場の扉をそっと押し開けた。

 冷たい真鍮のドアノブに手をかけるだけで、数日分の緊張が一気に首筋を駆け上がり、喉の奥が乾いていく。

 ここで引き返せば、父の真実も、私自身の割り切れない感情も、すべてが闇の中に置き去りになってしまう。

 私はいま一度、自分の内側にある弱さを振り払うように深く息を吸い込み、軋む音を立てる木製の扉をゆっくりと押し開けた。


 部屋のなかに漂う、古い紙とわずかなコーヒーの匂いは何一つ変わっていなかった。

 外の喧騒を完全に切り離した薄暗い空間には、西日の残光が細い帯のように差し込み、空気中に浮遊する微細な塵を白く浮かび上がらせている。

 壁際に並ぶ大量の少女漫画の単行本。そこから放たれる紙の匂いが、私の皮膚にじっとりとまとわりついてくるように感じる。


 しかし、デスクの向こうで分厚い書類に目を走らせている佐伯自身は、あの日見せた完璧な正装とは、あまりにもかけ離れた姿でそこにいた。

 

 外出時の隙のない佇まいはどこへやら、今の彼は首元がだらしなくよれよれに伸びきった、薄汚いグレーのTシャツ一枚を身に纏っている。

 広い背中を丸めて極端な猫背のまま椅子に深く沈み込み、顎のラインには、手入れを怠った黒い無精ひげが数日分も不揃いに伸びて、青々とした影を作っている。

 

 気怠げに頬杖をつきながら、剥き出しの鋭い視線でペンを動かすその姿は、外で見せるあの洗練された雰囲気など微塵も感じさせない、ひどく生活感の崩れた一人の男の現実である。

 春奈を見ようともしないその徹底した私情の排除だけが、部屋の空気をいっそう硬く引き締めている。


「……あ、あの、佐伯さん。こんにちは」

 

 春奈は部屋の隅に立ち尽くしたまま、消え入りそうな声をどうにか絞り出した。

 自分の声が、静まり返った仕事場の壁に跳ね返り、不自然なほど大きく響くのが分かって、居心地の悪さに身がすくむ。


 彼女が恐る恐る声をかけると、佐伯は視線だけをゆっくりとこちらに向け、いつものぶっきらぼうな口調で応じた。

 

「おう、山城さんか。そこに座りぃ。北野の邸宅から持ち帰った、あんたの親父さんの遺品を整理しとったところや」

 

 彼は手にした万年筆を机の上のペン置きへと静かに戻し、猫背をさらに丸めるようにして、顎で対面の椅子を指し示した。

 その動作の一つ一つが、春奈の数日間の苦悩など、彼の日常のなかでは取るに足らない雑音に過ぎなかったのだと告げているように思えてくる。


 (……なんなん、そのあまりの、いつも通りの変わらなさ。私がこの数日間、どれほど胸をかきむしられるような思いで過ごして、どれほどの葛藤を乗り越えてここへ来たんか、この人はこれっぽっちも察してへんやん。あの理恵子さんの痛烈な言葉さえも、この人にとっては日常の些事として処理されてしもたんやろか。なんか、ちょっとイラッとするわ)

 

 春奈は小さく息を吐き出し、その尖りかけた気持ちを誤魔化すように、促されるまま机の前の椅子へと腰を下ろした。

 椅子の古い革が彼女の体重を受けて小さく軋み、その感触が、二人を否応なく現実の厳格な調査の場へと引き戻していく。


 机の上に広げられていたのは、あの北野の隠れ家から持ち帰った、父が遺した加納咲子のデッサン。木炭で丁寧に描かれた女性の横顔は、窓辺の淡い光を浴びて、どこか儚げに微笑んでいるように見える。

 春奈は自分のなかの割り切れない感情を鎮めるように、その美しい輪郭を指先でなぞりながら、ぽつりと呟いた。


「これだけ優しくて、綺麗な絵やもん……。お父さんはやっぱり、このサキコさんいう人のことを,心から愛してたんやわ。そうでなきゃ、こんな風に描かれへん」

 

 その言葉は、佐伯へのささやかな反発であると同時に、彼女の知る優しい父の姿を何としてでも守るための防壁なのだろう。


 しかし、春奈の記憶のなかにある父は、絵を嗜むような芸術的な素振りなど、ただの一度も見せたことがなかった。

 

 毎日同じような地味なスーツに身を包み、決まった時間に家を出て、決まった時間に帰ってくる、どこにでもいる平凡な会社員。それが彼女の知る父のすべてだった。

 仕事の付き合いでゴルフに出かけることはあっても、美術館に足を運んだり、自宅で創作活動に耽ったりするような気配は微塵もなかった。

 

 実用性と平穏だけを重んじて生きてきたはずの普通のサラリーマンが、実はこれほど滑らかに他人の顔を写し取る技術を持っていたという事実そのものが、自分の知らない父の空白を大きく広げていくようで、酷く恐ろしい。

 

 (……私が見てきたお父さんの姿は、人生のほんの表面をなぞっただけの都合のいい幻影に過ぎんかったんやろか。私の知らんお父さんの顔が、この絵の奥からどんどん溢れてくるみたいで、足元が震えるわ)


