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<全話公開> 『終筆士』 書きかけの手紙に、さよならを  作者: 第三ひよこ丸
第二幕 堆積する記憶と神戸の深淵編

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第16話 北野の異人館へと続く坂

 六甲の山裾に広がる北野の街は、真夏の暴力的な陽光を浴びて、建物も石畳もすべてが白く発光しているかのように見える。

 観光客たちが吐き出す色とりどりの喧騒を避けるように、佐伯は迷いのない足取りで、さらに傾斜を増していく急な石段の坂道へと春奈を導いていく。

 

 海からの風が一切届かないこの界隈の空気は、濃い木々の緑の匂いと、太陽に焼かれて熱を持った舗装路の匂いが混ざり合い、呼吸をするたびに肺の奥が重く沈むような感覚を抱かせる。

 

 坂を一段登るごとに、背中に受ける日差しの重みが増し、まるで街全体が余所者の侵入を拒んでいるかのような、得体の知れない圧迫感が肌を刺す。

 春奈は、額に滲む汗を指先で何度も拭いながら、父の遺した手紙の隅に、震える筆跡で記されていた一節を頭の中で呪文のように反芻していた。


  

 『風見鶏が見える窓。あそこだけが、僕が自分に戻れる場所やった』


 

 (……あんなに優しかったお父さんが、家族に内緒で、この長い坂を何度も登って通い詰めた場所。その窓の向こうに、一体何があったんやろ?)

 

 春奈の思考は、熱に浮かされたように混濁し、石畳を叩く自分の足音さえも、どこか遠い世界の出来事のように聞こえる。

 隣を歩く佐伯は、この酷暑の中にあっても、隙のない漆黒の正装に身を包み、周囲の熱を一切寄せ付けないような、近寄りがたいほどの峻烈な美しさを際立たせている。

 

 (……佐伯さん、今日は一段と空気が尖ってるなぁ。いつもの適当な感じが全然せえへん。まるで、これから暴く真実に対して、最大限の礼を尽くそうとしてるみたいや)


 二人は、観光地図には載っていないような、蔦の絡まる古い煉瓦塀が延々と続く狭い路地の奥へと足を踏み入れた。

 突き当たりに佇んでいたのは、長い年月を経て外壁が淡く色褪せ、周囲から隔絶されたような佇まいを見せる、ある一軒の古い邸宅があった。

 佐伯は、歴史の重みを感じさせる黒い鋳物の門扉の前に立つと、一切の躊躇なく、その重厚なノッカーを三度度、硬い音で打ち鳴らす。

 乾いた金属音が静かな路地に響き渡り、ほどなくして、邸宅の奥からゆっくりと扉が開く気配が伝わってきた。

 現れたのは、磨き上げられた銀髪を上品に結い上げ、深い皺の奥に憐憫と鋭い光を等しく宿した、この屋敷を長年守ってきたという老いた住人であった。


 すると、さっきまで春奈に向けていた不遜で粗野な態度は一瞬で霧散し、佐伯は優雅に一礼して、驚くほど穏やかで洗練された声を響かせた。

 

 「突然の訪問、失礼いたします。お忙しいところ恐縮ですが、少々お伺いしたいことがございまして、足を運ばせていただきました。私は佐伯と申します」

 

 その言葉の響きは、北野の品格ある空気に完璧に溶け込み、相手の警戒心を解きほぐすような、心地よい調べを持っている。

  

 (……そうやった。この人のこの化けの皮は、もう何度も見てきた。依頼人である私には毒しか吐かへんくせに、外では完璧な紳士を演じてのける。この極端な落差こそが、この人の一番信用ならん部分なんや)

 

 春奈は、その優雅な仮面の奥にある目が一切笑っていないことを知っている。その眼差しこそが、彼の本質なのだと、これまでの調査の中で嫌というほど教え込まれてきた。


 佐伯は、胸ポケットからある古い写真を取り出し、それを老人の眼前に、壊れ物を扱うような手つきで静かに提示した。

 

 「山城という男について、当時のことをお聞かせいただけないでしょうか。……彼がこちらで、下宿人として部屋を借りていた頃のお話です」

 

 老人は、写真に写る春奈の父の姿を認めると、その一瞬、何かに怯えるように眼球を彷徨わせ、震える唇をゆっくりと開いた。

 

 「……あぁ。山城さんの……あの、二階の端の部屋を借りておられたお方やな。よう覚えとります。もう、二十年も前のことになりますやろか」

 

 老人の声は、頼りなさを持ちながらも、その内容は春奈の心臓を直接握りつぶすほどの衝撃を持って迫ってきた。

 

 「あの方は、私が管理しとったこの屋敷の二階の一室で……一人の女性を、世間の目から隠すようにして、ずっと匿っておられました」


 その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、春奈の頭の中で、これまで信じてきた父の潔白な虚像が、音を立てて無残に崩れ落ちていく。

 

 (匿ってた……? 女性を? お父さんが、お母さん以外の誰かと、こんな場所をわざわざ借りて、隠れて会ってたってこと?)

