第五話 聖女が差し出した鍵
第五話 聖女が差し出した鍵
夜明け前の鐘塔で、私は取り戻した原盤に新しい線を引いていた。
欠けた導線をすべて元へ戻せばよいわけではない。すでに吸脈釘に引かれて歪んだ地脈へ、急に正しい道を押しつければ、流れは逃げ場を失って破裂する。七本の銀杭を順に打ち、溜まった力を市外の休耕地へ逃がしながら、最後に戴冠井との接続を断つ必要があった。
「南西の避難路は、この青線でよいですか」
カイが差し出した市街図には、住民を誘導できる広い道が色分けされていた。肩の傷を縫ったばかりだというのに、彼は座って休むことを拒み、北境屋敷の従士たちへ避難の準備を指示している。
「大聖堂前は通さないでください。西の染物通りから、河岸へ誘導を。昨夜の方々なら、危険を信じてくださるかもしれません」
「すでにマルタが声をかけています。染物屋の親方が、避難路へ青い布を掲げてくれると」
あの幼子の母親が浮かんだ。地図には描けない信頼が、街の中に一本の道を作ってくれている。
「それから、傷が開いています」
「線を一本引き終えるまで見逃していただけないでしょうか」
「却下です。監督官が倒れれば測量令の効力まで争われます」
「職務上の理由だけですか」
カイの声に、ごく淡い笑いが混じった。
私は包帯を手にしたまま固まった。彼はすぐ表情を改める。
「すみません。困らせるつもりでは」
「……職務上だけではありません」
答えた途端、鐘塔の窓から入る冷気が顔に集まった気がした。
「私の指示を信じて、二度も怪我をした方を心配するのは、当然です」
「二度信じたことは、後悔していません」
まっすぐ返されると、結び目を作る指がうまく動かない。六年間、殿下へ成果を差し出すことはあっても、私が心配することを喜ばれた記憶はなかった。
「できました。今度は無理に剣を杭へしないでください」
「あなたが必要だと言えば、たぶんまた差し出します」
「だから困るのです」
思わず笑いかけたとき、階下で従士の鋭い声がした。
「止まれ! 顔を見せろ!」
カイが即座に私の前へ立つ。私は原盤を丸め、方位盤を握った。
階段を上ってきたのは、濡れた灰色の外套に全身を包んだ細身の人影だった。従士に短剣を向けられ、震える手で頭巾を外す。
現れた金髪に、私は息を呑んだ。
「ミレイユ嬢」
「セレナ様……どうか、先にこれを」
彼女は懐から百合の柄の銀鍵を取り出し、床へ置いた。戴冠核へ差された鍵と同じ形だが、こちらには光が残っていない。
「地下で殿下が持っていたのは複製鍵です。本物は、聖女であるわたくしが祭礼で差し込むよう預けられていました。西庫を開ける許可印も持っています」
カイは剣の柄から手を離さない。
「なぜ今になってこちらへ」
「殿下が、黎明祭を明日の朝へ繰り上げました」
「明日?」
私は窓の外を見た。祭礼まで五日のはずだった予定が、残り一日に変わる。
「証拠を広められる前に、祝福を完成させると。王城に集めた配給のパンを今朝から配り、明日の広場へ来れば聖女の守りを受けられると触れさせています。民を……たくさん集めるつもりです」
「光の見物人として、危険域へ」
原盤を抱く手に力が入った。
「あなたは、それを止めに来たのですか」
ミレイユ嬢は唇を噛み、床へ膝をついた。
「わたくしは、何も知らなかったとは申しません。あなたのお名前を削ることを、喜んで受け入れました」
銀鍵の隣へ、百合の留め金が落ちる。
「殿下は、セレナ様がわたくしの力を認めたくなくて完成を遅らせていると言いました。地図に金色の線を足せば、人々はわたくしを必要としてくれると。わたくしは測点の意味を尋ねもしないで、綺麗な光を選びました」
涙が床へ落ちた。
「昨夜、殿下が南街なら事故にできると言うのを聞いて、初めて、自分が飾ろうとしていたものの下に暮らす人を見ました。遅すぎることは承知です。それでも、わたくしが持っているものを使ってください」
許してくださいとは、彼女は言わなかった。
