第三話 封じられた原図室
第三話 封じられた原図室
王立地脈院の門には、王太子府の青い封鎖札が幾重にも貼られていた。
夜明け前の雨は細くなっていたが、通りの空気は重い。私が六年通った灰色の建物の前には武装した衛兵が並び、いつも早起きの見習いたちが灯す窓には明かり一つない。
「緊急測量令にもとづく記録の閲覧です。門を開けてください」
私は国王の命令を写した札を示した。隊長らしい男は、札より私の顔をじろりと見た。
「セレナ・アルヴェインには、地図破壊の疑いがある。地脈院の証拠に触れさせるなとの王太子殿下のご命令だ」
「国王陛下の命令より、殿下の封鎖が上だと?」
カイの声が冷えた。隊長は怯んだが、門の鍵に手をかけない。
「判断できる上官が来るまで、お待ちを」
「待っている間に記録が燃えれば、あなたの名も報告書に残ります」
カイが包みをほどき、第十三測点の銀杭を見せる。雨明かりの中でも、私の検査印は鮮明だった。
「昨夜、この杭が抜かれて民家が一軒沈んだ。私と住民二十七人が証人です。今、王都を守る記録を閉ざす者は、次の崩落の責任を引き受けることになる」
隊長の顎が動いた。
そのとき、院の裏側から灰色の煙が上がった。
「原図室!」
私は叫んで門へ駆け寄った。隊長もようやく振り返り、顔色を変える。
「鍵を! 早く!」
門が開くのを待てなかった。脇の低い鉄柵へ足をかけると、カイが下から私の体を支え、先に向こう側へ降ろしてくれた。続いて彼も外套を翻して越える。
「地下原図室は本館の下です。火が届く前に防火扉を閉めます」
中庭を横切ると、書庫棟の窓から炎が噴き出した。油の匂いがする。失火ではない。誰かが、最も燃えやすい閲覧記録から火を入れたのだ。
本館の玄関は内側から錠がかかっていた。私は植え込みの石の下から、夜勤用の予備鍵を掘り出す。
「こんな場所に鍵を?」
「院長が、測量士は建物より災害に早く入れなければならないと」
扉を開けると、煙が廊下を這っていた。壁沿いに進み、地下への階段にある鉄扉を閉じれば、原図室は守れる。
けれど階段前まで来たとき、奥の執務室から咳き込む音が聞こえた。
「誰かいる!」
「セレナ、扉は私が閉める。あなたは声のほうへ。ただし三十数えたら戻って」
初めて呼び捨てにされたことへ驚く暇はなかった。私は濡らした袖を口元に当て、煙の中を走った。
院長室の前には、倒れた椅子が外から噛ませてあった。蹴り飛ばして扉を開けると、床に老いた男性が倒れている。
「オルド院長!」
「……セレナ、か」
王立地脈院長オルド先生は、私を見つけるなり苦い笑みを浮かべた。手首には縄の跡があり、机の引き出しがすべて荒らされている。
「原盤の承認印を渡せと言われてな。断ったら、しばし休めとの待遇だ。まさか火までつけるとは」
「立てますか。原図室へ避難します」
「待て、机の裏……綴じた黒表紙を」
煙で目が痛む中、私は倒された机の背板を探った。薄い板が外れ、中から帳面が一冊滑り落ちる。
「封蔵庫出納簿だ。殿下が持ち出した物を、承認せぬまま控えた」
帳面を胸元へ入れ、院長の腕を肩に回す。廊下へ出ると、火はもう天井を舐めていた。
「セレナ!」
煙の向こうからカイが駆けてくる。彼は院長を私から引き受け、もう片方の腕で私の背を押した。
「防火扉は閉めました。地下へ」
階段を転がるように降りた直後、背後で梁が落ちた。轟音と火花が鉄扉の向こうに閉じ込められる。
地下原図室には燃えない白岩の棚が並んでいる。冷たい床に院長を座らせ、私は備え付けの水壺を開けた。先生が水を飲めることを確認してから、ようやく息を吐く。
「カイ、腕が」
彼の外套の左袖が焦げ、下のシャツに血が滲んでいる。梁の破片が掠めたのだ。
「浅い傷です。院長を連れて出られたなら、安いものですよ」
「怪我を安いと言わないでください」
強い調子で言ってしまった。カイは一瞬目を丸くし、やがて静かに笑った。
「では、丁寧に扱うよう努力します。あなたも含めて」
返す言葉に困り、私は救急箱を探すふりで顔を背けた。
やがて衛兵と従士が消火に回り、地下室の安全が確保された。オルド院長は腕を巻かれながら、黒い帳面を石机に置く。
「披露会の五日前、殿下の使者が封蔵庫を開けろと言ってきた。持ち出したのは未登録の吸脈釘を二十本、古式導線の金糸、それに戴冠核の銀鍵だ」