 

 春奈の膝がガクガクと震え、周囲の景色が真夏の熱に溶けて、混濁した色彩となって目の前を通り過ぎていく。

 だが、管理人の老人が語る証言は、春奈が反射的に連想したような、卑俗で不潔な男女の不倫劇などという生易しいものではなかった。

 

 「不倫や浮気なんて、そんな温いもんやありませんでした。あの方のことは、今も昨日のことのように思い出せるんです。……忘れられるはずがありません」

 

 老人は、自らの細い指をさすりながら、忌まわしい記憶の蓋を無理やりこじ開けるようにして言葉を繋いだ。


 「あの方は、ここへ来るとき、決まって手ぶらやありませんでした。いつも雑巾とバケツを持ち込んで……。私が管理する廊下も、自分が借りとる部屋も、誰に命令されたわけでもないのに床を這いつくばって磨き、窓を血が滲むほど拭いておられました。週に一度、必ずな」

 

 その異常なまでの執着を語る老人の声に、春奈は息を呑んだ。

 

 「まるで、自分の中にある消えへん汚れを、必死に洗い流そうとしとるみたいに見えて……。その横顔が、あまりに悲壮で、管理人の私でさえ見てるのが辛うなるほどでした。普通の隠れ家で楽しむような人は、あんな自分を切り刻むような顔で掃除なんかしまへん。その必死さが、この古い屋敷に染み付いてしもうたんですよ」

 

 老人の記憶に克明に刻まれていたのは、情事に溺れる男の姿ではなく、逃れられない罪悪感に苛まれ、自らを罰し続ける巡礼者のような苦悩であった。


 「山城さんは、あの方と会うとき、いつも何かに追われるような顔をして、震えておられた。掃除を終えると、ただ二人で、一言も喋らずにあの窓から風見鶏を眺めてはった。……あの部屋から漏れてくる死んだように重い沈黙は、今も私の肌に張り付いて離れんのです」

 

 老人は、風見鶏が見える窓を見上げるように、その視線を邸宅の二階へと、祈るような動作でゆっくりと移す。

 

 「あのご主人が隠していたのは、女やない。あの部屋に閉じ込めていたのは、もっと暗くて、誰も触れてはならん『沈黙』そのものやったんですわ」

 

 父が命を削って守ろうとしていたのは、一時の情事などではなく、家族さえも立ち入れないほどの、暗く深い深淵の秘密である。

 その事実を告げられた春奈の背中に、真夏の太陽が容赦なく降り注いでいるというのに、氷を這わせたような戦慄が走り抜ける。


 佐伯は、動揺する春奈を庇うようにしてさりげなく一歩前へ出ると、その大きな背中で彼女を外界の刺激から遮断する。

 

 「……左様でございますか。自ら清掃を買って出るほど、心に深い傷を負っておられたのですね。その、彼が匿っていた女性の素性と、彼女がその後どのような道を辿られたのか、どうか詳しくお教えいただけませんか」

 

 佐伯の声は依然として丁寧であったが、その奥底には、相手に拒絶を許さない鉄のような意志が脈打っている。

 坂の上から吹き下ろす熱風が、邸宅の周囲の木々をざわざわと波立たせ、二人の運命をさらなる暗部へと引きずり込もうとしていた。

 父が愛した『風見鶏の窓』は、今、その鋭い嘴で春奈の心を無慈悲に切り裂き、見たこともない真実の断片を吐き出そうとしている。


 (お父さん、あなたは一体、誰を、何から守ろうとしてたん……? 私たちの知らんとこで、どんな孤独を抱えてたん?)

 

 春奈は、眩暈の中で佐伯の黒い背中を必死に見つめ、これから訪れるであろう、これまでの人生を根底から覆すような衝撃に備えていた。

 

 その背中は、どんな過酷な真実が待ち受けていようとも、彼女を一人で地獄へ行かせはしないという、無言の誓いのように見えた。

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