第四話 王城地下の戴冠井
第四話 王城地下の戴冠井
王城北の古い水門は、城壁の蔦に半ば飲み込まれていた。
日が落ちるまで、私は地脈院の見習い用外套を裏返して着たまま、市中の測点を遠巻きに調べていた。近づけた四箇所には、どれも第十三測点と同じ震えがある。王都の東西南北から、目に見えない流れが王城へ絞られていた。
そして今、城下では私への布告が増えている。
『災厄の測量士を捕らえよ。黎明祭を恐れるな。聖女と王太子の祝福が王都を守る』
貼り紙を剥がす時間はない。真実は紙ではなく、今夜私が王城の底から持ち帰る。
「待たせましたか」
蔦の向こうから声がして、肩の力が抜けた。
カイは簡素な従士の上着に着替え、左腕に新しい包帯を巻いていた。後ろにはオルド院長ではなく、背の低い年配の女性が一人いる。
「こちらは北境屋敷の家令、マルタです。院長と帳面は彼女の管理する地下蔵へ匿いました。陛下への使者も放っていますが、王太子の近衛が謁見口を塞いでいる」
「陛下がご無事ならよいのですが」
「病を理由に休ませているという触れです。実際に誰が命令を出せる状態か、確認が必要です」
マルタが油布で包まれた巻物を私に差し出した。
「閣下の母君が北境へ嫁がれる際、王城の旧排水図を写してお持ちになったものです。南域の古い井戸へ通じる線がございます」
開いた図には、現在の城図では塞がれている水路が記されている。戴冠井の位置は、玉座の間の真下。私の方位盤が指した方向と一致した。
「入れます。水門から旧貯水槽へ進み、ここで上の保守廊下に出れば井戸の外周へ届きます」
「戻る経路も同じにできるか」
「崩れていなければ。ただ、流れが集まりすぎれば水路そのものが裂けます」
「では長居はできない」
カイは家令へ短く指示を伝えた。夜半までに戻らなければ、帳面と警告図を諸侯の屋敷と大聖堂へ写して配ること。王太子府だけが握り潰せない数へ増やすこと。
「あなたまで戻らなかった場合は、私も同じ名簿に加わるのでしょうね」
マルタが眉を上げた。
「当然でございます。お二人とも、証拠より先に埋まることのないように」
叱られたような気持ちで、私とカイは揃って頭を下げた。
水門の鉄格子は錆びていたが、完全には閉じていない。冷たい水へ膝まで浸かり、灯りを布で覆って進む。壁の向こうで脈動するたび、水面に青白い輪が広がった。
「セレナ、足元の段差は」
「右へ寄ってください。左の石は空洞音がします」
カイが私の指示どおりに足を置く。前を歩く私を急かすことも、危険だから後ろにいろと言うこともない。怖くないわけではなかったが、隣に仕事を信じてくれる人がいるだけで、暗い水路は進むべき道に変わった。
旧貯水槽を抜けたところで、音が変わった。
鐘のように澄んだ、しかし胸を内側から押す音だ。
「戴冠井が動いています」
私は保守廊下の石蓋を少しだけ持ち上げた。上には円形の地下室が広がり、その中心に黒い井戸がある。井戸を取り囲んで、王都の各方面から引かれた金糸が床へ縫いつけられていた。
銀の王冠を逆さにしたような装置が、井戸の上で浮かんでいる。
「あれが戴冠核です。まだ完全起動ではないのに、あれだけ流れを吸っている」
装置の下、石机の上には私の原盤が置かれていた。削られた署名の箇所には金板が重ねられ、王太子の飛竜紋と百合紋が並ぶ。
足音が近づき、私たちは蓋を細く残して閉じた。
「第一鐘で大聖堂前の観衆が光を見る。第二鐘で光は城へ昇り、私の冠に宿る。王都の者は、誰が選ばれた王かを二度と疑わぬ」
ルシアン殿下の声だった。
「でも、殿下。あの晩、地図は割れました。もし広場に人がいたら……」
ミレイユ嬢の声が震えている。
「セレナが妨害したからだ。君の光は本物だろう。今さら臆せば、あの女の言い分を認めることになるぞ」
「わたくしは、民が喜ぶ光を見せられると聞きました。地脈を冠へ集めるだなんて」
「同じことだ。民は美しい力を見て安堵する。多少の亀裂なら、祭礼後に測量院へ修繕させればいい」
爪が掌に食い込んだ。
多少の亀裂。昨夜、家を失った母子の顔を、殿下は知らないのだ。
「それに南の貧民街なら、老朽化による事故として処理できる。王の威光と比べて何を迷う」
隣で、カイの呼吸が一段低くなった。今飛び出して殴りかかっても不思議ではない言葉だ。それでも彼は動かず、私を見た。
証拠を、という目だった。
私は方位盤を取り出し、記録針を立てる。地脈の共鳴と、その場で発せられた声は、起動中の原盤に同期させれば再現できる。正式な証言には原盤を奪い返す必要があるが、ここで刻めば殿下の言葉を残せる。