 佐伯は春奈の言葉に同調することはなく、ただ黙ってよれよれのTシャツのポケットから、金属製の小さなルーペを取り出した。

 彼は彼女の感傷的な言葉を切り捨てるかのように、視線すら合わせずに指先を動かす。


「山城さん、ちょっとそこ退きぃ」

 

 佐伯はいつもの調子で彼女を促すと、猫背をさらに深く曲げて机に両肘をつき、デッサンの表面にルーペのレンズを極限まで近づけた。

 前髪の隙間から覗く彼の双眸は、獲物を狙う鷹のように鋭く研ぎ澄まされ、紙の上のわずかな木炭の粒子すら見逃さないという執念に満ちていた。

 そのままじっと紙の繊維を見つめていた佐伯は、やがて視線だけを彼女へと向け、その切れ上がった瞳の奥にある峻烈な光で、春奈の淡い幻想を容赦なく射抜いた。


「綺麗に見えるんは、あんたがそう見たいからや。……この線の端々を見いや。普通のデッサンとは、筆圧の掛け方が根本的に違うとる」

 

 佐伯はルーペを春奈に手渡し、咲子の肩から首筋にかけての、ひときわ濃く描かれた一本の線を指差す。

 渡されたルーペには、彼の指先の体温が僅かに残っており、それが妙に生々しくて彼女の指先を一瞬だけ強張らせた。


「レンズを覗いて、よく確かめてみろ。一本の滑らかな線に見える箇所が、実際は、何度も、何度も、細かく修正されて重なっとう」

 

 佐伯の声は、感情を綺麗に削ぎ落とした氷のように、春奈の耳の奥へと染み込んでいく。

 

「それも、手が激しく小刻みに動いて、まともに鉛筆を動かせんかった男が、必死に線を補正した跡や。あんたの親父さんは、絵の素養なんか本来持っとらん。ただ、そうせざるを()ん何かに突き動かされて、必死に指先を動かしとっただけや」


「……動いてた? そんなん、ただの絵の技法やなくて……?」

 

 (……嘘やろ。ただの綺麗な絵に見えたのに、佐伯さんに言われて覗き込んだら、全然違う。美しかったはずのサキコさんの輪郭線が、まるで痛みにのたうち回る生き物みたいに、歪に蛇行して重なり合っとる。これ、お父さんがどれほど恐ろしい何かに怯えながら、鉛筆を握りしめてたかっていう証拠やないの……)

 

 拡大された世界の中では、美しかったはずの咲子の輪郭線が、残酷なまでの歪みを持って迫ってくる。

 紙の表面が何度も擦られ、鉛筆の芯が途中で何度も折れかけたかのように、不自然な濃淡が狭い範囲に密集していた。

 それは、描く喜びや愛おしさから生まれた線などではなく、恐怖や焦燥、あるいは逃れられない義務感によって、無理やり紙に擦り付けられた傷跡のようだった。


 佐伯は背中を丸めたまま椅子に深く寄りかかり、ポケットに両手を突っ込んで、容赦のない鋭さで事実だけを告げていく。

 だらしなく伸びた首元から覗く鎖骨の線が、西日を背に受けて暗い影を作り出していた。


「これは恋を語る線やない。……己の罪を悔いる線や。山城さん、あんたの父親はな、この女に恋慕の情を抱いてここへ匿ったんやない」

 

 佐伯はわずかに猫背を伸ばして春奈を正面から見据え、ひげに覆われた顔のまま、その完璧な論理の刃を突き立てた。

 

「自分の過去の過ち、あるいはこの女を裏切ってしまったことに対する、過酷な”贖罪”のために、筆を握っとったんや。愛の告白やなくて、神に許しを請うための苦行に近い。あんたが信じたい父親の姿は、この紙の上には一ミリも残っとらん」


 佐伯の徹底して無慈悲な分析が、春奈の頭のなかで勝手に創り上げていた、優しい父親という偶像を、一枚一枚剥ぎ取っていく。

 彼女を安心させてくれていた父の笑顔や、穏やかな普通のサラリーマンとしての記憶の断片が、彼の鋭い言葉によって次々と色褪せ、崩壊していくのが分かった。

 父親が人生の最後に至るまで縛られ続けていたのは、美しい愛などではなく、自分を責め立てる黒い後悔の鎖なのだ。

 その真実の重みに、春奈は呼吸の仕方を忘れたかのように、ただ肺の奥が苦しくなるのを感じていた。


 (お父さん……、どんな罪を背負って、どんな思いでこの絵を描いてたん……? 私の知っている、まじめで普通だったお父さんの日常が、音を立てて崩れていくみたい。底の見えへん真っ暗な亀裂が、私たちの足元に広がっていくわ……)


 彼女は、あまりの真実の重さに目眩を覚えながらも、ただじっと、その線の歪みから目を逸らすことができなかった。

 

 視界が涙で滲みそうになるのを必死に堪え、ルーペを持つ指先に力を込める。

 佐伯はそんな彼女を慰めることもなく、よれよれのTシャツの襟元をわずかに気にしてから、ただ静かに机の上の書類へと視線を戻し、再び冷たい沈黙を部屋のなかに満たしていった。

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