第15話 第一の解答
真夏の夜の重苦しい湿った沈黙が、屋敷の最奥、突き当たりに鎮座する分厚い鉄扉の前で二人を立ち止まらせていた。
佐伯は、古びたスラックスのポケットから、重厚な真鍮の鍵束を取り出すと、その中から一際黒ずんだ一本を選び取った。
その扉の向こう側は、彼が「仕事場」と呼び、誰であっても足を踏み入れることを、厳格な規律をもって禁じている不可侵の聖域である。
「……ここを開けるのは、俺以外の人間ではあんたが初めてや。よう覚えとき」
佐伯の声は、単なる警告を遥かに超え、運命の濁流に身を投じる契約を迫るような重みを孕んでいる。
「今ならまだ、引き返せるで。扉を開けてしもたら、もう二度と、何も知らんかった頃の自分には戻られへん。それでもええんか?」
彼は鍵を鍵穴に差し込んだまま、あえて動かさず、春奈の瞳の奥を、試すような冷ややかな眼差しでじっと見つめた。
春奈は、逃げ場のない視線の圧力に一瞬だけ呼吸を詰まらせたが、すぐにその震える拳を強く、痛いほどに握り締めた。
「……ええです。佐伯さんが言うた通り、私はお父さんの物語の、最後の一行を読み切るって決めたんですから」
彼女の返答は、湿った空気の中に、硬い意思の礫となって響き渡った。
「どんなに怖い真実が待ってても、逃げへん。……そのために、ここまで来たんやから」
(……ここで頷かなかったら、私は一生、自分の人生を歩み始めることができひん気がする。佐伯さんが、その入り口に私を連れてきてくれたんや)
春奈の瞳に宿る、一点の曇りもない覚悟の火を見届け、佐伯はわずかに唇を歪ませて鼻から息を抜いた。
「……ふん。えらい威勢やな。なら、後で泣き言言うても知らんで」
佐伯は迷いを断ち切るように鍵を力強く回すと、蝶番が抗うように鈍い音を立て、鉄の扉がゆっくりと内側へ開かれる。
そこは、一切の陽光を拒絶し、浮遊する塵一つさえも許さないために設計された、漆黒の静寂が支配する空間だった。
換気扇の低い唸りだけが、まるで巨大な古の獣が深い眠りの中で漏らす呼吸のように、重く規則正しく室内の空気をかき回し続けている。
壁一面に整然と並んだ正体不明の薬品瓶や、無機質な輝きを放つ精密機械が、遮光カーテンの隙間から漏れる微かな街灯を反射し、怪しく光っていた。
佐伯は、普段の投げやりな動作を完全に捨て去り、祭壇に極上の供物を捧げる神官のような厳格な手つきで、一通の手紙を光学台の真ん中へと据えた。
「ここから先は、隠された光が真実を暴き立てる時間や。あんたの親父さんが遺した最後の残響、しっかりとその目に焼き付けておき」
佐伯が、特殊な波長を放つ照射装置のメインスイッチを指先で弾くと、暗闇の中に青白い、どこか死を予感させるような光が迸る。
冷たい光は紙の表面を舐めるように縦横無尽に走り、そこにあるはずのない色彩を、少しずつ残酷なまでの鮮明さで浮き彫りにしていく。
春奈は、無意識のうちに自らの呼吸を止め、瞬きをすることさえ恐れるように、白く浮かび上がる封筒の繊維を凝視し続けた。
心臓が内側から激しく叩く音が、耳の奥で壊れたメトロノームのように鳴り響き、全身の血流が一点に集中していく。
青い光の下で、何も書かれていないはずだった白紙の便箋の表面に、異質な変化が刻一刻と刻まれていった。
浮かび上がったのは、何らかの具体的な文字や、残された娘へ向けられた整然とした愛の言葉などではなかった。
それは、紙の繊維を乱暴に、そして絶望的にまで破壊し、裏側まで突き抜けるほどに深く刻み込まれた、ただ一粒の『点』である。
ペン先を紙に叩きつけ、そのまま凍りついたように動けなくなったかのような、痛々しいまでの叫びがその点には凝縮されている。