私はそのことだけは信じようと思った。
「証言できますか。地図の改竄に同意したことも、殿下が祭礼を強行することも、人前で」
「はい。聖女候補の名を失っても、裁かれても」
「失うのは当然です」
冷たく聞こえたかもしれない。けれど、ここで曖昧に受け入れれば、また誰かの痛みを美しい話で隠すことになる。
「その上で、あなたの証言で助かる命があります。立ってください。今は同じ危険を止めます」
ミレイユ嬢は泣いたまま、何度もうなずいた。
西庫は王城の外郭にあり、祭礼道具の搬出口へつながっていた。ミレイユ嬢の馬車なら検問を越えられる。私とカイは祭具係の外套を着て荷台に隠れ、北境の従士二人だけを伴った。
門前では近衛が、私の似顔絵を持って往来を調べている。
「聖女様、このような早朝にどちらへ」
問いかけられたミレイユ嬢の肩が強張った。私は荷箱の陰で呼吸を殺す。
「明日の祝福に使う銀の祭杖を確認します。殿下から、光に曇りがあってはならないと」
「なるほど。殿下もお喜びになります」
近衛は疑いもせず、門を開けた。馬車が進み出すと、ミレイユ嬢の握った手から血が引いていた。
「よく言えました」
私が囁くと、彼女は泣き笑いのように息を吐く。
「ずっと、この程度の言葉で人を騙せていたのですね。怖いのは今ではなく、今まででした」
西庫の中には、金色に塗られた祭具と花車が積まれていた。最奥の鉄扉に百合の許可印を当てると、鍵が音もなく外れる。
暗い棚に、銀杭が六本並んでいた。
「六本……」
必要なのは七本。私は一つずつ番号を確かめる。第一、第五、第九、第十七、第二十二、第三十測点。正規の予備杭だ。
「あと一本は、昨夜拾った第十三測点の杭がある」
カイの言葉に、胸が大きく上下した。
「そうです。抜かれた杭が、最後に戻る場所を守れる」
奪われた証拠だった物が、今度は救う道具になる。
従士たちが杭を布で包み、空の祭杖箱へ収める。私は棚の下段で、さらに一冊の薄い冊子を見つけた。祭礼当日の配置表だ。
「大聖堂前広場の四方に近衛。南の避難路には花車を並べて閉じる……」
カイが紙を見て、眉を寄せた。
「殿下は崩落を知らないどころか、群衆を逃げにくくしています」
「光を見せるため、広場から人が散らないように、と命じられました」
ミレイユ嬢の声が擦れた。
突然、倉庫の外で馬が嘶いた。
「聖女様! 殿下より急ぎのお迎えです! 西庫に侵入者がいるとの報せが!」
露見した。
カイが短く指示する。
「杭を裏の荷車へ。セレナは原盤と共に先に出る。私が時間を稼ぐ」
「また一人で」
「今回はミレイユ嬢と並んで表から出るだけです。聖女を斬るわけにはいかない」
ミレイユ嬢が銀鍵を握り直した。
「わたくしが殿下のもとへ戻れば、まだ時間を引き延ばせます。明日の壇上で証言するまで、疑いを確定させないほうがよいでしょう」
「危険です。今ここで匿うこともできます」
「逃げて隠れて証言するより、殿下の隣で嘘を否定します。わたくしが立ってしまった場所で」
恐ろしいはずだ。それでも、彼女は逃げないと決めた。
「銀鍵は」
「セレナ様に」
私の掌へ鍵が渡される。ひどく冷たく、ひどく重かった。
「では明日、壇上で。私が合図をしたら、広場の人へ西を向いて逃げるよう叫んでください」
「はい」
裏口から荷車を押し出す寸前、カイが私を呼び止めた。
「セレナ」
振り返ると、彼は見張りから隠れる一瞬だけ、私の手を取った。指輪のない左手を、傷つけることなく包む。
「明日が終わったら、職務ではない話をさせてください」
胸が鳴った。何を、と聞かなくてもわかってしまうほど、彼の目は誠実だった。
「それなら、必ず終わらせましょう」
「はい。必ず」
私たちはすぐに手を離した。今はまだ、守るべき人と打つべき杭がある。
祭礼を知らせる華やかな触れ太鼓が、朝の王都を巡り始めた。
光を求めて広場へ集められる人々を、今度こそ安全な道へ導くために、私は七本の銀杭を乗せた荷車を西の街路へ急がせた。