「戴冠核……戴冠井の底に封じた装置ですね」
私が尋ねると、院長は重くうなずいた。
「初代王が、地脈の光を冠にまとわせて王権を示した遺物だ。だが一人に力を集めるあまり、初代の祭礼の夜には南街が沈んだ。以後、井戸ごと封印され、測量士の教本にも戒めとして記されている」
カイが帳面の頁をめくる。
「受領者の署名は、ルシアン殿下本人。そして立会人がミレイユ・ラセル」
そこには二人の流麗な署名と、王太子の印璽が明確に残っていた。
「これを陛下へ届ければ」
「持ち出した事実は立証できます。しかし、殿下は危険を知らなかった、聖女の確認を信じたと言い逃れるでしょう」
院長の指摘に、私は原図棚へ向かった。
「危険を知らせた記録があるはずです。私が半年前に提出した、大聖堂前の迂回申請」
整理番号を覚えている。南域、第十三から第十七測点、冬季再測定。白岩の棚から筒を引き出すと、封が切られていた。
中の原図は残っている。だが、最終頁に綴じた警告書だけが破られていた。
「ここまで消すなんて……」
「控えはないのか」
「提出書類ですから、原本はここだけです。ですが」
私は地図の端を光に透かした。測量図には、検査のたびに方位盤を当てた位置へ微細な血印が残る。目ではほとんど見えないが、原盤登録者なら読み出せる。
「私の記録を、紙一枚だけのものだと思ったのなら間違いです」
親指の傷を開こうとすると、カイが止めた。
「今夜はもう十分血を使っています」
「でも、時間が」
オルド院長が救急箱から細い針を取り出した。
「一滴でよい。測量士の血印は覚悟を測るものではない。記録を開ける鍵だ」
私はうなずき、針先で薬指をわずかに突いた。図の第十三測点へ触れる。
青い線が紙面に浮かび、続いて私自身の文字が光となって現れた。
『大聖堂前地盤に進行空洞あり。黎明祭規模の荷重時、導線を戴冠井方向へ転じることは南域連鎖崩落を招く。いかなる祝典目的でも禁止を求む』
その下には、受領を示す王太子府の印があった。
カイが長く息を吐いた。
「殿下は、危険を知らされていた」
「はい。それでも吸脈釘を抜き、導線を変えました」
地上から怒鳴り声が届いた。消火を指揮していた従士が階段を駆け下りてくる。
「閣下、王太子府の近衛が到着しました。火事の嫌疑でセレナ嬢を引き渡せと」
「火をつけられ閉じ込められていた院長を前に、よく言えたものです」
カイは帳面と浮かび上がった原図を防水筒へ収めた。
「陛下へ直接提出します。院長、証言していただけますか」
「もちろんだ。だが陛下のもとまで通されるかは別だぞ。殿下は宮中の鐘楼と伝令をすでに握っている。民にはセレナが崩落を起こしたと流しているそうだ」
先生は咳をし、なおも続けた。
「それに、吸脈釘がすでに十数本打たれているなら、ただ抜けば流れが裂ける。安全な導線に組み替えながら、一斉に閉じねばならない」
「必要な銀杭は」
「正規杭七本と、原盤が必要だ。未使用の杭は王城西庫へ移された。セレナの完成原盤も、披露会の後に殿下の命で王城へ戻されたはずだ」
王城へ入らなければ、王城が沈むのを止められない。
燃える地脈院から裏手へ脱出したとき、東の空は雨雲の向こうでわずかに白んでいた。正面には王太子府の近衛が集まり、私の名を叫んでいる。
カイは私へ黒い外套を差し出した。
「顔を隠して、私の従士に紛れてください。あなたを拘束させるつもりはありません」
「カイはどうするのですか」
「辺境伯として、院長と証拠を伴って堂々と正面から出ます。彼らが私に手を出せば、陛下へ訴える理由が増える」
「一人で矢面に立たせるわけには」
「一人ではありません」
カイは、私が巻いたままの右手の布を軽く掲げた。
「私には測量士が導いた証拠がある。そしてあなたには、私が王城へ入る道を用意します。別々に動くのは逃げるためではなく、同じ場所へ辿り着くためです」
その目を信じられると思った。
「では、王城北の古い水門で。日暮れまでに、戴冠井への経路を測ります」
「必ず行きます」
煙と雨の中で一度だけ視線を交わし、私たちは別れた。
胸の防水筒には、削られても消えなかった警告がある。
あと六日。
王太子が作ろうとしている光が誰の命を燃料にするのか、今度こそ王城の底から明るみに出してみせる。