さらに、その『点』を中心に、同心円を描くようにして紙の表面が不規則に波打ち、毛羽立っているのが、青白い光の下で露骨に照らし出された。
「……文字やない。お父さん、何も書いてへんの……?」
春奈が掠れた声で問いかけると、佐伯は光学台を覗き込んだまま、苦々しい表情を浮かべて短く首を振った。
「……これは、インクの滲みとかやないんや。塩分を含んだ水分によって紙の組織が一度ふやけて、また乾いた、一生消えへん傷跡や」
佐伯の言葉が、逃げ場のない冷たい事実として、春奈の剥き出しの心へと鋭く突き刺される。
「文字が書けへんほど、手が震えとったんやろう。……代わりに、この場所にありったけの感情が降り注いだ跡や」
それは、書こうとして書けなかった膨大な言葉の代わりに、その場所へと降り注いだ、あまりにも深い絶望の涙の痕跡だ。
父は、この場所で何かを告発しようとして、あるいはあまりに重い何かを懺悔しようとして、ただペンを握ったまま、独りで泣き崩れたのだ。
(お父さん……。何を思って、こんなに泣いてたん。何を私に伝えたくて、この真っ白な紙を自分自身の涙で汚したん……)
春奈の視界が、自身の内側から堰を切ったように溢れ出した熱い雫によって、次第に歪み、溶け落ちていく。
あまりに重すぎる、死者の情念に触れた春奈の身体は、支えを失った操り人形のように、その場で膝から崩れ落ちそうになった。
――その瞬間。
背後から、熱を帯びた大きな厚みを持った手が、彼女の細い肩をしっかりと力強く包み込んでくれた。
(……暗闇の中で、佐伯さんの大きな手が私の肩に触れた。骨の髄まで響くような、この圧倒的な熱さは何……?)
「……しっかりせえ。ここで倒れたら、これを見つけた親父さんの思いが浮かばれへんやろ」
佐伯は、彼女の肩を掴んだまま、顔を限界まで近づけて、その耳元で熱い吐息とともに言葉を低く落とす。
狭い暗室という密閉された極限の状態の中で、古いインクの乾いた匂いと、春奈の肌から立ち上がる微かな香りが、幾重にも重なり合って溶け合っていく。
佐伯の手のひらから伝わってくる、力強く規則正しい拍動が、春奈の激しく乱れる鼓動と、まるで示し合わせたかのように重なり、同期していく。
「泣くな。泣いたら、あかん。あんたの親父さんが、ここでペンを止めて立ち止まった本当の理由は、これから俺らが必ず暴き立てるんや」
その声は、春奈の心を長年縛り付けていた透明な呪いを、一瞬で解き放つ福音のように、深く、優しく響き渡った。
「それが、あの涙を見届けてしもうた残された俺らの義務やろ。……逃げることは、もう許さへんよ」
「……はい。佐伯さん、私、逃げへん。最後まで、一緒にいてください」
春奈は、肩に乗せられたその手の、確かで少し荒れた感触を一生忘れまいと、自身の胸の奥深くに強く刻み込む。
彼女は、溢れる涙を自分の袖で乱暴に拭うと、再び青白い光の中に浮かび上がる、父の地獄のような苦悩の跡へと視線を戻した。
浮かび上がったものは、まだ物語の入り口にある第一の解答に過ぎず、これから先、さらなる暗い深淵が二人を待ち構えていることは明白であった。
しかし、今の彼女には、この聖域で同じ鼓動を刻み、隣に立ってくれるこの男という唯一の灯火がある。
二人の運命が、この瞬間を境に決定的に不可逆的に結びついたことを確信しながらも、春奈は真実という名の暴風雨の中へ、さらなる一歩を踏み出す覚悟を固めた。
窓のない暗室の閉ざされた空気の中で、二人の間に流れる時間は、外の世界の酷暑さえも忘れさせるほど、密やかに、そして濃密に繋がっていた。
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