第17話 窓越しの肖像画
老人の濁った視線が、邸宅の二階、あの沈黙を孕んだ窓辺へと向けられたのを確認し、佐伯は小さく顎を引いた。
彼は老人に丁寧な会釈を一度だけ返すと、迷いのない歩調で、吸い込まれそうなほど暗い邸宅の内郭へと歩みを進める。
玄関の鋳物の扉をくぐり抜けた瞬間、外の世界の暴力的な日差しは完全に遮断され、代わりにひんやりとした、湿った古い埃の空気が二人の全身を包み込んだ。
何十年という歳月が流れているはずなのに、磨き上げられていた長い廊下の床板は、油分を失いながらも、どこか直近まで手入れされていたような妙な生々しさを保っている。
一歩踏みしめるたびに乾いた床鳴りが響くものの、廊下の隅には埃の塊一つ落ちていない。
壁には、主を失って変色した油絵のキャンバスや、毛先が割れた筆が投げ出されたままのワゴンが佇んでいたが、それらもまるで、つい数日前まで誰かが触れていたかのように、整然と並べられていた。
春奈の靴底が床を叩くたびに、暗がりに堆積した奇妙な生活感が揺れ動き、肺の奥をじわじわと侵食していく。
(……お父さんが、毎週通って、自分の爪が割れるくらい必死に床を磨き続けた屋敷。でも、なんでこんな昔の画帳や部屋が、まるで時間が止まったみたいにそのまま残っとんやろ。お父さんが亡くなったんは、ついこないだやのに……)
春奈は、冷え切った自分の両腕を抱きしめるようにして、佐伯の漆黒の背中を懸命に追いかける。
階段を一段ずつ登るにつれ、窓から差し込む西日の光線が、宙に舞う無数の塵を金色に輝かせ、まるで直近まで呼吸していた人間の気配を伝えてくるようだった。
二十年以上前の部屋が、当時のままの姿で綺麗に維持されているという事実。
それはすなわち、父、正蔵がこの世を去る直前のその瞬間まで、この部屋の賃料を支払い続け、自らの手でこの空間を死守していたという事実に他ならない。
佐伯は、その踏み面の擦り減り具合さえも視線でなぞりながら、一切の無駄がない完璧な姿勢のまま、一歩一歩、その執念の深淵へと近づいていく。
二階の突き当たりにある部屋の前に辿り着くと、佐伯は白い手袋を嵌めた手をドアノブにかけ、一切の躊躇なくそれを回す。
室内に満ちていたのは、長期間閉じ込められていた古い紙の匂いと、僅かに酸化した金属のような、奇妙に鼻を刺す微かな残り香。
入室した二人の目に飛び込んできたのは、部屋の中央に置かれた古い机と、その上に残された一冊の表紙が酷く擦り切れた画帳だった。
アトリエの跡に残されたその古い記録の束を、佐伯は長い指先で、まるで傷つきやすい生き物に触れるかのような手つきで静かに開き始める。
ページをめくるたび、経年劣化で脆くなった紙の擦れる音が、誰もいない室内に大きく反響した。
そこには、父の几帳面でありながらも、当事の凄まじい筆圧によって紙の裏側まで凹凸が達している、狂おしい文字の連なりが遺されている。
万年筆の先端が紙の繊維を激しく削り、時には引き裂かんばかりの力で殴り書きされた文字群は、正蔵の内に渦巻いていた狂気にも似た苦悩を雄弁に物語っている。
佐伯の隣でその文字を覗き込んだ春奈は、ある一箇所に記された文字の羅列を見た瞬間、胸が押し潰されるような衝撃に襲われ、思わず息を詰まらせる。
『加納咲子。彼女の犯したとされる罪は、すべて仕組まれた嘘だ。僕が彼女をここへ隠す』
(サキコ……。お父さんが、人生を投げ打つみたいにして守り抜こうとした人の、本当の名前……)
春奈の脳裏で、卑俗な男女の愛憎劇という最悪の想像は完全に消し飛び、代わりに底の知れない巨大な歴史の闇が姿を現してきた。
咲子という女性は、誰かの愛に溺れた裏切り者などでは決してなかった。
彼女は、当時の政界を揺るがした凄惨な汚職事件のすべての罪を一方的に着せられ、世間から抹殺されかけた、あまりにも理不尽な犠牲者のようだった。
正蔵の日記の後半には、彼女の潔白を証明するための当時の公文書の控えや、父が必死に集めたであろう反証のメモが、びっしりと書き殴られていた。