方位盤が淡く光り、音を吸い始めた。
「ミレイユ。祭礼当日は私の隣に立て。銀鍵を差し込み、微笑んでいればいい。セレナの血印については、明朝にも反逆罪で資格を剥奪する。原盤は君を新たな登録者として受け入れる」
「血印は、資格を奪えば変えられるものなのですか」
「変えられぬなら壊す。代わりの盤を作ればよい」
その瞬間、方位盤の針が大きく跳ねた。
きん、と小さな音が地下室へ響く。
「誰だ!」
蓋を押し上げた近衛の剣先が光った。カイが私を横へ引き、突き込まれた剣を鞘で払う。
「走れ、セレナ! 原盤へ!」
隠れている意味は失われた。私は地下室へ飛び出し、石机へ駆けた。
「貴様……どうやってここへ入った!」
ルシアン殿下が顔を歪める。ミレイユ嬢は銀鍵を胸に抱いたまま、怯えて一歩下がった。
「測量士は、塞いだことにした水路ほど確認します。殿下、今のご発言は方位盤に刻みました」
「取り上げろ!」
近衛が二人、私を挟むように動く。カイが片方を受け止めたが、傷のある左腕が鈍った。
原盤まで三歩。私は床に走る金糸を踏まないよう跳び、石机の縁へ手をかけた。
そのとき、ルシアン殿下が戴冠核の鎖を引いた。
「盗人に渡すくらいなら、今ここで力を見せてやる!」
「いけません!」
ミレイユ嬢の叫びと同時に、逆さの王冠が回転した。
轟音。
地面が上下に揺れ、金糸が蛇のように跳ねる。石机が割れて原盤が滑り、私は倒れ込みながら両腕で受け止めた。
触れた瞬間、王都じゅうの悲鳴が手に流れ込んだように感じた。
南の測点が耐えられない。東の市場も、北門も、すべての力がこの井戸へ食いつかれている。
「カイ! 戴冠核を止めなければ、今夜にも崩れます!」
「止め方は!」
「銀鍵を抜くか、原盤から導線を切り替えるかです!」
銀鍵はミレイユ嬢が握っている。私が目を向けると、彼女は泣きそうな顔でこちらを見た。
「渡してください! あなたの祈りが民を救うというなら、今です!」
「わ、わたくしは……」
「ミレイユ、渡せばお前も反逆者だ!」
殿下が彼女の腕を掴み、もう片方の手で懐から別の銀鍵を抜いた。
「祭礼まで待つ必要などない。この複製で十分だ」
殿下がその鍵を戴冠核の中心へ深く押し込む。
光の柱が井戸から噴き上がった。
天井が割れ、落石が私とカイの間を塞ぐ。近衛たちも悲鳴を上げて出口へ逃げた。
「セレナ!」
「原盤は取りました! 水路へ戻ります!」
石の隙間越しに叫ぶ。けれど保守廊下への道は、噴き出した光で裂けていた。
原盤の上を走る線を読む。崩壊しない道は、井戸の西側を半周して、使われていない鐘塔の縦坑へ抜ける一本だけ。
「カイ、私の声のほうへ三歩下がって、右の柱へ! その柱は倒れません!」
「わかった。君も動けるか」
「はい。地図が戻ったので」
私は原盤を抱き、揺れる床へ指示を投げ続けた。光を跨ぎ、沈む石を避け、カイの姿が煙の向こうから現れる。
彼の肩には血が増えていた。それでも私を見つけると、最初に原盤を確かめて笑う。
「取り返しましたね」
「まだです。これで救えなければ、取り返したことになりません」
「ならば一緒に救いましょう」
鐘塔の縦坑へ辿り着き、狭い螺旋階段を上った。下では殿下が近衛を怒鳴りつけ、ミレイユ嬢の泣き声が遠ざかる。彼らも別の出口へ逃れたのだろう。
地上へ押し出されたとき、夜の王都のあちこちで青い光が瞬いていた。地割れの前兆だ。
私は原盤を鐘塔の床へ広げ、方位盤の記録針を当てた。先ほどの声が淡く蘇る。
『南の貧民街なら、老朽化による事故として処理できる』
カイが目を閉じ、怒りを噛み締めた。
「これを公にすれば、殿下は逃れられない」
「その前に人を逃がさなければ。吸脈釘をただ抜けば、裂けた流れが街へ飛びます。安全な地図を起動するには、正規の銀杭が七本必要です」
「西庫にあるという杭を取り戻す」
「守りは固められています」
「突破するだけが方法ではありません。殿下の傍らで、鍵を握ったまま震えていた人がいる」
ミレイユ嬢。
彼女を許せるかはまだ分からない。私の仕事を軽く扱い、名を上書きした人だ。けれど先ほど彼女は、本当に恐れていた。
遠くで朝告げ前の鐘が一度鳴った。
黎明祭まで、あと五日。
「選んでもらいましょう」
私は取り戻した原盤を胸に抱いた。
「美しい嘘の隣に立ち続けるのか、自分の目で見た危険を証言するのか。ミレイユ嬢自身に」




