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<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第二幕 堆積する記憶と神戸の深淵編

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第18話 少女漫画の「ライバル」

 北野の邸宅での息詰まる調査を終え、大倉山にある佐伯の自宅兼仕事場へと戻ってきた頃には、外はすっかり夜の帳に包まれていた。

 乱雑に積まれた専門書や書類の隙間で、私は出されたお茶にも手をつけず、父の残したあまりにも切ない記録の余韻に浸っている。

 そこへ、前触れもなく事務所の重い扉が、立て付けの悪い音を立てて勢いよく開け放たれた。


 部屋のなかに流れ込んできたのは、夜の重い空気を一瞬で塗り替えるような、酷く鋭い香水の高慢な芳香。

 仕立てのいい紺色のスーツを完璧に着こなし、隙のないヒールを激しく鳴らして入ってきた女性の姿に、私は驚いて身体を硬くする。

 その女性は、怒気を孕んだ足取りのまま、手にした厚みのあるファイルを佐伯のデスクへ容赦なく叩きつける。


「頼まれていた北野の邸宅の登記情報と当時の事件の書類よ! これで満足、卓也!?」

 

「おお、仕事が早くて助かるわ。おおきに、理恵子」


 佐伯がいつもの調子で書類を受け取ろうとした瞬間、理恵子の切れ上がった瞳が、デスクの傍らに座る私へと向けられた。

 真っ赤な口紅の口元を不敵に歪め、値踏みするような鋭い視線を転がしてくる。


「へえ、それが今回の『お客様』? ずいぶんとまあ、お上品で世間知らずそうな、可愛いお嬢さんを連れているじゃない」

 

(な、なんなの、この人……。めちゃくちゃ綺麗だけど、目が全然笑ってない。それに、佐伯さんとの間に、私の知らない空気の壁みたいなものがある……)


 私は理恵子の圧倒的な大人の女の威圧感に気圧され、思わず椅子の背もたれに身を引いてしまった。

 東京から関西の大学へ進学し、そのままこの神戸の街で司法書士として働いているという彼女の洗練された佇まいと、佐伯との間に流れる昔からの腐れ縁のような空気感に、胸の奥が妙にざわつき始める。

 

 理恵子は、佐伯の端正な横顔をじっと見つめ、それから彼の身に纏う隙のない漆黒のスリーピースのスーツへと、激しい苛立ちの混じった視線を落とした。


「ねえ、お嬢さん。あなた、この男がどうしてこんなクソ暑い時期でも、狂ったように完璧な正装を崩さないか、教えてもらった?」

 

「ちょっと待て、理恵子。お前、何の話を」


 佐伯が眉をひそめて言葉を遮ろうとしたが、理恵子はそれを遮るようにデスクを激しく叩いた。バァン、と乾いた音が室内に響き渡る。


「うるさい、黙ってて卓也! あんたのその格好、いい加減に見ていて腹が立つのよ!」

 

 理恵子は一歩前へ踏み出し、佐伯の胸元に人差し指を突きつけた。剥き出しの敵意が、狭い室内を一瞬で支配していく。

 

「お嬢さん、この男はね、ただの呪縛に縛られている哀れな幽霊。死んだ婚約者との哀れな約束を死守しているだけよ!」

 

「婚約……者……?」


 その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、私の思考は完全に停止した。

 佐伯が、昔、命をかけるほど愛した人がいたという事実が、脳裏を殴りつける。

 

 佐伯は「お前、ええ加減にせえよ……!」と低い声で怒りを露わにし、椅子を蹴立てるようにして立ち上がる。

 その形相は、私がこれまで見たこともないほどに激しく、本気で怒りに満ちていた。

 しかし、理恵子も一歩も引かない。むしろ佐伯の胸ぐらに掴みかからんばかりの勢いで、さらに激しく怒鳴り散らす。


「何が『ええ加減にせえ』よ! いい加減にすべきなのはあんたの方でしょ! いつまでそんな恰好しているのよ!」

 

 理恵子の肩が激しく上下し、その切れ上がった瞳には、怒りと等しいほどの深い苦悶が滲んでいた。

 

「あの子が死んでから何年経っていると思っているの!? あんただけ時間が止まったまま、毎日毎日その窮屈な喪服を着込んで、一体誰に許されたいのよ!」


 佐伯は、奥歯を噛み締めながら理恵子を激しく睨みつけ、地を這うような声で言い返した。


「何も知らんお前が綺麗事抜かすな! 俺があの時、約束だけでもせんかったら、あいつは自分が忘れ去られる恐怖に怯えながら死ぬとこやったんや!」

 

 佐伯は自らの胸元を鷲掴みにし、上質な仕立ての生地を歪なほどに引き絞った。その指先は白く強張っている。

 

「この服はな、あいつがこの世に生きて、俺を愛してくれたっていう唯一の証明や! 俺がこれを脱いだら、あいつの生きた証が完全に消えてまう気がするんや!」


 佐伯の必死の反論に、理恵子の瞳が一瞬だけ激しく揺れた。しかし、彼女はその倍以上の声量で、佐伯の胸を突き破らんばかりに猛烈に叱りつけた。


「アホか! ふざけたこと言わないで卓也! あの子の生きた証が消えるわけないでしょ、私が、私たちがこうやって覚えているわよ!」

 