新聞の切り抜きや、関係者の名前が乱雑に矢印で結ばれたその図式は、一人の男がどれほどの絶望の中で、死ぬ直前まで孤立無援の戦いを挑み続けていたのかを示している。
「……なるほどな。不倫の隠れ家やなくて、正義いう名の孤独な牢獄やったってわけや」
佐伯の低い呟きが、部屋の四隅の空間に、染み渡るように静かに吸い込まれていく。
彼は画帳を閉じると、ゆっくりとした足取りで、部屋の南側に位置するあの『風見鶏が見える窓』へと歩み寄った。
そのガラス窓の向こうには、北野の美しい街並みと、青空に鋭く突き刺さる風見鶏の館の尖塔が、絵画のように切り取られている。
外の観光客からは絶対に室内が見えないよう設計されたその窓枠の前に立ち、佐伯は、完璧に整えられた前髪の奥の目を僅かに細める。
窓ガラスには、正蔵が死の間際まで毎日血が滲むほどに拭き上げ、磨き続けた名残が、今なお不自然なほどの透明度となって光を透過させている。
(お父さんは、この窓の前に立って、どんな気持ちでそのサキコさんいう人の後ろ姿を見てたんやろ……)
春奈は窓辺に近寄り、自分の父親が亡くなる直前まで立っていたであろう全く同じ場所に、そっと足の位置を合わせてみる。
日記に記されていたのは、二人が会話を交わすことさえ拒み、ただ同じ絶望を共有していたという、胸が張り裂けそうなほどの沈滅の記録。
咲子が背負わされた汚名の重さに押し潰されそうになるのを、父はこの窓越しに、決して境界線を越えて触れることのない距離を保ちながら、ただその張り詰めた孤独を、自らの心を削りながら見守り続けていたのだ。
春奈が窓に手を触れると、ガラスを通じて伝わってくる夏の終わりの熱が、まるで正蔵の体温そのものであるかのように錯覚され、胸の奥がひどく熱くなった。
「山城さん、ここ見いや」
佐伯のぶっきらぼうな声に促され、春奈は彼が指差す窓の木枠の隅へと視線を落とした。
長年の埃と汚れに塗れた古い木肌の一角に、ごく僅かな不自然なほど濃い、青黒いインクの小さな染みが付着している。
それは、大倉山の屋敷で何度も目にしてきた、父の万年筆が吐き出す特注インクの成分と、完全に一致する色彩だ。
佐伯は、嵌めていた白い手袋を滑らかな動作で外すと、剥き出しになった人差し指の腹で、その小さな汚れを優しくなぞった。
彼の指先が、インクの油分と木枠の摩擦を感じ取るたび、佐伯の頭脳は、正蔵の精神状態を、異常なまでの解像度で復元していく。
文字を書くためではなく、ただ咲子の絶望に寄り添うあまり、握りしめたペンの先からぽつりと滴り落ちてしまった、父の涙のようなインクの痕跡。
佐伯の指先がそのインクの汚れをなぞる速度は、まるで正蔵の乱れた呼吸のテンポをそのまま模倣しているかのように、正確で酷く物々しかった。
「ここで、文字を綴るだけの無力な自分を、何度も呪うとったはずや。指先からインクが溢れるほどの、凄まじい精神の葛藤が、この僅かな汚れに残っとう。つい最近まで、ここの維持に執念を燃やしとった男の跡や」
佐伯の紡ぐ言葉は、乾いた部屋の空気を震わせ、まるで時間を逆行させるかのように、父、正蔵がこの場所でついこの間まで費やしていた息詰まるような絶望の時間を、ありありと室内に蘇らせていく。
彼の語る一言一言が、部屋の空気を揺らし、窓の外から差し込む西日の色さえも、当時の血のような赤へと塗り替えていくかのような錯覚を春奈に抱かせた。
(お父さんの……誰にも言えへんかった、痛いくらいの心の震えが、この部屋全体にまだ残っとうみたいや……)
春奈は、目頭が熱くなるのを堪えるように、ぎゅっと唇を噛み締め、窓の向こうで夕暮れの色に染まり始めた北野の街を見つめた。
佐伯は窓枠からゆっくりと指を離すと、いつもの不遜な態度を完全に消し去ったまま、ただ静かに春奈の横に寄り添うようにして立ち尽くしている。
その大きな背中は、これからさらに深まる真実の奈落へと進む彼女を、決して一人にはさせないという、揺るぎない覚悟そのもののようだった。
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