 理恵子は一歩も退かず、佐伯の顔のすぐ近くまで詰め寄った。その気迫に、周囲の空気がビリビリと震える。

 

「あんたがやっていることはね、あの子の思い出を守ることじゃない、ただの自己満足の免罪符よ! 生きているあんたが自分の人生をドブに捨てて、ボロボロになりながらそんな服にすがりついている姿を見て、あの子が天国でどんな顔をしているか考えたことあるの!?」


 理恵子は、せき止めていた感情が一気に決壊したかのように、最後は完全に涙声になり、ボロボロと大粒の涙を流しながら佐伯を厳しく叱りつけた。


「あの子が亡くなる直前、あんたに言ったあの言葉を……っ、いつまで呪いみたいに縛り付けているのよ……!」

 

 彼女の美しい顔が歪み、真っ赤な口紅の唇が小さく震える。大粒の涙が頬を伝い、デスクの書類へと次々に落ちて染みを作っていった。

 

「いつまでも、私の愛した『綺麗なあなた』でいてねって……あの子はあんたを縛り付けて、一生苦しめるために言ったんじゃないわよ! あんたのことが、誰よりも大好きだったから、最後にちょっとだけ我が儘言いたかっただけじゃない!」

 

 理恵子は涙を手で拭おうともせず、掠れた声を振り絞って佐伯の胸を激しく叩いた。

 

「あんたはそれを、今も馬鹿みたいに頑なに守り続けて! あの子が愛した姿を維持するためだけに、自分を擦り減らして、心を死なせて……そんなの、あの子が喜ぶわけないでしょ! いい加減に目を覚ましなさいよ、この大馬鹿野郎……!」


 理恵子の激しい叫びと、そこに込められたあまりにも深い情念は、鋭利な刃物となって私の胸の奥底を深く突き刺す。

 胸のなかに、今まで感じたことのないような、ドロドロとした熱い痛みが一気に広がっていく。

 それは、正体も名前も分からない、しかし確実に自分の心を腐食させていく、嫉妬という名の猛毒だった。

 激昂する佐伯と、怒りと悲しみに涙を流す理恵子。

 あまりにも切なく、そして固い二人の過去の絆を前に、自分が完全に蚊帳の外であるという事実が、なによりも辛かった。


(私、何をショック受けてるの……? 佐伯さんが誰を想っていようが、そんなの私には関係ないはずなのに。なのに、どうしてこんなに息が苦しいの……)

 

 張り裂けそうな胸の痛みに耐えかねて、私はそっと自分の衣服の上から心臓のあたりを強く掴んだ。

 

(ここにいたらあかん。私の入る隙間なんて、どこにもない……)


 限界だった。

 私はいたたまれなさに突き動かされるようにして、静かに椅子から立ち上がる。

 二人の視線がこちらに向く前に、この息が詰まる部屋から、佐伯の自宅から飛び出そうと、玄関の方へと足を向ける。

 しかし、その足が一歩を踏み出した瞬間だった。


「待ちなさい、山城さん」

 

「山城さん、どこ行く気や。待て」


 背後から、二人の声が同時に私の背中を鋭く引き止めた。

 驚いて振り返ると、理恵子は涙を拭うこともせず、真っ直ぐに私を見据えていた。


「あんたが今ここで逃げたら、この男は一生この部屋の暗闇の中で、死んだ女の幽霊と心中したままよ」

 

 理恵子は涙で濡れた顔のまま、毅然とした態度で私と佐伯を交互に指差した。その瞳には、親友を失った過去を背負う者としての真剣さがあった。

 

「この男の歪んだ執念の毒牙に捕まったのはあんたでしょ。なら、最後まであんたの目で、この男の本当の姿を見届けなさい。ここで引き下がっちゃ駄目!」


 理恵子が引き止めたのは、佐伯に過去の呪縛を断ち切らせるための、唯一の『現実の光』として、私を逃がすわけにはいかないという執念からだ。

 一方で、佐伯はいつもの不遜な態度を完全に失い、ただ酷く切迫した表情で私を見つめ、低い声で訴えかけてくる。


「今夜はもう遅い、外は暗いんや。大倉山の夜道を、こんな精神状態の女の子が一人で歩いて帰れるわけないやろ」

 

 佐伯は私との距離を詰めるように一歩踏み出し、その長い指先を僅かに震わせながらドアへの行く手を阻んだ。

 

「お前の父親の件は、まだ何も解決しとらん。俺の過去がどうであれ、俺はお前を安全に送り届ける義務がある。勝手に出て行くな」


 佐伯が引き止めたのは、どんなに私的な感情で揺れ動いていようとも、私の安全を守り、父親の調査を最後まで全うするという、彼なりの不器用で頑なな責任感の現れである。


 二人の異なる、しかし強い引き止めの言葉を受け、私はドアノブにかけようとした手を止め、その場に立ち尽くす。

 

 佐伯の身に纏う、あの仕立ての良いスリーピースが、今はもうこの世にいない誰かのために捧げられた、終わりなき喪服のように見えてしまう。

 それでも、引き止められた私の足は、どうしてもそこから動くことができなかった。

 私は、じわじわと込み上げてくる涙を誤魔化すように、ただきつく、血が滲むほどに自分の唇を噛み締めた。

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